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2013年8月15日木曜日

「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる



日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあった。このような見方をしている人もいるのである。

それは、国文学者で民俗学者でもあった折口信夫(1887~1953)である。敗戦後の昭和24年(1949年)6月に発表した「神道の新しい方向」の冒頭で以下のように語っている。

昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでした。その或日、ふつと或(ある)啓示が胸に浮かんで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それはこんな話を聞いたのです。あめりかの青年達がひよつとすると、あのえるされむを回復する爲に出来るだけの努力を費やした、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、と。もしさうだつたら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起こつても来ました。・・(以下略)・・
(出典:「神道の新しい方向」1949年 『折口信夫全集第二十巻 神道宗教篇』 P.461 傍線はオリジナルでは右サイド。ただし漢字は新字体に直した。ゴチックは引用者=さとう)

ほぼ同じ内容の発言を、敗戦からほぼ一年後の昭和21年(1946年)8月に神職の人たちを前に講演のかたちで行っている。翌年の昭和22年に「神道宗教化の意義」という論文にまとめられている。


私は終戦前に、牧師の団体に古典の話をしたことがあるが、その時に牧師達は、記紀に現れてゐる物語の或ものが、我々のきりすと教の旧約聖書の神話と、殆(ほとんど)同じだといふことを言いだした。それは、神道にも、きりすと教にも比較研究に値するものを、持つてゐるといふことになる。
其(その)人達のお話の中の、「或はあめりかの青年達は、我々と違つて、この戦争にえるされむを回復する爲に起こされた十字軍のやうな、非常な情熱を持ち初めてゐるかもしれない」という詞を聴いた時に、私は愕然とした。何故なら、日本人はその時、日本人が常に持つてゐる露悪主義が世間に露骨に出て、戦争に疲れきつてゐた時だつたからである。さうして日本人はその時、神様に対して、宗教的な情熱を持つていなかつた。我々にも十字軍を起こすやうな情熱はないのだ。・・(中略)・・戦争中の我々の信仰を省みると神々に対して悔いずには居られない。我々は様々祈願をしたけれど、我々の動機には利己的なことが多かつた。さうして神々の敗北といふことを考えなかつた。我々は神々が何故敗けなければならなかつたか、と言ふ理論を考えなければ、これからの日本国民生活はめちゃめちゃになる。・・(中略)・・それほど我々は奇蹟を信じてゐた。しかし、我々側には一つも現れず、向うばかりに現れた。それは、古代過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現に神を信じなかつたのだ。だから過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現実に神の信仰を持つてゐないのだから、敗けるのは信仰的に必然だと考へられた。・・(以下略)・・
(出典:「神道宗教化の意義」1947年 『折口信夫全集第二十巻 神道宗教篇』 P.445~446)

現役の米国大統領ジョージ・ブッシュ(ジュニア)から「十字軍」というコトバが不用意に(?)出てきたのは、2001年の「9-11」のテロ事件の追悼式においてであった。

報復としてのアフガニスタン紛争やイラク戦争などの軍事行動が「第十次十字軍」(The Tenth Crusade)と言われたのは、歴史的な意味での十字軍になぞらえた名称であるが、イスラーム側で激しい反発を招いたことを記憶している人も少なくないだろう。

アメリカ側の「十字軍(クルーセイド)」に対して、テロリスト側は「聖戦(ジハード)」と応酬、まさに政治学者のハンチントンの著書のタイトル「文明の衝突」ともなりかねない状況だったのだ。

そのとき思い出したのが先に引用した折口信夫の敗戦後の発言である。日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったという認識を示した発言である。しかも、宗教的情熱にあふれていたのはアメリカ側であり、必勝祈願という日本側の形骸化した国家神道は宗教的情熱をともなうものではなかったという痛切な反省である。日本政府は国家神道は宗教ではない、としていたのであった。

この文章を知ったのはずいぶん前のことだ。折口は戦争末期にキリスト教関係の団体からよばれて「古事記」についての講義を行ったらしい。

その後、『神道学者折口信夫とキリスト教』(濱田辰雄、聖学院大学出版会、1995)という本で、キリスト教関係者とは沖縄出身の宗教研究者 比屋根安定(ひやごん・あんてい)であることを知った。

ネット上の 「世界宗教用語大事典」によれば、比屋根安定の経歴は以下のようになっている。

【比屋根安定】 宗教史学者・牧師。東京出身。青山学院神学部・東大宗教学科卒。青山学院・東京神学大・ルーテル神学大教授(1892~1970)。

比屋根安定はキリスト者であったが、民俗学にも目配りのきいた宗教学者であった。『諸宗教事典』(聖文舎、1963)にはその成果が十分に反映されている。「折口信夫」という項目もある。 

内弟子であった国文学者で歌人の岡野弘彦氏の回想によれば、比較宗教学の研究も行っていた折口は英文の宗教学関連専門雑誌も読んでいたという。キリスト教にある種のシンパシーを感じていたらしいことは、日本の神の本質が現象的には多神教的でありながら、限りなく一神教に近いという発言にも反映しているような気もする。

おそらくキリスト教への関心は、折口信夫が平田篤胤(ひらた・あつたね)の大きな影響を受けているからでもあろう。国学者の平田篤胤はじつに多芸多才な人でもあったが、ひそかに入手した漢籍でキリスト教を知り、その教えを換骨奪胎して自分の著作に活用しているくらいなのだ。

『折口信夫全集第二十巻 神道宗教篇』に収録されている「平田国学の伝統」という論文にもあるように、折口信夫もその師である柳田國男も、国学者の平田篤胤の大きな影響を受けている。民俗学を「新国学」と表現したのもそのためである。

折口信夫の同時代人で、思想家でもあった陸軍軍人・石原莞爾は、日蓮主義の法華経信仰に基づいて「世界最終戦争論」を主張していた。このこともあわせてみると、「宗教戦争」であった日米戦争の本質についても考えてみる必要はあると思うのである。

いまでもマスコミは「終戦記念日」という名称をつかいつづけているが、ほんとうは「敗戦記念日」というべきだ。たしかに一般国民の実感としては戦争が終わったというものだろうが、日本は原子爆弾という非人道的兵器によって完膚なきまでに叩きのめされ、そして敗れ去ったという事実を認めない限り、いつまでも自己欺瞞がつづくことになる。

「正常化」するためにも「敗戦」という事実を認識することが必要なのだ。「先の大戦」の敗因についてはさまざまな分析がなされつづけているが、精神面でも日本は負けていたという事実を認識することも重要なことである。

『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)によれば、 折口信夫は敗戦後、弟子の岡野弘彦氏に、憂い顔でこう洩らしていたという。「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」。 68年後のいま、この発言をアタマから否定できる人ははたしているだろうか?

日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったという発言は極端に響くかもしれない。しかしながら、本質を突いたものであることが否定できないのはそういう意味なのだ。





<ブログ内関連記事>

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・「折口信夫は敗戦後、弟子の岡野弘彦に、憂い顔でこう洩らしていたという。「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」(P.263 注23)。 日本の神は敗れたもうた、という深い反省をともなう認識を抱いていた折口信夫の予言が、まさに的中していることは、あえていうまでもない」

書評 『折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)
・・「古代日本人が、海の彼方から漂う舟でやってきたという事実にまつわる集団記憶。著者の表現を借りれば、「波に揺られ、行方もさだまらない長い航海の旅の間に培われたであろう、日本人の不安のよるべない存在感覚」(P.212)。歴史以前の集団的無意識の領域にかつわるものであるといってよい。板戸一枚下は地獄、という存在不安」

書評 『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)
・・「私は大学時代から、中公文庫版で『折口信夫全集』を読み始めた。日本についてちっとも知らないのではないかという反省から、高校3年生の夏から読み始めた柳田國男とは肌合いのまったく異なる、この国学者はきわめて謎めいた、不思議な魅力に充ち満ちた存在であり続けてきた」

「役人の一人や二人は死ぬ覚悟があるのか・・!?」(折口信夫)


書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに

書評 『マンガ 最終戦争論-石原莞爾と宮沢賢治-』 (江川達也、PHPコミックス、2012)-元数学教師のマンガ家が描く二人の日蓮主義者の東北人を主人公にした日本近代史

「精神の空洞化」をすでに予言していた三島由紀夫について、つれづれなる私の個人的な感想

『王道楽土の戦争』(吉田司、NHKブックス、2005)二部作で、「戦前・戦中」と「戦後」を連続したものと捉える
・・連続はしているが敗戦によって「神がやぶれたもう」た戦後は・・・


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