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2014年4月1日火曜日

エラスムスの『痴愚神礼讃』のラテン語原典訳が新訳として中公文庫から出版-エープリルフールといえば道化(フール)③

(カバーはヒエロニムス・ボス画の『愚者の船』)

エラスムスの『痴愚神礼讃』が新訳で出版された。ラテン語原典からの日本語訳である。

これは快挙というべきだ。翻訳者は沓掛良彦氏。ギリシア・ラテンの古典文学の研究者であるだけでなく、とくに詩作品を見事な日本語に訳してきた文人肌の翻訳家でもあるからだ。

古代ギリシアの閨秀詩人サッフォーやその他の古代ギリシアの詩の翻訳、ラテン語のものでは古代ラテン詩人オウィディウスの『恋愛指南』(原題はアルス・アマートリア)や中世ラテン語の『アベラールとエロイーズ』の新訳もある。ともに岩波文庫だが、後者の副題を『愛の書簡集』とするなど、なんだか渡辺淳一の小説のタイトルみたいでもある。

そんな沓掛氏がなぜあえて新訳を出す決意をされたかについては「訳者あとがき」に詳述されている。大学出版会からでている、先行するラテン語原典訳があまりにもひどいからだという。

ふつうはこういうことは書かないものだが、固有名詞まで書いて批判している。関心のある人は調べてみるといいだろう。エラスムスの中世ラテン語はきわめつけに難しいとのことだが、よほど腹に据えかねたようだ。


『痴愚神礼讃』は「痴愚女神」の一人語り

『痴愚神礼讃』(1511年)だが、知らない人もいるだろうから簡単に記しておくと、15世紀から16世紀の近世(=初期近代)にかけて活躍したオランダの人文学者デジデリウス・エラスムス(1466~1536)による風刺文学である。

エラスムスはルネサンス期のみならず、欧州を代表する人文主義者の一人で古典語と古典文学に通じた大知識人。欧州域内における学生流動化を目的としたプロジェクトが「エラスムス計画」と命名されたように、エラスムスといえば欧州では知識階層であれば誰もが知っている名前だ。

『ユートピア』の作者で友人の英国人トマス・モア(1478~1535)に捧げたのが『痴愚神礼讃』である。その理由は、ギリシア語で痴愚を意味するモーリアの似ているからというが、もちろん同時代の同志とみなしていたからだろう。モアは処刑されたが、エラスムスは書斎での生涯を全うした。

内容は、痴愚女神が饒舌にしゃべり散らかす、一人語りの漫談風自慢話。この文庫版で200ページ以上、一人でずっとしゃべりつづけている。痴愚女神が徹底的に人間の愚行、とくに学者とカトリック聖職者たちを嘲弄するわけである。

(ホルバイン画 阿呆帽子をかぶった「痴愚女神」 P.21より)

中公文庫版に収録されたハンス・ホルバイン(1497~1543)のデッサンにもあるように、痴愚女神は中世以来のロバ耳に鈴のついた阿呆帽子をかぶった道化の恰好で登場する。阿呆(フール)とは道化(フール)のことである。

なぜ道化の恰好をしているのか、訳文の感じをつかんでもらうために痴愚女神の語りを引用しておこう。沓掛氏の訳文を堪能していただきたい。

王侯というものは、真実がお嫌いなのです。ところが私の阿呆どもは、不思議にも、ほかならぬこのことを常々やってのけるのです。つまり本当のことを言うばかりではなく、みんなの前で公然と王侯方を罵りながらも喜んでお耳を傾けていただき、同じことばを智者たちが口にしたなら死刑になりそうなことでも、阿呆の口を衝いて出ますと、信じがたいほど喜んでいただけるのです。真実という者は、人を傷つけないかぎり、本来聞く者の心を喜ばせる力を秘めているということですね。ですが神々は、阿呆たちにのみ、それをなさしめることとしたのです。(P.93~94)

つまるところ、『痴愚神礼讃』の痴愚女神も阿呆帽子をかぶった道化の姿だが、しゃべる内容は辛辣をきわめ、いってみれば攻撃型道化といったところだろう。阿呆(フール)とは道化(フール)のことである。宮廷道化(コート・ジェスター)のことを指している。現代ではテレビをつければ、いくらでも見ることができる。

(ホルバイン画 阿呆帽子をかぶった阿呆=道化 P.92)

愚者=聖者=賢者?

『痴愚神礼讃』は、原題は Morias enkomion, Id est Stultitiae Laus(モーリアス・エンコーミオン、イド・エスト・ストゥルティアエ・ラウス)とういう。前半はギリシア語、後半はラテン語である(・・本当は前半はギリシア文字)。

直訳すると『痴愚神礼頌(しょう)』としたほうが正確だが、日本では渡辺一夫によるフランス語からの重訳で『痴愚神礼讃』という書名で知られているのでそれに従ったということだ。

英語では、The Praise of Folly という。Folly というと、パリのカジノ・フォーリーを想起するが、愚行のことを指している。アメリカの歴史家(・・というより歴史ノンフィクション作家)というべきか)にバーバラ・タックマンという人がいるが、トロイ戦争からベトナム戦争までを扱った『愚行の世界史』という作品がある。その原題は The March of Folly である。

(ホルバイン画 攻撃型道化 P.111)

聖者と愚者は紙一重というよりも、オモテとウラの関係というべきか。ドストエフスキーの小説に『白痴』というものがあるが、「聖なる痴愚」というロシア的概念をベースにしている。愚者を装った道化はじつは賢者であるというのはシェイクスピアを持ち出すまでもなく、キリスト教の枠組みのなかにある西洋文学の主要なテーマである。

ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』もそうである。風刺文学というっものは同時代でないと理解しにくい。同時代人ならすぐにでもわかる文脈(コンテクスト)がわからないからだ。

しかも、ギリシア・ラテンの古典の知識など、エラスムスの同時代ですら一部の知識人を除いては欠いていたのであるから、同時代人を揶揄し風刺するにあたって自分の身を守るための煙幕であるとはいえ、ペダンティック過ぎるという気がしなくもない。

(ハンス・ホルバイン筆のエラスムス肖像画 wikipediaより)

今回の新訳は新鮮訳でもある。「注」はすべて読み飛ばして、本文を一気読みしたほうがスピード感があっていいだろう。「注」は気になったとこだけ参照すればいい。

日本語訳だけでも読んで面白いということは、それだけ苦心の訳業ということなのだ。





PS 『痴愚神礼讃』新訳の訳者・沓掛良彦氏による『エラスムス-人文主義の王者-(岩波現代全書)』)(岩波書店、2014)が5月に出版。名のみ知られて全体像が日本では知られていなかったエラスムスについての一冊である。(2014年6月20日 記す)






<ブログ内関連記事>

『アベラールとエロイーズ 愛の往復書簡』(沓掛良彦・横山安由美訳、岩波文庫、2009)-岩波文庫らしからぬタイトルで新訳された西欧中世の古典を読む
・・こちらも新鮮な新訳


道化(フール)について

本の紹介 『阿呆船』(ゼバスチャン・ブラント、尾崎盛景訳、現代思潮社、新装版 2002年 原版 1968)
・・『阿呆船』とは『愚者の船』のこと。ゼバスチャン・ブラント(1457~1521)はエラスムス(1466~1536)とは同時代人

本の紹介 『阿呆物語 上中下』(グリンメルスハウゼン、望月市恵訳、岩波文庫、1953)

エープリル・フール(四月馬鹿)-フールとは道化のこと

山口昌男の『道化の民俗学』を読み返す-エープリルフールといえば道化(フール)②

16世紀初頭のドイツが生んだ 『ティル・オイレンシュピーゲル』-エープリルフールといえば道化(フール)④


エラスムスと宗教改革関連

ヨーロッパの大学改革-標準化を武器に頭脳争奪戦に
・・「エラスムス計画」について触れている箇所がある

「アラブの春」を引き起こした「ソーシャル・ネットワーク革命」の原型はルターによる「宗教改革」であった!?

書評 『オランダ-寛容の国の改革と模索-』(太田和敬・見原礼子、寺子屋新書、2006)-「オランダモデル」の光と影
・・寛容を説いたエラスムスを生んだオランダのいま


ユートピアと架空の国

「ユートピア」は挫折する運命にある-「未来」に魅力なく、「過去」も美化できない時代を生きるということ

『ガリバー旅行記』は『猿の惑星』の先行者か?-第4回目の航海でガリバーは「馬の国」を体験する



(2015年6月26日、10月1日 情報追加)




(2012年7月3日発売の拙著です)





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