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2014年6月28日土曜日

「サラエボ事件」(1914年6月28日)から100年 ー この事件をきっかけに未曾有の「世界大戦」が欧州を激変させることになった

(狙撃された皇太子夫妻が乗っていた自動車 筆者撮影)

これまで何度かウィーンに滞在したことがあるが、2006年の滞在の際、秋の日の週末のヒマつぶし(?)のため、たまたま入ってみたのが「ウィーン軍事史博物館」である。もともとアーセナル(武器庫)として使用されていた建築物を博物館に改造したものだ。

そして博物館のなかで出会った「サラエボ事件」関連の展示の数々。

「サラエボ事件」とは、いまから100年前(!)の1914年6月28日、当時のオーストリア=ハンガリー帝国(・・いわゆるハプスブルク帝国)の皇太子夫妻が、あたらしく領土に編入されたボスニア・ヘルツェゴヴィアのサラエボでテロリストによって狙撃され殺害された事件のことだ。

この事件をきっかけに未曾有の「世界大戦」が欧州を激変させることになった事件のことである。「世界大戦」は1週間後の7月5日に勃発することになる。

(フェルディナント皇太子が着ていた衣服 筆者撮影)

まさか、ふらりと入った博物館のなかで、「セルビア事件」関連の展示に出会うとは思わなかった。まったくの偶然なのだが、直観に導かれて(?)行動することは重要だ。

展示品の皇太子の遺品の衣服を見ればわかるように、衣服は血で汚れていない。心臓ではなく頭が狙撃されたのだ。

(フェルディナント皇太子が着ていた衣服 筆者撮影)

事件のあったボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボは、1990年代前半にふたたび全世界の脚光を浴びることになる。冷戦構造崩壊後のユーゴスラビア解体にともなう「民族浄化」の舞台としてである。

いわゆる「ボスニア紛争」とよばれた民族間の激しい内戦は、1992年から1995年までつづいた。「冷戦構造」の崩壊は、このような形で激しい紛争を引き起こしたのであった。

オーストリアの首都ウィーンじたい、中欧の主要都市として西欧と東欧の交差する位置にある。ゲルマン民族とスラブ民族の交差する位置であり、かつてのハプスブルク帝国はドイツ語を母語とするゲルマン民族を中核としながらも、スラブ民族やハンガリー民族、ユダヤ民族などさまざまな民族で構成された多民族国家であった。

(軍事史博物館の前に展示されているオーストリア軍の戦車 筆者撮影)

「世界大戦」の引き金となった「サラエボ事件」は、ハプスブルク帝国の領土内で起こった事件であり、世界大戦の結果、ハプスブルク帝国は崩壊し、「民族自決」の時代にバラバラとなる。

未曾有の「世界大戦」が欧州を激変させることになったのだ。第二次世界大戦は第一次世界大戦で未解決のままとなった問題の処理という側面をもつ。

日本では「先の大戦」(=第二次世界大戦、大東亜戦争)がいまでも大きな意味をもっているが、ヨーロッパにとっては「第一次世界大戦」のインパクトはきわめて大きなものであった。

「サラエボ事件」と「第一次世界大戦」から100年。21世紀のいまもなお世界を悩ませている「民族問題」とナショナリズムについて考える機会としたいものだ。


(軍事史博物館の正門 筆者撮影)



<関連サイト>

ウィーン軍事史博物館(Heeresgeschichtliches Museum) 公式サイト(英語版) ・・もちろんドイツ語版サイトもある

From the archive The Serbs and the Hapsburgs (The Economist, Jun 27th 2014)
・・On July 4th 1914 The Economist published this article in response to the assassination on June 28th of Archduke Franz Ferdinand(英国の「エコノミスト」誌の1914年7月4日付け(!)の記事をアーカイブから。その翌日、戦争が勃発し「世界大戦」にエスカレートしていった)






<ブログ内関連記事>

書評 『向う岸からの世界史-一つの四八年革命史論-』(良知力、ちくま学芸文庫、1993 単行本初版 1978)
・・ゲルマン世界とスラブ世界の接点であるハプスブルク帝国の首都ウィーンを舞台に「挫折した1848年革命」を描いた社会史の記念碑的名著

書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
・・ヨーロッパにおいては国境とはつねに動くものであるという事実を教えてくれる古典的名著

書評 『知の巨人ドラッカー自伝』(ピーター・F.ドラッカー、牧野 洋訳・解説、日経ビジネス人文庫、2009 単行本初版 2005)
・・1909年ウィーンに生まれたドラッカーは、第一次大戦に敗戦し帝国が崩壊した都市ウィーンの状況に嫌気がさして17歳のとき(1926年)、商都ハンブルクに移っている

書評 『ヒトラーのウィーン』(中島義道、新潮社、2012)-独裁者ヒトラーにとっての「ウィーン愛憎」

・・ナチスを払拭しなかったオーストリアの戦後

・・第一次大戦後の1923年から1925年までウィーンに留学した西洋史家・上原専禄

コトバのチカラ-『オシムの言葉-フィールドの向こうに人生が見える-』(木村元彦、集英社インターナショナル、2005)より
・・ボスニア・ヘルツェゴヴィアの首都サラエボ生まれのイビチャ・オシムは「ボスニア紛争」の体験社である

書評 『未完のファシズム-「持たざる国」日本の運命-』(片山杜秀、新潮選書、2012)-陸軍軍人たちの合理的思考が行き着いた先の「逆説」とは
・・日本国民にとって「第一次世界大戦」は直接の関係はなかったが、陸軍軍人たちにとっては必ずしもそうではなかったという事実


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