「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2010~2017 禁無断転載!



2011年2月6日日曜日

世の中には「雑学」なんて存在しない!-「雑学」の重要性について逆説的に考えてみる


 2000年に初めて自分のウェブサイトを立ち上げたとき、「発想の引き出し」というページをつくって以下の文言を記しておきました。
 この考えはまったく変わっていないし、首尾一貫して続けていることは、このブログを読んでいただければすぐに理解できることでしょう。

 発想の引き出し-雑学"曼荼羅"(まんだら)-

 思考の柔軟性
発想の引き出しは、ナレッジ(知識)レベルでも、あればあるほどよいのです。ビジネスをビジネスという狭い枠組みのなかだけで考えようとする悪いクセが、日本人にはついてしまっているのではないでしょうか? 

 ビジネスは社会の一部であり、その社会を研究する社会科学も、自然科学や人文科学と切り離して考えることは出来ません。
 社会科学に限ってみても、ビジネスや経営を、政治、宗教、民族、軍事、環境問題、情報技術、生命倫理等と切り離して考えていては、先を見通すことも出来ません。

 ここでは一見ビジネスとは関係ないようなテーマを取り扱いますが、すでにいまここに出現しつつある「知識社会」においては、ヒントになる情報や視点があるかもしれません。私(わたし)的には、ビジネスとは関係ないとしても、知的好奇心の赴くままに追求したいテーマでもあります。

 もちろん、ナレッジ(知識)段階にとどまっていてはいけません。知識のドライバー(推進力)である知恵(智慧)を身につける努力も大切です。とはいえ、発想の枠組みを広げていく努力は、無心に遊ぶこどものように、楽しみながら拡げていきたいものですね。

 なにやら「マニフェスト」のような文章ですが(笑)、どこかの政党と違って、私はこのマニフェストにいささかの変更の必要も認めません(笑)。また、今後も変更することもないでしょう。

 この精神は当然のことながら、このブログにも全面的に反映されています。私は知識に対しては禁欲的な人間ではないので、貪欲に知識をむさぼり食う肉食獣のようなものです(笑)。

 2000年当時はまだ一般にはホームページと言われていましたが、最近ではウェブサイトと正式名称が定着したのはたいへんよいことです。2000年当時は、デキるビジネスマンは自分の名刺に自分のウェブサイトのドメイン名を入れるべきだ、などと言われていたのを思い出します。

 現在は、自分でブログ(=ウェブログ)ももてるし、フェイスブックなどがその機能を大幅に代替するようになってきている。いい時代になったものです。

 そのため、自分の個人用ウェブサイトは全然更新しないままになっています。とはいえ、nifty にはウェブサイト維持費用は払い続けて公開は続けているのは、仕事用のウェブサイトとは別にしたいのと、自分の過去ログは思い出(?)として活かしておきたいという意味もあります。
 
 「自分の、自分による、自分のための」情報整理」は、頻繁に更新しており、このページが私にとっては文字通り「ホームページ」として活用しています。このページのヒントは、当時は大流行していた野口悠紀夫の「超整理法」ですね。


お互い無関係だと思っていた雑多な知識が一気に「つながる」という体験

 私は昔から「引き出し」が豊富だだとか、「守備範囲が広い」とかいわれてきました。どんな話題でもついていけるということを意味しているようです。海外でも「こんなにアタマのいい人は会ったことがない」(?)などといわれたことも多々あります。

 だが、特別アタマがいいというわけではないのです。

 大学だって、ギリギリのスレスレ合格で入学、就職活動もバブル期だったのに、えらく苦労した不器用な人間です。まあ、「人間万事塞翁が馬」ですからね。何がどう転ぶかは人間にはわかりません。天のみそ知るということでしょう。

 だが、これまでの人生、自分が好きなことを最優先して、自分が面白いと思うことをやってきたことは自慢できます。もちろん、好きなこと、面白いことだけでメシが食えるわけではないので、人一倍苦労してきたわけですがが(苦笑とため息・・)。
 おそらくその「自分が好きなこと」の範囲が、フツーの人に比べると、はるかに広いようなのです。

 あるときふと気がついたのは、私は世間で言ういわゆる「雑学」がきわめて豊富なだけでなく、その「雑学」のすべてが受け売りではなく、自分が体験してきたものを読書で肉付けしてきたものか、あるいは本で読んだ知識がアタマのなかで堆積して、発酵して「腐葉土」になってきた結果なのだということでした。

 膨大な知識がアタマのなかでつながるとき、それは自分にしかない「引き出し」となります。お互いどんな矛楯した話であっても、自分という肉体をもった人間のなかでは矛盾なく存在可能です。

 これは、「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん) に書きましたが、いままでまったく関係ないと思っていたものが突然つながる、という神秘的な体験をつうじて深く実感したことです。
 
 「就職して3年目にそれまでバラバラに存在していたものが一気につながるのを感じた体験(25歳)」。「留学してから3ヶ月で英語が突然聞こえるようになった経験(27歳)」。いずれに「3」にまつわるものですが、これらはある意味では「意識の変容」体験といってもいいようなものでした。

 このように、いったん知識が自分のなかで「つながる」のを実感するのを体験すると、さらに、さらにという意欲が自分を駆動していくことになるのです。もはや後戻りすることを心配する必要はなくなります。少なくとも私についてはそうなのです。


日本マクドナルドを立ち上げて成功させた起業家の藤田田は、つねに「雑学」の大切さを説いていた

 日本マクドナルドを立ち上げて成功させた、カリスマ的起業家の藤田田(フジタ・デン、1926~2004)は、つねに「雑学」の大切さを説いていました。

 「日本人のビジネスマンは経営関連の話しか関心がないので視野が狭い、それにくらべてユダヤ人商人はどうだ?」、と。

 たとえば、次のように多くの著書のなかで「雑学」の重要性を説いて止まなかったことは知っておいてほしいと思います。

 せっかくの機会なので、発言を引用しておきましょう。繰り返しは多いですが、これはいかに「雑学」が重要か、なんど説いてもそれが過ぎることはないと確信していたからでしょう。

『ユダヤの商法』(ワニブックス、1972)

-14 雑学に強くなれ

 ユダヤ人とつき合ってみればよくわかるが、ユダヤ人は「雑学博士」である。しかも、それが通りいっぺんの浅い知識ではなく、博学なのである。ユダヤ人と一緒に食事のテーブルをかこむと、彼らの話題が、政治、経済、歴史、スポーツ、レジャーと、あらゆる分野にわたって、豊富であることに驚かされる。
 ユダヤ人は商取引とはまったく関係ないと思われるようなことも、じつによく知っている。大西洋の海底に住んでいる魚の名前、自動車の構造、植物の種類-などに関する知識ですら専門家に近い知識をもっている。
 こうした豊富な知識が、ユダヤ人の話題を豊富にし、人生を豊かにしていることはいうまでもないが、商人としての的確な判断を下すためにどれほど役立っているかは、はかりしれないものがある。雑学に支えられた広い視野。その視野に立って、ユダヤ人は正確な判断を下してくるのである。
 「商人はソロバンさえできればよろしい」
 という日本的な考えが、いかに視野の狭い、非ユダヤ的な考え方であるか、改めて論じるまでもない。
 物事をひとつの角度からしか眺められない人間は、人間としても半人前だが、商人としても失格である。(P.41)

-40 メシの時に仕事の話はするな
 
 (前略)しかしあらゆることを話題にするといっても、やはりタブーはある。ユダヤ人はY談はほとんどしないから、とりたててタブーであると書く必要もないが、戦争と宗教と仕事に関する話は、絶対にしてはならないという暗黙の掟がある。(P.108)

『頭の悪いやつは損をする(新装版)』(藤田田、ワニブックス、1999 単行本初版 1974)

 欧米人は話してみるとよくわかるが、雑学の大家である。ありとあらゆることに精通している。
 これに対して、日本人の一流財界人は、経済のことを狭く知っているにすぎない。彼らが欧米人ほどでっかく儲けることができない理由も、そこにある。金儲けを志すならば、知識は狭く深くではなく、広く深く身につけるべきである。狭く深く知っている代表的な人といえる大学教授に金儲けの名人はひとりもいないことをよく考えるべきである。
 私はこの長所をできるだけ取り入れるようにしてきたつもりである。
 彼らの雑学は広範囲にわたる。もちろん、彼らの頭の中には国境などというものはない。彼らは豊富な雑学をバックに、国際的な視野で金儲けについて考える。だからその儲けは段違いにでかいのだ。
 日本人にこれから先、絶対に不可欠になってくるのは国際感覚である。国際感覚のない者は、儲かるどころか乞食になるしかない。(P.172)

『勝てば官軍-成功の法則-』(KKベストセラーズ、1996)

-14 24時間メモをとれ 
   あらゆる雑学はビジネスに役立つ(P.68)
-23 名刺より話題を出せ(P.86)

 内容は前記の二つの著作とほぼ同じなので省略。

 藤田田がこのように書いているのを読んだとき、まさにこれだと我が意を得た気持ちになったのは言うまでもありません。

 1970年代はじめ、日本人がエコノミック・アニマルと世界中から揶揄されていた時代の発言です。その後っバブル時代を経て、低成長時代を生きる日本人ですが、果たして藤田田が語った状況が改善されたといえるでしょうか? 果たして、どれだけのビジネスパーソンが、藤田田の教えを自分のものとして生きてきたのでしょうか? 
 もしそうしてこなかったのであれば、実にもったいないことです。

 彼は、話題になった本は小説まで含めてかき集め、読書という趣味を共有する奥さんと手分けして読みまくり、「雑学」を文字通り貪欲にかき集めていたらしいのです。そこまでしていた人もいるのです。

 いま2011年現在で、もっともホットなIT関連の話題といえばフェイスブック(facebook)でしょう。
 その創業者でまだ26歳のマーク・ザッカーバーグは事業拡大に時間が追いつかないのでハーバード大学を中退しましたが、高校在学中にはすでにハッカーとして名を上げていただけでなく、フェンシング部に属しては大会に出場し、ギリシア語もラテン語もヘブライ語もマスターしていたそうですね。興味の対象が実に幅広い。

 まさに藤田田の言うとおりの典型的なユダヤ系。しかも、創業後には商才も発揮しているザッカーバーグは、藤田田いうところの「ユダヤの商人」でもあるわけですね。もっとも、ザッカーバーグ自身は世界を変えるということのほうが重要で、あまりカネそのものには関心がないようですが、カネは後からついてくるということを端的に示した事例になっているといってよいのでしょう。


"try to know something about everything, everything about something" だからこそ、"something about everything" としての「雑学」が不可欠だ

 「雑学」とは相対的なものです。誰もがなんらかの形で特定の「専門分野」をもってメシのタネにしているのは、個人で生きていても勤め人であって同じことです。

 だが、その「専門分野」の知識は、それでメシを食っている当人にとっては必要不可欠な専門知識であっても、それ以外の一般ピープルにとっては「雑学」以外の何者でもないのですね。これが相対的だという意味です。

 "try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと に書いた内容に重なりますが、"everything about something" は、ある特定の「何か」についての「すべて」、つまり「専門知識」のことですね。
 これに対して "something about everything" は、「すべて」についての「何か」、つまり自分の「専門分野」以外のすべてについての「雑学」ということになるでしょう。

 この意味において、「雑学」を知っていることは、自分以外の人たちとコミュニケーションするうえできわめて重要なことがわかると思います。

 自分の専門ではなくても、他人の専門分野の「さわり」ぐらいは知っておきたいものです。ディテールまで正確に把握することまでしなくていいのです。専門じゃないんですからね。勉強じゃないんですから。

 私も営業担当者には雑学の重要性を説いてきかせてきました。とくに「県人性」の本は、対人折衝が仕事の営業担当者には必須の知識であるという理由から推奨してきました。

 営業担当者は自分が扱っている商品やサービスについては詳しく知っていても、適切な「雑談」の仕方が身についていない人が少なくないようです。「雑談」こそが、顧客が商品購入へと向かうイントロダクションとして非常に重要なのですが・・。その意味では「雑談」はほんとうは「雑談」ではないのです。

 ところが、私自身はいわゆる「雑学本」はほとんど読みません。人に薦めておいてなんだと言われるかもしれませんが、あるとき思ったのは、これはあくまでも他人が書いた「雑学」の本であって、読んでいる自分とは関係ない話ばかりだ、ということです。

 「雑学本」は読んでいるときは、ああ面白いなと思っても、読み終えたとたんにほとんど忘れてしまうのは、自分には関係のない、それぞれがそれぞれがつながりのない断片的な話ばかりが詰め込まれているからではないか、と。


私にとっての「専門知識」は、天体物理学者にとっては「雑学」以外のなにものでもない

 いままで「雑学」というコトバを使ってきましたが、一般的にいう「雑学」というコトバには、正直なところ、強い違和感を感じます。
 
 「自然界には雑草なんて存在しない、人間が勝手に分類しているだけだ」。かつて昭和天皇がこのような趣旨のことをクチにされていたと、どこかで読んだことがあります。

 生物学者で、那須の御用邸周辺の植物についてのご著書もある昭和天皇らしい発言です。昭和天皇が粘菌の分類学について研究されていたことは、このブログでも南方熊楠について書いたときに言及しています。

 その草を食べる草食性動物からみればそれは雑草ではないし、その花の蜜を吸うハチからみれば雑草どころではないですよね。当たり前と言えば当たり前の話です。

 そうなんですね、どうもこの日本語の「雑」というのがよくないのではないか?

 雑草、雑種、雑学、雑談、雑誌、雑魚(ざこ)・・・など、「雑」で始まる熟語はいくらでもあげることができますね。
 「純」に対する「雑」なのでしょうか、日本人はどうしても「純」や「純粋」というものを高く評価しすぎるきらいがあるように思われます。
  
 自分にかかわるものとなったとき、「雑草」はすでに「雑草」ではない。道ばたに咲く草花も、自分がいいと思ったらそれは雑草ではないでしょう。

 つまり「雑学」というのも、ある誰かが勝手に決めたもので、それぞれの人にとっての認識と意味はまったく異なっていて当然なわけです。

 たとえば、私の専門は学問でいえば経営学で、そのなかでもとくに組織と人の関係ということになりますが、天体物理学者からみれば経営にかんする話など「雑学」以外の何ものでもありません。逆に私からみれば天体物理学にかんすり知識はあくまでも「雑学」であって、専門知識ではまったくありません。

 たとえば、あなたがワインにはまったく関心がなかったなら、ワインにかんする知識は「雑学」ですらないでしょう。「雑学」どころか、知識すら自らのアタマのなかにはない。
 ワインの愛好家であれば、ワインにかんするもろもろの知識や情報は、単なる「雑学」ではないはずですね。
 ワインを商っている人やレストラン関係者にとっては、ワインにかんするもろもろの知識や情報は、業務知識でああって、「専門知識」と言うべきものになっています。
 ソムリエにとっては、ワインにかんすることに、もはや「雑学」などまったく存在しないといっていいでしょう。
 つまり専門家とそうではない一般人のあいだには、「知識」の意味がグラデーションとして拡がっているわけです。

 「雑学」であるかそうでないかは、自分に関係ある知識、自分に関係ない知識、この区分だけでしょう。

 ですから、世の中には、すべての人に取って「雑学」と十把一絡げに一括りにできるようなものは存在しない、といっても言い過ぎではないと思います。


「雑学」を徹底的に活かすにはどうしたらいいか?-残念ながら藤田田は本を読めとしか言っていない

 藤田田は「雑学」という表現を使っていますが、いいかえれば「引き出し」といっていいでしょう。
 藤田田はそこまでは言っていませんが、専門知識や雑学をどうやって「引き出し」に変えていくかが問われているのだと私は考えています。

 雑学が多くてもそれを活かすチカラがなければ、雑学は雑学のままで終わってしまう。「雑学」を「雑学」ではなく、自分にとって必要な知識として扱うにはどうしたらいいのか?
 
 そのためには、その情報なり知識のもつ意味を発見する能力が必要であり、自分が主体的にかかわる知識に変えることが必要なのです。そのためにはなんらかの体験が必要でしょう。体験がからむことによって、単なる知識から、自分にとっての知識に変わるからです。

 単なる「もの知り」と、「引き出し」の多い人の違いは何か、よく考えてみたいものですね。






<ブログ内関連記事>

I am part of all that I have met (Lord Tennyson) と 「われ以外みな師なり」(吉川英治)

「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)
・・「留学してから3ヶ月で英語が突然聞こえるようになった経験(27歳)」、「就職して3年目にそれまでバラバラに存在していたものが一気につながるのを感じた体験(25歳)」・・いままで関係ないとおもっていたものが突然つながる、という経験。意識の変容。

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと

本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)
・・まさに藤田田が言っていることを、空気を吸うことのように当たり前に実践してきた一人のユダヤ人男性が日本語で書いた本

書評 『ユダヤ人が語った親バカ教育のレシピ』(アンドリュー&ユキコ・サター、インデックス・コミュニケーションズ、2006 改題して 講談社+α文庫 2010)

「人間の本質は学びにある」-モンテッソーリ教育について考えてみる

書評 『ドラッカー流最強の勉強法』(中野 明、祥伝社新書、2010)

映画 『ソーシャル・ネットワーク』 を日本公開初日(2011年1月15日)の初回に見てきた

"粘菌" 生活-南方熊楠について読む-

   



(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!



end