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2014年9月30日火曜日

「におい」で秋を知る-ギンナンとキンモクセイは同時期に「臭い」と「匂い」を放つ・・・


キンモクセイが秋を感じさせてくれる芳香だとすれば、思わず鼻を突く異臭で秋を感じさせてくれるのがギンナンである。

通行者に踏みつぶされて空気中に拡散するギンナンの「におい」。イチョウ並木を歩いていることに気がつく瞬間だ。

「におい」がきついギンナンだが、拾い上げて手のひらにおいて眺めてみると、なんだか砂糖菓子のようでもある。そのまま食べてしまいたくなる。


ギンナンとキンモクセイはほとんど同時期に匂い(=臭い)を放つ存在だ。キンモクセイの匂い(=香り)に癒されてて秋を感じたつぎの瞬間、歩き続けるとギンナンの臭い(=異臭)にかき消される。

キンモクセイの香りとギンナンの異臭では感じ方は違えども、秋は秋である。

五感、とくに嗅覚ををつうじて秋を知る。また楽しからずや。






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嗅覚に敏感になるためには、「この国を出よ!」



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2014年9月28日日曜日

成田山新勝寺の 「柴灯大護摩供(さいとうおおごまく)」に参加し、火渡り修行を体験してきた(2014年9月28日)

(火渡り修行をする成田修法師)

京成線沿線やその関連路線の沿線に住んでいると目に入ってくるのが、成田山参詣を促すポスターである。成田山新勝寺は、年始の正月だけでなく、「五月詣」と「九月詣」が重視されている。

「正五九」(しょうごく)といって、節目の季節に参詣すると、 御利益を授かることが大きいとされているのである。これは江戸時代以来らしい。ポスターの絵柄はいつも浮世絵である。

9月28日は、その「九月詣」(くがつもうで)の月で、かつ28日のお不動様の縁日でもある。ことし2014年(平成26年)の9月28日は、しかも日曜日である。この日には山伏姿の修法師(しゅうほうし)による「火渡り修行」が行われることを知った。修法師は、成田修験ともいう。密教と修験道が習合しているのが成田山の面白いところだ。

大本山成田山の公式ウェブサイトに掲載されている内容紹介は以下のとおりである。

成田山の「柴灯大護摩供 火渡り修行」
http://www.naritasan.or.jp/gyoji_sp/hiwatari.html
   
開催日:平成26年9月28日(日)
時 間:午前11時30分
道 場:成田山大本堂西側広場
    
(説明)
柴灯大護摩供(さいとうおおごまく)は野外で修する御護摩祈願です。成田山では毎年5月と9月、12月に行い、5月と9月はご信徒の開運厄除と所願成就の護摩木祈願として厳修しています。また、被災地岩手県陸前高田市の高田松原の松材をお焚き上げして、大震災物故者の供養と被災地の復興を祈願しております。ご信徒の皆さまには、お詣りいただいて被災地の復興を共にお祈りください。  

山伏の火渡りはテレビなどでは見たことがあっても、実際の火渡りをリアルで見て体験したことがなかった。火渡りはぜひ一度は体験してみたいと思っていたので、この機会を利用して参加することにした。

本日(2014年9月18日)は秋晴れの青天、絶好の参詣日和となった。成田山新勝寺に参詣するのは、断食修行以来のことなので約4年ぶりということになる。


「柴灯大護摩供」(さいとうおおごまく)に参加する

「火渡り修行」は、正式には「柴灯大護摩供(さいとうおおごまく) 火渡り修行」という。柴灯大護摩供は、野外で行う護摩法要のことだ。柴(しば)を使って護摩壇を設け、燃え上がる紅蓮の炎に祈願を行う護摩のことだ。

燃えさかる炎のなかに護摩木を投げ込みながら、不動明王の真言と般若心経が読経される。熱さに耐え、煙に耐え、約1時間にわたっておこなわれる護摩である。この護摩が屋外で行われるのである。

「柴灯大護摩供」は午前11時半から開始されるが、わたしは念のため 10時から会場に待機して場所取りすることにした。かぶりつきで見物し祈願したかったからだ。不動尊の不動心を身につけたいという切なる願いをもっていたからだ。そのため、そうとう煙を吸い込んだし、熱さでめまいがしそうになったのだが・・・

野外に設けられた護摩壇には、山野に生えている灌木をかぶせている。なんだか 2005年の中部万博のマスコットのモリゾーとキッコロみたいだ。というより、キッコロが緑の護摩壇に似ているというべきか、緑の護摩壇が森の精霊に似ているというべきか。

稲穂の束を身にまとった存在なら、秋田県のなまはげや沖縄の民俗芸能にもあるが、それは稲作が日本に伝来した弥生時代以降の信仰から生まれたものだろう。

説明にあったわけではないが、でつくられた緑の護摩壇は、もしかすると稲作以前の縄文時代の古層につらなる信仰とかかわりがあるのかもしれないと考えてみたりもする。修験道は日本独自の山岳信仰である。

(燃やされることになる護摩壇は森の精霊か?)

この緑の護摩壇に火が付けられて燃やされるまえに、種々の儀式が行われるわけだが、護摩壇のまわりにはしめ縄が張られている。山伏姿の修法師たちが入場してくる。

 (山伏姿の成田修法師の入場)

当日は儀式の内容にかんする説明が行われていたのだが、内容にかんする正式名称など正確に記憶していないので、一般用語をつかって説明しておきたいと思う。

まずは先達(せんだつ)が護摩壇の前で鉞(まさかり)を振り下ろす所作が何度も行われる。

 (護摩壇に点火する前の儀式 まさかりを振り下ろす)

そのあと、別の先達が鏑矢(かぶらや)を地面に向けて射る。この所作を東西南北の4カ所で行い、結界(けっかい)をつくる。これで聖なる空間ができあがることになる。

  (護摩壇に点火する前の儀式 鏑矢で結界をつくる)

四方に鏑矢を射たあと、最後に護摩壇に向けて鏑矢が射られる。矢を射られる対象であるということは、やはり燃やされる前の護摩壇は、森の精霊という魔物なのであろうか。

 (護摩壇に点火する前の儀式 鏑矢を護摩壇に向けて放つ)

このあと、別の先達が、利剣でもって居合いを行い、最後には護摩壇に向けて剣を突き刺す所作を行う。

 (護摩壇に点火する前の儀式 利剣を護摩壇に向けて突き刺す所作)

このあと僧侶が行う護摩の儀式がある。以上で一連の儀式が終わり、いよいよ護摩壇に火を付けることになる。

祭壇からもらい火した青竹の松明(たいまつ)を二人の修法師が抱え持ち、儀式を行ったのち、護摩壇に二カ所から点火する。

 (青竹の松明で護摩壇に点火する)

護摩壇のなかから上がってきた炎をあおるため、二人の修法師がモップのような梵天(ぼんてん)であおいで風を起こす。炎とともに、もうもうたる煙が立ち上がる。このあと、参詣者の頭上で神道のお祓いのように梵天が振られる。わたしもそのお祓いに与ることができた。

(梵天をつかって火の巡りをよくする)

ときどき、成田山の銘の入った柄のついた枡(ます)で水をかける。延焼をふせぐためであろう。

 (延焼しないように水をかけながら)

護摩壇が燃やされているあいだ、「不動明王の真言」と「般若心経」がひたすら唱えられる。参詣者も唱えることがもとめられ、熱さと煙に耐えながら、わたしもクチのなかでブルブツ唱えながら合掌する。

不動明王の真言は以下の通り。

のーまく さんまんだー
ばーざらだん せんだー
まーかろしゃーだー
そわたや うんたらたー
かんまん

火はすべてを浄化する。祭壇に飾られていた将棋の駒のような成田山の「勝守り」を、護摩壇の炎で先達が浄める。この間、信者がもってきた古いお札や護摩木をつぎつぎと炎のなかにくべていく。

(燃えさかる護摩壇の炎でお守りを浄める)

一連の浄めの儀式が終わったあとは、参詣者のバッグや財布などの持ち物を浄めていただくセッションに入る。わたしも背負っていたデイバッグを浄めてもらった。

(燃えさかる護摩壇の炎でバッグなど信者の持ち物を浄める)

護摩壇が燃え尽きると、いよいよ火渡り修行の準備に入る。

(仁王立ちする修法師 火渡り準備中)

護摩壇が燃え尽きて炭と灰になったら、道具をつかって地面をならして整地する。修法師たちは白足袋を脱いで裸足となる。足袋を履いていては、残り火が燃え移る可能性があるのでかえって危険なのだ。

整地がおわると前方と後方に枝葉のついた青竹を二本づつ立て、しめ縄をはる。先頭にたつ先達が利剣でしめ縄を断ち切り、火渡りの先陣を切る

(火渡り場所の二本の竹にかけたしめ縄を利剣で断ち切る)

炎は消えても、熾火(おきび)が残っているのでまだまだかなり熱そうだ。なかには飛び跳ねて走る修法師もいてたしなめられていた。

 (まだまだ熱いなか裸足で火渡り修行する修法師たち)

 飛び上がって走るとかえって熱いらしい。足の裏をしっかりとつけて、下を見ずにまっすぐ前を見て歩ききるのがよいのだという。

  (まだまだ熱いなか裸足で火渡り修行する修法師たち)

万難を排して「火渡り修行」を体験する

修法師たちによる火渡り修行が終わると、だいたい12時半を過ぎたくらいの時間になっている。

これから先は「一般火渡り修行者」の番となる。参加希望者はすでに長い列をつくって後方に並んでおり、わたしの目の前でつぎつぎと渡し始めていた。まだそうとう熱いのだろうに、気合いが入っているなあ。

「火渡り修行」をじっさいに見たいという気持ちと、今後の人生を乗り切るためにお不動様の加持力を得たいという気持ちの両方で参加したが、この日はなぜか風邪気味でカラダの節々に筋肉痛が残っていた。

熱さと煙のためだろうか、ずっと立ちつづけていたこともあるが、見学中に目の前に集まってきたる山伏たちが突然真っ黄色に変わっていくのを感じた。「なんだこれは・・」と思っているうちに、くらくらしてきたぶっ倒れるのではないかという気がこみあげてきた。

これは危ないと思って、倒れる前にしゃがみ込んだことで、なんとかやり過ごすことができたのだが、いったいこれは何だったのだろうか・・・。知覚異常という脳内現象かそれとも・・・。

一瞬の出来事だったと思うが、火渡りは断念してそのまま帰ろうとかとさえ思ってしまった。だが、せっかくの機会であるし、ここで火渡りを行わなければ絶対に後悔するだろうと思い直し、意を決して列に並ぶことにしたのである。

すでに列はながく続いており、火渡りできるまで40分以上待つこととなったが、そのくらい待てばもう熱くないだろうと思ってみたりもする。

 (せっかくの機会なのでわたしも火渡り修行に参加)

自分が火渡りするシーンは写真に撮れないのが残念だが、そんな雑念はもたないのが賢明というべきだろう。裸足になってズボンの裾をめくる。火が燃え移るのを防ぐためだ。

じっさいに火渡りしてみると、だいぶ時間がたっていたにかかわらず、まだ熱かった最初に踏み出した右足にかなりの熱さを感じたが、なんとか渡り終えた。最後に大先達の前にひざまづき、密教法具の独鈷(とっこ)をアタマにあてていただいて祝福を受けることができた。

火渡りが終了したら水で足を洗い、靴下をはいて靴を履く。 終わってみればあっという間の一瞬の出来事であったが、火渡りを体験できたのはよかった。聞くと見るのは大違い、見るのとやるのはさらに違う。何事も体験してみないと、ほんとうの実感というものはわかないものである。

火渡り修行に参加してほんとうによかった。こういう機会を逃すと、つぎはいつ参加できるかまったく未知数だからだ。

 (大本堂の西隣で火渡り修行が行われる)

わたしが火渡りを終えたあとも、まだまだ一般火渡り修行者の列は続いていた。大本堂の西隣で火渡り修行が行わるので、見学するだけなら大本堂の渡り廊下から眺めるのもよいかもしれない。

成田山に来るのは4年ぶりになるので、ひさびさに断食参籠道場に立ち寄ってみた。といっても中に入ったわけではない。修行中でないと中には入れない。

参籠道場の二階は成田山修法師の修行道場となっている。一般参詣者がこの参籠道場までくることはめったにないと思うが、成田修験とも呼ばれる山伏姿の修法師たちが成田山と密接な関係をもっていることは、アタマの片隅にでも置いておくべきだろう。


 「柴灯大護摩供 火渡り修行」もまた日本なのである。修験道は日本独自の山岳信仰である。こんな日本を日本人自身が知るべきであり、そして外国人観光客にも知ってもらうべきではないかと思うのである。

毎年五月と九月の二回行われているので、ぜひ一度は 「柴灯大護摩供 火渡り修行」に参加してみるとよいと思う。



<関連サイト>

大本山成田山 (公式サイト)


(成田山の九月詣でを促すポスター)



愛・地球博公式マスコットキャラクター 「モリゾーとキッコロ」
http://www.expo2005.or.jp/jp/N0/N2/N2.1/N2.1.26/



<ブログ内関連記事>

庄内平野と出羽三山への旅 (9) 月山八号目から月山山頂を経て湯殿山へ縦走する
・・このご神体は、熱い温泉が湧きだしている、こんもりした山のような巨岩である。・・(中略)・・ご神体の拝礼は、なんとご神体そのものを、ご神体の左脇から裸足で登って、また下りることが求められる。ご神体の上を歩いていいなんて! ご神体からわき出るお湯は実に熱く、裸足ではとても耐えられないくらい熱い。あまりにも熱いのでやけどしそうだ。立ち止まることは不可能、登り続けるしかない。 ご神体は、目で見て驚くだけでなく、足の裏で感じ取り、匂いを嗅ぎ、森の発する音を耳で聴きながら、五感すべてをつうじて感じ取るものなのである。 だからこそ、直接体験するにしくはないのだ」 成田山とも関係の深い湯殿山信仰


■修験道関連

「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に (総目次)

とくに 庄内平野と出羽三山への旅 (11) 湯殿山で感じる「出羽三山の奥の院」の意味 の 「成田山新勝寺の成田修験と湯殿山との関係」という小項目を参照。
⇒ 湯殿山信仰と成田山信仰圏の重なり  

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成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (総目次)

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成田と成田山新勝寺関連

不動明王の「七誓願」(成田山新勝寺)-「自助努力と助け合いの精神」 がそこにある!

節分の豆まきといえば成田山、その成田山新勝寺の「勝守り」の御利益に期待

「企画展 成田へ-江戸の旅・近代の旅-(鉄道歴史展示室 東京・汐留 )にいってみた

書評 『京成電鉄-昭和の記憶-』(三好好三、彩流社、2012)-かつて京成には行商専用列車があった!

月島で生まれて初めて「もんじゃ焼き」を食べてみた-もんじゃ焼きの味は食べてみないとわからない!
・・東京都江東区の門前仲町駅前には成田山別院がある


「複数の日本」を知る

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「かなまら祭」にいってきた(2010年4月4日)-これまた JAPANs(複数形の日本)の一つである
・・外国人観光客にもよく知られた奇祭

(2015年7月28日 情報追加)



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2014年9月27日土曜日

漱石の 『こゝろ』 が出版されてから100年!-漱石と八雲の二つの Kokoro (心)

(袖珍本の復刻版の箱 装幀は漱石自身による)

ことし2014年9月は、漱石の『こゝろ』が出版されてから100年になる。1914年(大正3年)は、明治大帝の崩御から2年後であり、第一次世界大戦が勃発した年でもある。

初出は朝日新聞の連載である。当時は東京朝日新聞と大阪朝日新聞の二拠点体制で、その双方で連載されたいわゆる新聞連載小説である。

連載期間は、1914年(大正3年)4月20日から8月11日まで。単行本は、1914年(大正3年)9月20日の出版。現在よりも出版にいたるスピードが早いような気がする。連載中からすでに単行本化が進んでいたということだろう。

漱石の『こゝろ』は、岩波書店の出版第一号となった記念すべき作品でもある。著作者は、夏目金之助と本名で表示されている。

(袖珍本の本体 装幀は漱石自身による)

冒頭に掲げたのは、初版単行本を出版した岩波書店から3年後の1917年(大正6年)に出版された縮刷版である「袖珍本」の復刻版である。「袖珍版」と書いて「しゅうちん・ばん」と読むが、「袖珍」とはポケットのことだ。文字通りポケットサイズの本である。1984年の岩波書店創業70年記念として復刻されたものを入手したマイコレクションである。


(袖珍本の本体 装幀は漱石自身による)

『こゝろ』は、漱石の作品では、おそらく『坊っちゃん』についで日本国民に読まれてきたものではないだろうか。知名度では『吾輩は猫である』も高いが、なにぶんにも長編なので、意外と読んでいる人は多くないような気がする。



したがって、『こゝろ』の内容については、いまさらここで繰り返す必要はないと思う。主人公のKとその親友の先生の年齢を超えた交流、そして先生の「遺書」で打ち明けられた一人の女性をめぐっての物語と、自死にいたった先生の深い悔恨と喪失感。乃木将軍夫妻の殉死と明治という日本史にとっての大きな時代の終焉。


『こゝろ』は、岩波書店の出版第一号であると書いたが、すでに作家としての地位を確立していた漱石を口説き落とすことができたのは、創業者の岩波茂雄の一高人脈のなせるわざである。岩波茂雄の同級生たちが漱石の弟子であったのだ。

(袖珍本の見返し 装幀は漱石自身による)

朝日新聞で連載した連載小説を無名の出版社(!)から単行本化するにあたって、漱石は本文だけでなく、ブックデザインという装幀まで手がけている。

装幀の事は今迄専門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣つて見る気になつて、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた。

(袖珍本の扉 装幀は漱石自身による)

ブックデザイナーとしての漱石にも注目すべきなのである。すでに著作権が切れて国民のみならず、全世界の共有財産となっているので、本文だけなら青空文庫でも読めるのだが、本というものは活字情報だけではない。「紙の本」はそれ自体がコレクションの対象にもなる美術工芸品である。


(袖珍本の奥付 装幀は漱石自身による)


漱石の Kokoro

『こゝろ』は英訳されている。『こころ』の英訳者エドウィン・マクレラン(Edwin McClellan)といいうスコットランド出身の英国人である。英訳版は名訳とされている。Kokoro (Translated by Edwin McClellan) at Google Books にスキャンした英文がアップされているほか、Ibiblio には全文がアップされている。

冒頭の文章を引用してみよう。

Sensei and I
I ALWAYS called him "Sensei." I shall therefore refer to him simply as "Sensei, " and not by his real name. It is not because I consider it more discreet, but it is because I find it more natural that I do so. Whenever the memory of him comes back to me now, I find that I think of him as  "Sensei" still. And with pen in hand, I cannot bring myself to write of him in any other way.

日本語の原文は以下の通りである。新字体と現代かなづかいに改めた青空文庫版から引用する。

上 先生と私 一私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はばか)る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。

どうだろう。これなら高校二年生くらいの英語力で理解できるのではかないだろうか。日本語と英語を対比させて、日本語のニュアンスがどこまで英語で表現できているか確認してみるといいだろう。ちなみに sensei という英単語は、武道や茶道などの「先生」として、すでに英語圏では一般化している。

日本文学の英訳者といえば、「3-11」後に日本国籍を取得し、日本に骨を埋めることにされたドナルド・キーン氏やエドワード・サイデンステッカーといった米国人、アーサー・ウェイリーといった英国人が有名だが、『こころ』の英訳者エドウィン・マクレランも記憶にとどめておきたい存在である。

wikipedia英語版 には、Edwin McClellan (October 24, 1925 – April 27, 2009) was a British Japanologist. He was an academic—a scholar, teacher, writer, translator and interpreter of Japanese literature and culture. とある。日本学者(ジャパノロジスト)で日本文学の翻訳と紹介を行った人だ。

日本人を母とし、日本で成長した日本語に堪能で、日本人のメンタリティにもよく通じた人であったらしい。どういう容貌の人であったかは、英語版をみるとよいだろう。


(わたしがアメリカ時代に買った Kokoro)

『追跡・アメリカの思想家たち』(会田弘継、新潮選書、2008)の「エピローグ 戦後アメリカ思想史を貫いた漱石の「こころ」」と題された章に、エドワード・マッケランが英訳した漱石の Kokoro をめぐる奇しき縁がつづられている。

著者の会田氏が敬愛してやまないヨーロッパ型保守思想の大物ラッセル・カークというアメリカ人、経済学者でリバタリアン思想のフリードリッヒ・フォン・ハイエクというオーストリア人、『こころ』の英訳者エドウィン・マクレランといいうスコットランド出身の英国人は、漱石の『こゝろ』の英訳本がつないだ意外な「つながり」と「きずな」が生まれていたのである

ラッセル・カークとハイエクも、エドウィン・マクレランによる英訳版の『Kokoro』を読んで深く感動したらしい。意外なことに日本通であったラッセル・カークも、日本の関係も深いハイエクも、日本人のメンタリティを理解できたカギがここにあったのかもしれない。

これは思想のドラマの背後にあるものを鮮やかにみせてくれるものであった。著者によって初めて掘り起こされたこの「物語」は、静かな感動をもたらしてくれる。人と人との「つながり」のなかで思想は生まれ、後代に継承されていくという経緯を物語としてつづったものだ。

冒頭に述べたように、漱石の『こゝろ』が出版されてからことしはちょうど100年である。明治大帝の崩御から2年後の2014年は第一次世界大戦が勃発した年でもあった。

だが、連載が終了した8月11日、単行本が出版された9月時点では、いまだ「第一次世界大戦」という表現もなく、「世界大戦」という表現もなかった。日本の一般人にとっては、遠い欧州の出来事であったのだ。

欧州においてもクリスマスまでには戦争は終わるという楽観視が支配的であったのだが・・・


小泉八雲の Kokoro 

Kokoro とローマ字で書くと、この作品には夏目漱石に先行する作品があることに気がつく。そう、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの Kokoro である。副題は、Hints and Echoes of Japanese Inner Life とある。


(タトル商会版の八雲の Kokoro)

小泉八雲ことラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)の Kokoro は 1895年の出版。漱石の『こゝろ』の英訳版がでたのは 1957年である。Kokoro といえば、英語圏では40年以上にわたってラフカディオ・ハーンの作品が唯一であった。。

『こゝろ』の英訳者マッケランは、Kokoro の短い Foreword の末尾にこう書いている。

The best rendering of the Japanese word "kokoro" that I have seen is Lafcadio Hearn's, which is: "the heart of things." (私訳: 日本語の「心」について、私がいままで見たなかでもっとも適切な説明はラフカディオ・ハーンによる「事物の核心」というものである)

内容的には、八雲の Kokoro は、漱石の Kokoro よりも内容的に古い。猛スピードで突っ走る「近代化」のなかで、失われつつある日本人の「心」を描いた作品であう。しかもハーンが日本人自身ではなく日本語を母語とする人でもなかったので、内在的理解という点でみると、漱石のものに劣るのはいたしかたないだろう。

(漱石と八雲の二つの Kokoro  マイコレクションより)

かつては英語圏の読者に大きな影響を与えたラオフカディオ・ハーンであるが、はたして現在はどうであろうか。

マッカサー元帥の副官であったフェラーズ准将というという学者肌のアメリカの陸軍軍人がいた。天皇を戦犯として訴追することを回避させることに大きな役割を果たした人である。

『陛下をお救いなさいまし』(岡本嗣郎、集英社、2002)によれば、フェラーズは大学時代にはアメリカに留学してきていた日本人女性との交友から日本びいきになり、ラフカディオ・ハーンの全作品を読み込んでいた人だったそうだ。

フェラーズは、当然のことながらラフカディオ・ハーンの Kokoro も読んでいたわけで、その知識が敗戦国日本の占領政策を遂行するうえでポジティブな影響をもたらしたことは、知られざるエピソードかもしれない。漱石の『こゝろ』の英訳版がでたのは 1957年だから、その時点ではフェラーズは読んでいなかったのだろう。

日本の占領政策遂行というテーマにかんしては、文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』が引き合いに出されることが多いが、ラオフカディオ・ハーンの影響もあったのである。

(漱石と八雲の二つの Kokoro  マイコレクションより)

二つの Kokoro

21世紀になっても、漱石の『こゝろ』も、英訳版の 『Kokoro』 もともに読みつがれていったほしいものだ。

発信型英語教育の必要性が叫ばれる現在だが、それならこの名訳で『こゝろ』とKokoroを対比させながら教科書として読んだらいいのではないだろうか。

先に冒頭の文章を英訳と日本語原文で並記しておいたが、この英語なら高校生レベルで十分に理解できるはずだろう。それが名訳の名訳たるゆえんである。

東大で夏目漱石の先任者であったハーンは英語で講義を行っていたが、学生にはたいへん人気があったらしい。後任の漱石の授業はそれを劣等感を感じて、苦痛だったらしい。

大学をやめて文筆一本の生活に入った理由の一つが、レクチャーする教師としての適性不足という自己認識にあったようだ。

物理学者の寺田寅彦から作家の芥川龍之介まで、数多くの弟子をもった漱石である。人間の適性というものは、一概にはいえないものだ。その意味では、漱石の前任者がラフカディオ・ハーンであったのは、作家としての漱石を自立させる存在であったことになる。

外国人が意識的に発見した日本人の「心」(Kokoro)、日本人が無意識のうちに表現している日本人の「心」(Kokoro)

二つの Kokoro が英語圏の読者に与え続けている影響はじつに大きいのである。



<関連サイト>

『こころ』(新字新仮名バージョン)  青空文庫

『こゝろ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション (初版本のスキャン)



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(2014年11月30日 情報追加)


 
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2014年9月25日木曜日

マンガ 『きのう何食べた? ⑨』(よしなが ふみ、講談社、2014)-平凡な(?)人生にも小さなトラブルはつきもの

(作りたい料理には付箋を貼っておこう!)

マンガ 『きのう何食べた?』(よしなが ふみ)もすえに第9巻。同じ作者による『愛がなくても喰ってゆけます。』(2005年)が一巻で終わってしまったのに対して、こちらはずいぶん息が長いですね。もう7年もたっている息の長い連載マンガです。

大きなドラマ展開はなくても、平凡な(?)人生にはつきもののの小さなトラブルはつぎからつぎへと起こるので、いっけん平凡な日常生活がつづいているように見えながら、物語は確実に前に進んでいくわけ。『うる★やつら』のような、いわゆる「終わりなき日常」ではないのです。

もういっぽうのゲイのカップル宅では、なんと夏の盛りに冷蔵庫が故障。じつはうちも10数年もつかってきた冷蔵庫が、ことしのはじめに寿命を閉じたということもあったので、なんともいえない奇妙な偶然(?)に驚いたりして。

近所の食品スーパーが閉店! これも2年前に体験しています。競合店がなくなるとお店どうしの切磋琢磨がなくなるのは困ったものですよねえ。

主人公の弁護士・筧史郎も、なんと50歳(!)の誕生日を迎え、老眼鏡のお世話になる。もともと近眼のわたしは老眼鏡は使用してませんが、主人公とは同世代のわたしにはリアリティありすぎ(!)と感じてしまいます。

第9巻のカバーが夏向けになっているのは、出版されたのが2014年8月だから。帯には「涼もう、作ろう、食べよう。」とありますが、残念ながらかき氷はマンガには登場しません。

今回の料理は、ラタトゥイユ、ローストビーフ、アクアパッツァ、ジャガイモのグラタン、かぼちゃサラダ、鶏手羽元のにににく酢じょうゆ、キャベツ炒め、正月料理の黒豆、ブロッコリー入りカルボナーラ、ブリの照り焼き、お弁当レシピ用の肉だんご、などなど。

基本は一ヶ月の食費は二人で 2万5千円という制約条件があるのですが(・・だから格安が売りの食品スーパーの閉店が痛い!)、たまにはハプニングでぜいたくな食材をつかった料理を楽しむことがあってもいいでしょうね。

ということで、どこまで長期連載になるのかわかりませんが、「作ろう、食べよう。」という料理と食事を軸にした物語はつづきます。スローテンポですが、主人公も読者も確実に年を取っていくわけです。






<関連サイト>

きのう何食べた?"なにたべ"公式ブログ

きのう何食べた? / よしながふみ - モーニング公式サイト

祝!画業20周年記念サイト よしながふみの漫画世界 (白泉社)
・・立ち読みできます!


<ブログ内関連記事>

マンガ 『きのう何食べた?⑧』(よしなが ふみ、講談社、2013)-一年に一回の楽しみはまだまだ続く!?

『きのう何食べた?⑦』(よしなが ふみ、講談社、2012)-主人公以外がつくる料理が増えてきてちょっと違った展開になってきた

『きのう何食べた?⑥』(よしなが ふみ、講談社、2012)-レシピは読んだあとに利用できます

『きのう何食べた? ⑤ 』(よしなが ふみ、講談社、2010)

『きのう何食べた? ④ 』(よしなが ふみ、講談社、2010)

『きのう何食べた?』(よしなが ふみ、講談社、2007~)


『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ

『こんな料理で男はまいる。』(大竹 まこと、角川書店、2001)は、「聡明な男は料理がうまい」の典型だ



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2014年9月24日水曜日

飛んでウラジオストク!ー 成田とウラジオストクの直行便が2014年7月31日に開設


つい最近まで知らなかったが、2014年7月31日に成田とウラジオストクの直行便」が開設されたらしい。木曜出発の週一便ではあるが、成田空港と極東ロシアのウラジオストを結ぶ定期便である。このポスターは、上野から成田空港までむすぶ京成電鉄の駅の構内で見かけたものだ。

だいぶ以前のことになるが、かつて出張でウラジオストクに行ったときは、わざわざ新幹線で東京駅から新潟駅までいって、新潟空港からウラジオストクまで飛んだものだった。帰国はハバロフスクから富山空港に戻った。富山からは羽田まで ANA の国内便である。

国際便が成田空港から羽田空港にシフトしつつあるなか、成田空港はLCC(ローコストキャリア)の誘致を積極的に進めているという報道がなされているが、ウラジオストク直行便の開設は成田空港の発着枠に空きがでたためだろうか? 成田とウラジオストク直行便は事業収支の点からいっていつまでつづくかわからないが、日露のビジネスと人的交流のうえでは喜ばしいことである。

オーロラ航空と表記されているが、よりロシア語っぽくいえば「アヴローラ」に近い。ウラジオストクも「ヴラヂヴォストーク」。もちろん、カタカナではロシア語の音は再現できない。

「ヴラヂヴォストーク」は、東方(=ヴォストーク)を征服せよ(=ヴラヂ)という意味なので、「東方を征服せよ」という意味になる。日本人にとってはあまり好ましい地名ではないが・・・。

ウラジオストクには「金角湾」がある。黒海の出口にあるイスタンブールの金角湾から名前を借りたものだ。「金角」とは黄金の角(つの)のことで、ロシア語でいえば「ザラトイ・ローク」、英語ならゴールデン・ホーン(Golden Horn)である。

下図に示したのは、ウラジオストックで買ったウォッカの銘柄。シカの黄金の角が図案化されている。

(ロシア・ウォッカ 「ゴールデンホーン」(金角)

というわけで、当方も 「飛んでイスタンブール」をもじって、このブログ記事のタイトルを「飛んでウラジオストク」とした次第。「飛んでイスタンブール」は、1978年の庄野真代のヒット曲。

わたしはイスタンブールは2回、ウラジオストクは1回、両方とも自分の足で歩いて自分の目で見ているので、金角湾をつうじて両者につながりがあると言えるわけだ。

ハードな話をしておくと、極東ロシアの金角湾もイスタンブールの金角湾も、ともにロシア海軍にとっては重要な港湾だ。

ウラジオストクは、ソ連時代は外国人立ち入り禁止都市であった。ソ連崩壊のおかげで、ソ連時代の潜水艦が一般公開されており、なかに入ることもできる。わたしもウラジオストク湾に係留されている潜水艦のなかに入った。

ソ連崩壊後の現在では、帝政時代の首都であったサンクトペテルブルク港に係留された軍艦も見学が可能だ。運河網の発達したサンクトペテルブルクは、「北のベニス」とも呼ばれていた。サンクトペテルブルクというは聖ペテロの町を意味するドイツ語である。

日本と同様、「近代化」が遅れて開始された「後進国ロシア」においては、「金角湾」も「北のベニス」も、「先進国」に対応するものをもってきて「ロシアの○○」と形容したものだ。「日本の○○」と命名したがる日本人と同様、後進国意識の表れかもしれない。

ウラジオストクの「金角湾」はイスタンブールの「金角湾」から来ているわけだが、19世紀当時のトルコはオスマントルコ帝国であったが、ロシアよりも先進地帯であったことはアタマのなかに入れておく必要がある。

百聞は一見にしかず。機会をつくってウラジオストックを訪問してみることをおすすめしますよ。ただし、治安はかならずしも良くないので要注意!







<関連サイト>

オーロラ航空 公式ウェブサイト(日本語)

オーロラ (航空会社) (wikipedia日本語版)
・・「2013年11月8日、サハリン航空とウラジオストク航空の合併により設立された[1]。社名は、投票で選ばれた「タイガ」に決まっていた。潜在的需要の見込まれる日本、韓国、中国では「シベリア」をイメージされることから、「オーロラ」という名称に改称した」。

飛んでイスタンブール 庄野真代 - YouTube
・・1978年のヒット曲


日本に一番近いヨーロッパ「ウラジオストク」の意外な素顔(FORBES日本語版、2017年9月6日)
・・「今年に入って、ウラジオストクを訪れる日本人渡航者が急増中だ。例年ビジネス関係者らなど年間5000人程度だったものが、今年上半期(1月~6月)すでに7000人を超え、年間で2万人を超えそうな勢いだ。背景には、今年8月にロシアが実施したビザ緩和がある。ネット申請による空港でのアライバルビザ取得(8日間滞在)が可能となったのだが、それを踏まえ、4月末から成田─ウラジオストク便は毎日、関空からも週2便の定期運航が始まった。新潟や福岡などの地方空港からのチャーター便も増えている。」


(2017年9月9日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

シベリアとロシア

書評 『「シベリアに独立を!」-諸民族の祖国(パトリ)をとりもどす-』(田中克彦、岩波現代全書、2013)-ナショナリズムとパトリオティズムの違いに敏感になることが重要だ

書評 『女三人のシベリア鉄道』(森まゆみ、集英社文庫 、2012、単行本初版 2009)-シベリア鉄道を女流文学者たちによる文学紀行で実体験する

『ピコラエヴィッチ紙幣-日本人が発行したルーブル札の謎-』(熊谷敬太郎、ダイヤモンド社、2009)-ロシア革命後の「シベリア出兵」において発生した「尼港事件」に題材をとった経済小説

(書評再録) 『プリンス近衛殺人事件』(V.A. アルハンゲリスキー、滝澤一郎訳、新潮社、2000年)-「ミステリー小説か?」と思って書店で手に取ったら…

ブランデーで有名なアルメニアはコーカサスのキリスト教国-「2014年ソチ冬季オリンピック」を機会に知っておこう!

書評 『ろくでなしのロシア-プーチンとロシア正教-』(中村逸郎、講談社、2013)-「聖なるロシア」と「ろくでなしのロシア」は表裏一体の存在である


地名を取ってきた先の先進地帯

かつてバンコクは「東洋のベニス」と呼ばれていた・・
・・「北のベニス」はロシア帝国の首都であったサンクトペテルブルク

書評 『チューリップ・バブル-人間を狂わせた花の物語』(マイク・ダッシュ、明石三世訳、文春文庫、2000)-バブルは過ぎ去った過去の物語ではない!
・・先進国であったオスマントルコ

「自分の庭を耕やせ」と 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは言った-『カンディード』 を読む
・・主人公カンディードたちは最終的にイスタンブール近郊に落ち着くことになる





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