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2013年6月22日土曜日

祝! 富士山が 「世界遺産」 に正式認定(2013年6月22日)

(広重 神奈川沖浪裏)

富士山が「世界遺産」(World Heritage Site)に正式に認定された。

カンボジア王国の首都プノンペンで開かれていた世界遺産の登録会議。以前に申請したときはゴミ問題がネックになったのだが、その後の努力で問題解決がなされたことが大きいようだ。

今回はかならず認定されることになっていると言われていたものの、正式に認定されるとうれしいものだ。

むかし株主総会でよくみられたシャンシャン大会みたいに、結論は決まっているので 10分で終わるといわれていた会議がなんと 50分もかかったのだそうだ。

各国委員からは富士山礼讃の声また声で、しかも諮問委員が勧告から除外していた三保ノ松原も一括で認定というサプライズな結果となった。世界が富士山に寄せる思いはそれほど大きなものがあるのだ

(北斎 赤富士)

庶民信仰の対象の聖なる山は、浮世絵の画題として日本人の心に刻み込まれただけでなく、広重や北斎が描いた富士山は、大胆な構図と色彩が西洋美術に衝撃を与えたことはよく知られていることだ。

永谷園のお茶漬けにおまけとしてついていた、広重の「富嶽三十六景」のカードを想起するのだが、いくら頑張っても残念ながら 「富嶽三十六景」すべてを集めることはできなかったと記憶している。

「富士は日本一の山」から世界の富士山へ。

まずはめでたし、めでたし、といいうことで一件落着。







<関連サイト>

世界遺産活動|公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 (公式サイト 日本語)


<ブログ内関連記事>

 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 総目次
(1) 一生に一回くらい山小屋で働いてみたい!
(2) 宿泊施設としての山小屋 & 登山客としての軍隊の関係
(3) お客様からおカネをいただいて料理をつくっていた
(4) 自然の驚異
(5) 噴火口のなかに下りてみた


富士山は遠くから見ると美しい-それは、対象との距離(スタンス)の取り方の問題である

落日に映える富士山と丹沢山系




(2012年7月3日発売の拙著です)





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2013年6月21日金曜日

英語よりも日本語をキチンと教育してもらいたい!-「英語至上主義」と訣別し、人的資源の有効活用策を考えるべし

(経済産業省の資料より)


大学における英語教育をめぐって、自民党が打ち出してきた政策がさまざまな波紋を生み出しているようだ。

そんななか、こんな記事があるのをみつけた。「英語プアの日本人は、ますます下流化する-安倍政権の英語政策にモノ申す」 

タイトルは編集部がつけたのでキャッチーだが、内容もそれにおとらず飛躍した論理に満ち満ちたものであった。記事の最後のほうにこのような一節があったので引用しておこう。

私が驚いたのは、2カ月ほど前、「大学入試にTOEFL導入へ」のニュースが流れたとき、NHKの「ニュースWEB」でコメンテーターの古市憲寿氏が、こう言ったことだ。「英語がしゃべるようになってもバカはバカなまま。結局、英語がしゃべれるバカが増えるだけではないですか」。私は、耳を疑った。なぜ彼のような20代後半の若い世代、しかも気鋭の社会学者がこんな考え方をしているのだろうか?・・(後略)・・ 。

「古市憲寿氏のコメントに驚く」というコメントに、わたしはさらに驚いた(笑) こういう考えの人間がいることはわかるが、あまりもおかしな意見なので、正直あきれかえってしまう。近来まれにみる愚論である。

「グローバル化という見えない恐怖」におののく日本人がまた一人ここにいるのではないか? 原発事故で「放射能という見えない恐怖」におびえて職場放棄し、海外逃亡した人間と同じではないか? 

一言でいえば、日本人特有の「不安」とそれに対する「過剰反応」である。そしてその背後にあるのは、本人も意識していないかもしれない「英語至上主義」というイデオロギーである。


「第三次グローバリゼーション」もいずれ終息に向かう

英語はできればいいにこしたことはないが、そもそも、すべての日本国民が英語ができる必要はない。日本国民全体で3割もいれば御の字だろう。

現在でも日本国民の7割近く(・・データによる裏付けはないが実感に基づく推計)は英語とは無縁の人生を送っているはずだからだ。

日本のGDPに占める輸出比率は、2割をきっている。2000年代後半に15%を越えたが、それまではずっと15%以下である。そもそも日本は、韓国や中国とはまったく異なる「内需中心」の経済構造なのだ。

グローバル化が右肩上がりで際限なく進展するという幻想に過ぎない。

現在のグローバル化は第三次だが、第一次(=大航海時代)、第二次(=産業革命と帝国主義の時代)のいずれも、グローバリゼーションは右肩上がりで進展したのではない。

しかも、今回の第三次は冷戦崩壊後のものだが、すでに資本主義にとってのフロンティア消失が視野に入ってきており、すでにピークアウトしていると見るのが穏当である。「近代」は終わり、現在はつぎの時代に移行するまでの、比較的長い移行期にあるのである。

この事実に気付くには、まだ10年から20年はかかるかもしれないが。


国内市場のちいさい小国と人口大国のサバイバルはまったく異なる

よく引き合いにだされるフィンランドだが、人口が500万人しかいないような小国であれば、海外で稼ぐことは必須である。

しかし、そのフィンランドでも近年は国内での技能職を選ぶ生徒が増えているという。そのほうが食える可能性が高いからだ。

人口減少が叫ばれる日本だが、なんと1.2億人(!)もいる人口大国である。小国と同列で論じるのはナンセンスとしかいいようがない。これから50年たっても、まだ9千万人(!)もいるのである。

1945年(昭和20年)に敗戦し、その後5年間にわたってアメリカに占領された日本だが、その5年間のあいだに日本人は英語をしゃべるようになったか? 

不幸なことにアメリカによる軍政が28年間に及んだが沖縄だが、その間にすべての沖縄県民が英語をしゃべるようになったか?

答えは言うまでもないことだ。日本は占領されたが、間接統治によって占領政策は遂行された。沖縄の場合も琉球政府をつうじた間接統治であった。

かつてアメリカや英国の植民地であったフィリピンでもインドでも、すべての人間が英語ができるわけではない。そんなことは、じっさいにフィリピンやインドにいってみればすぐにわかることだ。

インドやフィリピンにおいてすら、英語ができるのは一握りの大学卒業者だけであり、一般庶民は必要があれば、外国人相手の商売で片言のピジン・イングリッシュをつかうのみである。

つまり食うための必要があれば、人間というものは片言であれ英語をあやつるのである。ただそれだけのことなのである。


個人レベルで考えれば得意分野やつよみに時間とカネをかけるべき

語学の天才でない限り、英語ができるようになるには、そうとうの時間とカネと忍耐が必要だ。日本語と英語は根本的に構造が異なる言語だからだ。

個人レベルにおいても、限られた時間とカネをなにに投入すればもっとも大きな成果がでるかという発想にたつべきではないか? 要は「資源配分」の問題だ。

個人ベースで考えれば、「強み」は徹底的に活かし、「弱み」はそのままほっておくのがただしい生き方だ。

英語ができてもサッカーが下手なら、ワールドカップには出場できないではないか(笑) 語学の勉強は、海外チームに移籍してからでも遅くない。そのときはサバイバルのために死に物狂いで勉強することになるだけの話だ。

しかも、移籍先がドイツならドイツ語、イタリアならイタリア語となる。かならずしも英語ではない。

そう考えると、英語が好きでもなく、不得意なのに勉強を強いられる多くの日本人生徒が、ほんとうにかわいそうだ。心の底からそう思う。

「強み」をもっと活かして職業選択を行えば、たとえ年収は低いとしても、自信をもって自分の人生を生きていけるのに・・・。


グローバルエリート、グローバルリーダーは徹底的に英語をしごき抜くべし

日本が弱肉強食の国際社会でサバイバルしていくためには、グローバルエリートやグローバルリーダーは徹底的にしごき抜いて英語の訓練をしなければならない。

先日、ネットで世界的に炎上した日本の国連人権大使のような外務官僚はエリートとはいえない。元駐オーストラリア全権大使とは思えない中途半端な英語で、「笑うな!シャラップ!」と、下品な英語で叫んだ外務官僚である。まことにもって日本人として恥ずかしい限りだ。こういうのを国辱という。

公式ボール改造の事実を選手に隠ぺいしつづけたプロ野球問題。コミッショナーも元駐米大使を経験した小役人である。このケースは英語の問題ではないが、みずからボールにサインしておきながら、知らなかったとシラを切るていたらく。こんな人物が日本を代表してアメリカで外交活動をしていたのである。考えるだに恐ろしい。

いずれも日本の国益を大きく毀損(きそん)する、救いようのない愚か者たちである。日本の命運にかかわってくる重大問題である。これがいわゆる「グローバルエリート」の実態だ。情けない。

英語ができればすばらしい人だという幻想は捨て去るべきだろう。

「エリート」の立場にある人は徹底的に英語をしごいて特訓しなおさなければならないのである。


大学入試のTOEFL一律導入はナンセンス

繰り返すが、すべての日本国民が英語ができる必要はない。必要なら尻に火がついてから猛勉強すればいい。

日本国内にいる限り、英語をつかう必要がほとんどないのである。必要なら自分で自主的にやるじはずだ。日本のマンガやアニメのセリフを読みたいから日本語を勉強するフランス人のように。

もちろん、英語を勉強するなといいたいわけではない。しかし、必要もないのにムダな時間とカネを費やすのはいかがなものかと思うのだ。

わたしは、大学入試のTOEFL一律導入は断固反対である。あまりにもナンセンスな話だからだ。大量生産方式の人材育成を前提にした政策だからだ。

実際問題として大学にいっても就職先がない(!)という事態も中位校以下では発生しており、大学進学の意味さえ不明になっているのが現状だ。


■英語は高校では「選択制」にすべし

高校以上は、英語は選択制にすべきである。義務教育の中学レベルの英語だけ完全に身に着けていれば、日常会話などたいていのことは足りるのである。いやむしろ、中学英語を徹底的に訓練したほうが、たいていの日本人にとっては武器になる。

近隣諸国との関係を考えれば、英語オンリーではなく中国語や韓国語を学習すべきである。これは選択制として高校から始めるべきだ。

大陸の中国語は簡体字とはいえ、すでに習ったはずの漢字を応用できるし、台湾や香港であれば日本では旧字体とよばれる正字体である。

韓国語の場合は、日本語と文法構造がきわめて近いし、しかも漢字語という共通語彙(ボキャブラリー)があるので、その点にかんしていえば英語を勉強するより日本語人には容易だろう。

日本に留学してくる中国人の多くが、東北地方(旧満州)出身の朝鮮族であること、韓国の大学入試では日本語選択が多いことを考えてみればいい。漢字のわかる韓国語使用者にとって、日本語は楽勝なのだ。ある程度まで、逆もまた真なりといえるだろう。

技能職への誘導をはかることも望ましい。つまり、高校卒業後は専門学校で手に職をつけたほうが、就職先のない大学進学よりも意味があるのではないかということだ。生きるとはまずは食うことであり、そのためには稼がなければならない。

そのために必要なことは、日本語をキチンと身につけ、日本人として恥ずかしくない振る舞いを身につけることだ。それがふつうの日本人が日本で生きていくためのチカラの源泉になる。


一人ひとりにキチンと向き合う教育が必要だ

いま小学校で英語教育が義務化されようとしているが、ますます英語嫌いを増やすだけのような気がする。

英語が苦手な生徒にまで英語学習を強要するのは、人的資源の無駄遣いだ。得意分野や強みを活かせと、ビジネス界ではさんざん言っているくせに・・・

生徒の一人一人と向き合って、将来の夢の実現にとって英語を勉強することが意味があるかないかを、納得させてあげることも必要だろう。

いまの日本の教育に欠けているのは、この「一人ひとりとキチンと向き合う」という姿勢である。大量生産方式の人材育成を前提にした教育改革は百害あって一利なし、だ。

日本人はもっと自らを見つめて、もっとも自分に適した生き方を選択すべきなのだ。





<関連サイト>

若き日本人が語る古き良き日本論【1】 ナショナリズムは人間の常識(TOKYO MX * 西部邁ゼミナール ~戦後タブーをけっとばせ~ 2013年6月1日)
・・同じテーマをナショナリズムjという側面から論じた番組

大研究 なぜ日本の企業はこんな採用をしているのか ユニクロ・楽天・グーグルほか 急増中!「英語ができて、仕事ができない」若手社員たち(「週刊現代」 2013年04月30日)
・・「就活が本格化すると、こぞってTOEICの教材を買い込む学生たち。日本の歴史や文化をよく知らないまま、英語ができるだけの「グローバル人材」となった若者たちに、仕事ができるわけはない」。


★学術研究の観点からの強力な助っ人が出現!

「日本人の英語学習熱は非常に高い」? 「日本人と英語」にまつわる誤解を解き明かす 『「日本人と英語」の社会学』 寺沢拓敬氏インタビュー  (WEDGE、2015年4月17日)

「日本は英語化している」は本当か?-日本人の1割も英語を必要としていない (寺沢拓敬 / 言語社会学、SYNODOS、2014年8月21日)
・・きわめて心強い援軍が現れた! この記事の筆者の研究成果が、『「日本人と英語」の社会学-−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか-』(寺沢拓敬、研究社、2015)として出版されている。



日本人の「英語下手」は教育を変えても変わらない。その単純な理由歴史は何度でも繰り返す(堀井憲一郎、現代ビジネス、2016年9月4日)
・・日本国内では必要ないから英語を勉強するモチベーションが低い。ただそれだけのこと。

(2015年7月8日、2016年10月17日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

外国語の学習について

福澤諭吉の『学問のすゝめ』は、いまから140年前に出版された「自己啓発書」の大ベストセラーだ!
・・「あるいは書生が「日本の言語は不便利にして文章も演説もできぬゆえ、英語を使い英文を用うる」なぞと、取るにも足らぬ馬鹿をいう者あり。按ずるにこの書生は日本に生まれて未だ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉はその国に事物の繁多なる割合に従いて次第に増加し、毫も不自由なきはずのものなり。なにはさておき今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり」(十七編 人望論) 

<現代語訳>
「あるいは学生が「日本語は不便利で演説もできないので、英語をつかって英文を用いる」などと、取るにも足らない馬鹿なことをいう者がいる。思うにこの学生は、日本に生まれたのにもかかわらず、いまだ十分に日本語をもちいたことがないのだろう。一国のコトバは、その国の事物が複雑になってくれば、その割合にしたがってボキャブラブラリーが増えてなんでも言い表せるようになってくるものであり、まったく不自由であるわけがない。なにはさておき、いまの日本人は日本語をつかってコミュニケーションの上達につとめるべきだ」(私訳)

英語よりも日本語がまず先決だ!と、かの英語名人の福澤諭吉でさえ 140年前にこのように説いているのである。心して読むべし!!


『大本営参謀の情報戦記-情報なき国家の悲劇-』(堀 栄三、文藝春秋社、1989 文春文庫版 1996)で原爆投下「情報」について確認してみる
・・「ところで余談だが、わたしの祖父は、大正時代の "忘れられた戦争" である「シベリア出兵」に陸軍兵士として出征している。人を撃つのはイヤなので、志願して通信兵になったと聞いたことがある。敵として対面していたのは革命政権側のパルチザン部隊。敵の通信傍受がその基本任務であったようだ。そのために軍隊内の教育でロシア語を猛勉強したといっていたが、暗号解読についての話は聞きそびれたのでわからない」 
⇒ 必要に迫られれば、尋常小学校卒の学歴の一兵卒でも、ロシア語すら習得可能なのだ。語学は必要性がなければ勉強しないものだ。

書評 『日本語は亡びない』(金谷武洋、ちくま新書、2010)-圧倒的多数の日本人にとって「日本語が亡びる」などという発想はまったく無縁


英語圏のアングロサクソン思想に巣食う鬼子

『エコ・テロリズム-過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ-』(浜野喬士、洋泉社新書y、2009)を手がかりに「シー・シェパード」について考えてみる ・・アングロサクソンの英語圏に特有の偏頗な思想について

映画 『ザ・コーヴ』(The Cove)を見てきた
・・アングロサクソンの英語圏に特有の偏頗な思想について


グローバリゼーションの意味を見誤るな!

書評 『英語だけできる残念な人々-日本人だけが知らない「世界基準」の仕事術-』(宋文洲、中経出版、2013)-英語はできたほうがいいが、英語ができればいいというものではない

書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む

書評 『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)-12世紀からはじまった資本主義の歴史は終わるのか? 歴史を踏まえ未来から洞察する


人材育成との関連で

書評 『失われた場を探して-ロストジェネレーションの社会学-』(メアリー・ブリントン、池村千秋訳、NTT出版、2008)

書評 『蟻族-高学歴ワーキングプアたちの群れ-』(廉 思=編、関根 謙=監訳、 勉誠出版、2010)-「大卒低所得群居集団」たちの「下から目線」による中国現代社会論

フィンランドのいまを 『エクセレント フィンランド シス』で知る-「小国」フィンランドは日本のモデルとなりうるか?

書評 『韓国のグローバル人材育成力-超競争社会の真実-』(岩渕秀樹、講談社現代新書、2013)-キャチアップ型人材育成が中心の韓国は「反面教師」として捉えるべきだ

「沖縄復帰」から40年-『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(佐野眞一、集英社、2008)を読むべし!

「JICA横浜 海外移住資料館」は、いまだ書かれざる「日本民族史」の一端を知るために絶対に行くべきミュージアムだ!


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2013年6月18日火曜日

「スティル・ライフ」-アートで哲学してみよう

(筆者撮影)


ちょいとアートっぽい写真が撮れたのでアップします。


誰が置いたのか熟れた梅の実が一つ。
無機質な黒い金属板のうえに。
これは人が置いたのでしょう。

誰が置いたのか木の葉が一枚。
無機質な黒い金属板のうえに。
これは自然に落ちてきたのでしょう。

梅雨時の雨でできたちいさな水たまりに打ち込んだ木々。
濁った池の水面に映る木々。
宇宙が写りこんでいるみたいな感じ。

こういうのをスティル・ライフ(still life)というのですね。
日本語でいえば静物。スチール写真のスチル。

静止しているが生きているのが生命。
人工と自然。静止状態と生命活動。

水も蒸発し、梅の実も木の葉もすぐに朽ち果てる。
金属も腐食し、いずれは朽ち果てる。

この世はすべて無常。つねならず。
時の試練に耐え得るものは、ない。

形あるものはかならず滅びる。
ではいったい存在とはなにか?



図らずも、ちょいと哲学したくなる写真になりました。



(jpg の機能で色を反転させたもの 筆者撮影)


<関連サイト>

静物画(スティル・ライフ) wikipedia日本語版
・・西洋美術史の文脈における静物画の意味


<ブログ内関連記事>

「アート・スタンダード検定®」って、知ってますか?-ジャンル横断型でアートのリベラルアーツを身につける

「知の風神・学の雷神 脳にいい人文学」(高山宏 『新人文感覚』全2巻完結記念トークイベント)に参加してきた





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2013年6月17日月曜日

【セミナー開催のお知らせ】 「生きるチカラとしての教養」(2013年6月27日)

(中世ヨーロッパの七自由学芸=リベラルアーツの図像表現)


【イベント開催のお知らせ】

来る 6月27日(木)に、ひさびさに一般向けセミナーを開催します。

タイトルは、「生きるチカラとしての教養」 です。

拙著 『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』(佐藤けんいち、こう書房、2012) の出版から、まもなく一年になろうとしてますが、編集の際にカットしたものも多々あるものの、書くべきことはすべて書き切ったと思ってました。

しかし、意図的に書かなかったことがあります。

それは 「教養」 です。

「アタマの引き出し」は「専門知識」と「雑学」だ、という趣旨のことを『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』で強調しましたが、「雑学」という表現をつかったのは「教養」よりも幅広く、かつ裾野が広いという意味でありました。

しかし、かならずしも 「教養」=「知識」ではありません。知識が多ければいいという趣旨のことを拙著では書いてますが、「教養」はその「知識」を体系化し、自分で考えるため「知恵」とし、生きていくための「知恵」をつくりだすものなのです。

時代の転換期にあるいま、スキルやノウハウだけでは、もはや限界に達しています。自分の軸とするもの、頼るべきものとしての「教養」がいまこそ求められているのではないか、と。

しばらくぶりに、みなさんといろいろ「対話」を再開してみたいという気持ちになってきました。

そこで、「教養」をテーマにしてお話してみることにした次第です。


なぜ「教養」を取り上げるのか

わたしは、大学は、「実学」重視の一橋大学を卒業していますし、留学先のアメリカのレンセラー工科大学では「実学」として MOT(技術経営)を専攻し MBA(経営学修士)を取得している現役のビジネスマンです。

一橋大学もレンセラー工科大学も、ともに「実学」重視の専門教育機関として出発した大学です。一橋大学といえば商学、レンセラーといえば工学で、ともに「実学」です。

その「実学」重視の大学で、大学学部では「歴史学」を、大学院では「経営学」を学びました。ともに「実学」ではありますが、それぞれの大学のメインストリームではありません。しかし、前者の歴史学は商学から、後者の経営学は工学から必然的に要請され、育てられてきた学問分野なのです。

つまり「実学」は極めれば極めるほど、逆説的にリベラルアーツ(教養)教育が必要になってくるということを意味しています。小手先のテクニックやノウハウを越えた思考の分野にまで踏み込んでいかなくてはならないからです。

「専門」にはかならず哲学・宗教・歴史といった「リベラルアーツ」の裏付けが必要であるというのはアメリカでは常識ですし、もちろんヨーロッパでは言うまでもありません。ヨーロッパの大学制度を導入した日本においても、それは同じことです。

ビジネススクールのMBA教育ですら、すぐに役立つスキルやノウハウではなく、ビジネス界で生きていくためのリベラルアーツ教育であるという位置づけがアメリカではなされています。

哲学・宗教・歴史といった、いっけんすると役に立たない「虚学」ともいうべき学問は、じつは専門を深く極めるためには欠くことができない重要な要素なのです。役に立つか立たないかは、すぐ役に立つか、そうではないかの違いに過ぎません。


セミナーで話す内容について

セミナーでは、時代の転換期に必要なものはなにかという観点から、哲学・宗教・歴史といった、「すぐに役にはたたないが、じつはすごく役に立つ(!)「教養」というものについて、みなさんと「対話」をつうじて考えていきたいと思います。

-「教養」とはなにか?
-なぜ「教養」が必要か?
-どうしたら「教養」は身に着くか?


『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』をすでにお読みになっていると、話の内容がわかりやすいと思いますが、まだお読みでない方もおおいにウェルカムです。

終了後には、飲食をまじえた「懇親会」も考えておりますので、ぜひ「教養」とは何かいついて語り合いましょう! 


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<イベント開催概要>

場所: ルノアール飯田橋西口店マイスペース
   (東京都千代田区富士見2-2-6 今井ビル2階
     電話番号 03-5226-6345)
時間: 2013年6月27日(木) 19時~21時
参加者: 10名程度
会費: 2,500円 (別途、各自で飲み物を注文してください。持ち込み不可です)
懇親会: セミナー終了後、居酒屋等で懇親会を開きます(希望者のみ)
お申し込み方法: フェイスブックのアカウントをお持ちの方は、イベントページにて「参加する」ボタンを押してください。 https://www.facebook.com/events/132292253642150/

アカウントをお持ちでない場合は、ken@kensatoken.com までメールでお願いします。
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<関連サイト>

学長見解2013 ─ 二つの重要課題と一橋大学プラン135
・・実学と教養の関係について一橋大学の歴史に則して記述されている


<ブログ内関連記事>

ビジネスパーソンに「教養」は絶対に不可欠!-歴史・哲学・宗教の素養は自分でものを考えるための基礎の基礎

M.B.A.(経営学修士)は「打ち出の小槌」でも「魔法の杖」でもない。そのココロは?
・・「ビジネススクールでは、たとえ主専攻がファイナンスであろうが、マーケティングであろうが、まずまんべんなく全ての科目を履修することが求められる。全体を視野に入れたうえで、個別の専門を研究すべしという姿勢が一貫している。ビジネススクールも例外ではない。これは米国のリベラルアーツ教育の根本姿勢である」

書評 『私が「白熱教室」で学んだこと-ボーディングスクールからハーバード・ビジネススクールまで-』(石角友愛、阪急コミュニケーションズ、2012)-「ハウツー」よりも「自分で考えるチカラ」こそ重要だ!
・・「日本のように受験が最終目的なのではなく、自分がやりたいこと、やるべきことを見つけるための幅広く勉強することが求められる環境。なるほど、できるアメリカ人が専門分野だけではなく、幅広くモノを知っている理由はそこにあるのだなと納得させられるのだ。リベラルアーツとはそういうことである」

「バークレー白熱教室」が面白い!-UCバークレーの物理学者による高校生にもわかるリベラルアーツ教育としてのエネルギー問題入門

書評 『教養の力-東大駒場で学ぶこと-』(斎藤兆史、集英社新書、2013)-新時代に必要な「教養」を情報リテラシーにおける「センス・オブ・プローポーション」(バランス感覚)に見る

日本語の本で知る英国の名門大学 "オックス・ブリッジ" (Ox-bridge)

いまあらためて「T型人間」、「Π(パイ)型人間」のすすめ-浅く幅広い知識に支えられた「専門プラスワン」という生き方で複眼的な視点をもつ

書評 『知的複眼思考法-誰でも持っている創造力のスイッチ-』(苅谷剛彦、講談社+α文庫、2002 単行本初版 1996)

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと





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2013年6月16日日曜日

「生誕100周年記念 中原淳一展」(横浜そごう)にいってきた(2013年6月15日)ー「装う、暮らす、生きる。すべてに "美" を求めた芸術家」


「生誕100周年記念 中原淳一展」(横浜そごう)にういってきました。

生誕100周年でかつ没後20年。中原淳一(1913~1983)は雑誌編集からファッションデザイナーにとどまらずマルチな才能を発揮した芸術家です。

百貨店の企画展ではなく巡回展であるようですが、この展覧会は百貨店にはふさわしい。なぜなら、中原淳一は「芸術のための芸術」ではなく、日本の少女たちに、外面も内面も美しくなってほしい思いを貫いて生きた人だったからです。

中原淳一作品を販売する「ひまわり屋」のサイトにはこうあります。

生誕100周年記念 中原淳一展 (朝日新聞社主催) 中原淳一生誕100年を記念し、原画を中心に雑誌や付録など約400点を展示。 中原淳一の軌跡を浮き彫りにします。 初公開となる「ひまわり」の表紙絵3点や、淳一を敬愛するファッション・デザイナー 丸山敬太さんによる豪華なドレスの再現などが話題を呼んでいます。

中原淳一は、いわゆる芸術家(アーチスト)というよりも、「美」の伝道者として職人(アルチザン)として一生にわたて手仕事をつづけた人です。

日本女性に与えた影響は圧倒的なものだといっていいでしょう。じっさい、この展覧会では、「かつての少女」とおぼしき高齢の女性たちが、思い思いの感想をくちにしながら展示物をみている姿を多く目にしました。圧倒的に女性比率の高い美術展です。

(チケット当日券)

『それいゆ』や『ひまわり』、そして『ジュニアそれいゆ』といった雑誌はスタイルブックでもあり、読者みずからがそのパタンにしたがって洋裁することも想定していたようです。

かつての日本の家庭にはミシンがありました。いまはもう家庭でミシンを踏む主婦は皆無に近いのではないかと思いますが、家庭にかならずミシンが一台はあった時代、中原淳一の提案するファッションは家で母親が娘のためにミシンを踏み、あるいは少女がみずからミシンを踏みという光景があったのでしょう。

「洋裁」という日本語も、すでに死語と化しているのかもしれません。洋裁は「お直し」という形で家庭の外に出て外部サービス化しているのが現状ですが。

(展示会カタログにマグネット2点)

フランスやパリがまだまだふつうの日本人からはあまりにも遠い世界であった頃、中原淳一がイラストレーションとともに提案したライフスタイルは日本の少女たちに夢を与えた存在でしたが、「装う、暮らす、生きる。すべてに "美" を求めた芸術家」といえば、「愛と美」を説き、中原淳一を絶賛している美輪明宏を引き合いにださなければならないでしょう。

人間にとってもっとも大事な価値といえば「真善美」となりますが、日本人にとってもっとも大事なのは「美」美という価値には外面的な美しさだけでなはく、内面的な美しさ、つまり倫理までが含まれるからです。

展示の最後にある著名人多数による「中原淳一賛」の数々。そのすべてをひとつひとつ読んでいくと、中原淳一が日本の一般大衆の夢をはぐくみ育てた近代(モダン)という時代の意味を感じ取ることができると思います。

中原淳一という存在があったからこそ、日本と日本人を代表する概念として「かわいい」がいまや世界的なものとなっているのではないだろうか、そんな気持にもなってきます。

現在からみれば「昭和レトロ」といった印象もある中原淳一のイラストレーション。竹久夢二の大正ロマンの作風の模倣から出発した中原淳一は、独自の世界をつくりあげることに成功しました。

この抒情性あふれるイラストレーションは、日本人にとってはどんなハイカルチャーよりもはるかに意味をもっているのではないかと思います。

(美術館に再現された中原淳一流にコーディネートしたモダンなお部屋)


モノのない時代に工夫することで人生を幸せにする方法を説いてやまなかった中原淳一は、低成長がつづいているいまのような時代にこそ、ふたたび顧みられるべき存在でしょう。

たとえ所得があがらなくても、人生を幸せにするのは、気持ちの持ち方とちょっとした工夫であるのだから。

最後に、中原淳一が『女の部屋』創刊号(1970年)に記した詩を引用しておきます。

もしこの世の中に、風にゆれる『』がなかったら
人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。

もしこの世の中に『』がなかったら、
人々の人生観まで変わっていたかもしれない。

もしこの世の中に『信じる』ことがなかったら、
一日として安心してはいられない。

もしこの世の中に『思いやり』がなかったら、
淋しくて、とても生きてはいられない。

もしこの世の中に『小鳥』が歌わなかったら、
人は微笑むことを知らなかったかもしれない。

もしこの世の中に『音楽』がなかったら、
このけわしい現実から逃れられる時間がなかっただろう。

もしこの世の中に『』がなかったら、
人は美しい言葉も知らないまゝで死んでいくだろう。

もしこの世の中に『愛する心』がなかったら、
人間はだれもが孤独です。





PS. 美術展の会場でこんな本をみつけました。中原淳一ショップ「それいゆ」がそごう横浜店内に限定出店されています(美術館のすぐ前のスペース)。

『中原淳一の幸せな食卓-昭和を彩る料理と歳時記』(中原淳一、集英社be文庫、2004)。 昭和レトロでいい味だしてます。




中原淳一に大きな影響を受けた一人が美輪明宏。『愛と美の法則』(美輪明宏、PARCO出版、2009)の「第4章 マルチに生きる」で中原淳一との交友が取り上げられています。この本の表紙には中原淳一の「蝶々夫人」がつかわれています。



<関連サイト>

「生誕100周年記念 中原淳一展」(横浜そごう)
・・会期は、2013年7月15日まで。そごう横浜店6階。入場は午後8時まで。

中原淳一(Junichi Nakahara)OFFICIAL (フェイスブックページ)


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2013年6月15日土曜日

「岡本太郎のシャーマニズム」展にいってきた(2013年6月15日)ー エリアーデの『シャーマニズム』が岡本太郎に与えた影響の大きさを知る企画展


「岡本太郎のシャーマニズム」展にいってきた。

岡本太郎、しかもシャーマンなんてテーマ設定したら、それこそ狂喜乱舞して爆発というイメージを喚起するではないか!

今回の企画展の案内文がまたそれをさらにそそる。

「あるとき、突如彼はシャーマンになる。」岡本は1950年代初めころよりシャーマニズムへの関心を示し始める。今展覧会では、岡本太郎が作品に込めた意図を解明する手がかりとして、岡本の興味をシャーマニズムへと向かわせたと考えられる、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデの著作『シャーマニズム-古代的エクスタシーの技法』(1951)等に着目し、1940年代から晩年までの岡本作品の意図解明を試みる。

「あるとき、突如彼はシャーマンになる。」というのは、岡本敏子さんの発言らしい。

戦前はパリでマルセル・モースに師事して民族学(エスノロジー)を研究し、みずからの素養としてたことは比較的知られるようになってきたといいだろう。

そもそも1970年の大阪万博に企画段階から参加していたのは、芸術家としてシンボル塔の発想にかかわっていただけではなく、民族学者の梅棹忠夫からつよく請われたためでもあるらしい。

フランスで学問を修めた岡本太郎は、戦後は宗教学者のミルチャ・エリアーデの諸著作をフランス語で読み込んでいたことが、今回の企画展で強調されている。2010年の「生誕100年 人間・岡本太郎 展・前期」(川崎市岡本太郎美術館) で、岡本太郎の蔵書の一部が展示されていたふが、そのなかにエリアーデの著作を発見したわたしはなるほど!と思ったものだった。

われわれが思っている以上に、岡本太郎はフランスの民族学や宗教学の影響を受けているようなのだ。この点についての研究がいま進んでいるらしい。その成果を反映したのが今回の企画展だ。

今回の企画展はシャーマニズム。ほんとうはシャマニズムと表記したほうがいい。なぜなら、シャーマンだと英語のように聞こえるが、シャマンは満州語が起源のようだからだ。



企画展 「岡本太郎のシャーマニズム」展について

川崎市の岡本太郎美術館は2年ぶりに訪問したが、向ケ丘遊園駅南口からあるいて20分弱の生田緑地のなかにある。

企画展は常設展示のスペースを通り抜けることになるが、いつきても岡本太郎の作品を目の前にすると、不思議にパワーがチャージされるのを感じる。岡本太郎ほど日本の枠の外に出ながら、日本人を元気にしてくれる存在はない。

常設展から企画展に移動する途中の回廊には、岡本太郎とマルセル・モースの民族学との関係も説明されているので(・・これは常設展示)、はじめての人はじっくりみておいたほうがいい。

企画展は、具体的な絵画作品や彫刻、それに岡本太郎が日本全国をフィールドワークして撮影した写真の展示に、岡本太郎が読み線引きしているエリアーデの引用を解説として加えたもの。シャマニズム関連の映像作品の上映もある。

日本のシャマンといえば、沖縄のノロや恐山のイタコなどがそれに該当する。東北のオシラサマもまた、シャマンの儀礼に使用されるものだ。これは岡本太郎の写真作品ろして見ることができる。

エリアーデに先行する宗教学者たちへの言及も親切である。

たとえば、『聖なるもの』で宗教体験の本質を「ヌミノーゼ」という概念で説明したドイツの宗教学者ルドルフ・オットーはきわめて重要だ。さらにいえば、『金枝篇』(The Golden Bough)のフレーザーもそれに加えるべきだろう。

マルセル・モースの叔父である社会学者エミール・デュルケムや、戦前のパリ時代には盟友であったジョルジュ・バタイユなども、岡本太郎の芸術思想を作り上げる上で多大の影響があったようだ。

エリアーデの『シャーマニズム』の副題は「古代的エクスタシーの技法」となっているが、ここでいう「エクスタシー」とは「忘我(状態)」のことを意味している。シャマンにおいては、霊魂が離脱して飛翔した状態をさしている。

(垂直に上方に伸びる生田緑地のメタセコイア 岡本美術館につづく道にある)


絵画作品にみられるのがシャマンの飛翔というテーマ天上への垂直方向への飛翔である。これはエリアーデがとくに取り上げている北方アジアに共通するものである。エリアーデ宗教学の主要テーマである「世界樹」(axis mundi)にも反映されている。

今回の展示では、なんといっても彫刻作品が圧倒的だ。

有名な「ノン」(否)というおちゃめな怪物のような彫刻もいいし、いっけんすると猛牛のような印象を受ける「樹霊」という作品の存在感はじつに圧倒的。樹木の霊(スピリット)を形象化したこの作品は、フレーザーの『金枝篇』にインスパイアされたらしい。じつは美術館のカフェテリアに面した池に設置されている作品と同じであった。

(岡本太郎 「樹霊」)

個々の作品の背後にある岡本太郎の思想現代人にとっての魂の叫びとしての宗教について考え、体感することのできる展示である。人間の根源にあるものについて、つねに思索をつづけ、それを芸術作品としてアウトプットしてきたのが岡本太郎である。

すでに近代は終わり、近代合理主義を相対的にみることができるようになっているからこそ、若い人たちを中心に岡本太郎は圧倒的な人気をもっているのだと思う。その意味では岡本太郎は時代の先駆者であり、こんごもまだまだ大きな影響を与えていく存在であることは間違いない。

岡本太郎好きなら、やや学術的な色彩がつよいという印象を受けるかもしれないが、かならずいくべきだといっておきたい。





<関連サイト>

「岡本太郎のシャーマニズム」展(2013年4月20日(土)~7月7日(日))

川崎市岡本太郎美術館 公式サイト


<ブログ内関連記事>

「生誕100年 人間・岡本太郎 展・前期」(川崎市岡本太郎美術館) にいってきた (2011年6月)

「生誕100年 岡本太郎展」 最終日(2011年5月8日)に駆け込みでいってきた

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・この本の表紙は「縄文人の彫刻」であある

書評 『ピカソ [ピカソ講義]』(岡本太郎/宗 左近、ちくま学芸文庫、2009 原著 1980)

本の紹介 『アトリエの巨匠に会いに行く-ダリ、ミロ、シャガール・・・』(南川三治郎、朝日新書、2009)

マンガ 『20世紀少年』(浦沢直樹、小学館、2000~2007) 全22巻を一気読み・・大阪万博の太陽の塔を見ることのできた少年たち、見ることのできなかった少年たち

「メキシコ20世紀絵画展」(世田谷美術館)にいってみた
・・パブリック・アートとしてのメキシコの「壁画運動」。岡本太郎もその影響を大きく受けており実作もしている。メキシコで発見され里帰りした壁画は、2008年以降は渋谷駅に展示され、有るべき姿でよみがえった

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・宗教学者エリアーデの『聖と俗』について、ややくわしく言及してある

書評 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)-魂の哲学者・井筒俊彦の全体像に迫るはじめての本格的評伝
・・エリアーデとも接点のある哲学者

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」

(2014年6月14日 情報追加)


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2013年6月14日金曜日

「旧江戸川乱歩邸」にいってみた(2013年6月12日)-「幻影城」という名の「土蔵=書庫」という小宇宙



旧江戸川乱歩邸(立教大学キャンパス内)にいってみた。あの探偵小説作家の江戸川乱歩の旧宅が立教大学に譲渡されて保存されていることを、つい最近のことだが知ったからだ。

検索してウェブサイトを調べてみると、月・水・金と開いているらしいが、一般公開は水曜日と金曜日のみで、しかも10時半から16時(午後4時)までだという。

今週水曜日、ちょうど新宿方面で用事があったので、その前にちょっと池袋に立ち寄ってみることとした。

再開発計画の一環として渋谷駅がさらに複雑怪奇になったばかりだが、新宿駅も池袋駅も、いつになってもわたしにとってはラビリントス(迷宮)である。あたかも江戸川乱歩の世界のように(笑)

池袋駅はふだんは東口に用事が多いのだが、立教大学のキャンパスは西口にある。立教大学にいくのはひさびさだが、アメリカ風のレンガつくりにツタのからまった大学建築物はステキだ。しかも、歩いている女子学生が垢ぬけてオシャレな印象もつよい。江戸川乱歩とはなかなか結びつかないのだが、乱歩と立教のつながりはなかなか深いものがあるようだ。

(立教大学キャンパス内)

そのキャンパスの一角に旧江戸川乱歩邸があるはずなのだが、事前にきちんと地図を見ていなかったためか、なかなか探すのに骨が折れた。

キャンパスの配置図をみてもなかなか乱歩邸に行き着けず、まさに乱歩的ラビリントス(迷宮)かとあきらめかけていたが、ようやくたどりついたら16時、職員の女性が門を閉める直前のことであった。

「ちょっとだけ見てもよろしですか?」とダメもとで頼み込んでみたら、OKしていただいただけでなく、なんと親切なことに案内までしていただいた。さすが日本人! 官僚的なしゃくし定規な対応ではない対応に感謝。時間に厳密なヨーロッパだと絶対にあり得ないことだ。

引っ越し魔の乱歩は、なんと46回の引っ越しの末に(・・よくカウントしていたものだ。几帳面な性格がうかがわれる)、昭和9年(1934年)にこの地に引っ越してきたのだという。当時はまだ静かな環境であったようだ。

戦前は借家全盛時代であったので、乱歩もそうしたようだ。戦後になってから買い上げて自分の所有としている。立教大学は2002年に「創立130年事業」の一環として、不動産を買い上げたようだ。

(母屋の奥に土蔵)

乱歩がこの家を借りることにした決め手は土蔵があること。「いわゆる幻影城とよばれる土蔵」は、邸宅のウラにある。土蔵が書庫になっているのだ!

(幻影城=土蔵=書庫)

一般公開はされているが、なかに入ることはできない。あくまでもガラス越しにチラ見することができるだけだ。それでも、公開日以外は敷地内に入れないのだからありがたいものだ。玄関、洋間の応接、そして待望の土蔵=書庫を見ることができた。

(土蔵の書庫のなか-几帳面に整理されている)

幻影城=土蔵=書庫のなかは、書籍がじつに几帳面に整理されているが、江戸川乱歩自身が無類の整理魔であったためらしい。ある意味ではきわめて機能的な書庫になっていたわけである。実物データベースというべきだろうか。

江戸川乱歩というと『少年探偵団シリーズ』が有名なので、子どもむけの物語作家というイメージを持っておられる方も少なくないだろう。じっさいに、旧乱歩邸の玄関にもシリーズ本が並べられている。

(母屋にある洋間の応接室・・レイアウトは乱歩自身だそうだ)

その一方では、とくに前期にはきわめて猟奇的な作品や探偵小説(・・現在の推理小説)も少なくない。探偵小説といえば、夢野久作が大好きなわたしだが、同時代に活躍した江戸川乱歩も「昭和モダン」というレトロ感覚がじつにいい。関東大震災後の東京という場所がなければ成立しなかった作品群である。

なかに入ることができないのは残念だが、旧乱歩邸ではガイドブック(500円)が販売されているので参考になる。内部の写真はネット上でも見ることができるので、関心のある方は検索してみるといいだろう。

とはいえ、やはり「現地」である。「現場」である。乱歩の小説の主人公である明智小五郎もまた犯罪がおこった「現場」で思考する。

だから、旧江戸川乱歩邸という「現地」は、いちどは踏んでおきたいスポットだ。


(乱歩邸の正面)

<関連サイト>

旧江戸川乱歩邸 (立教学院創立130年記念事業
・・立教大学キャンパス内。月・水・金曜(公開は水・金曜のみ)(10時30分~16時)
*公開日の見学は予約不要

(地図の右下に乱歩邸)



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『うずまき』(伊藤潤二、小学館、1998-1999)-猛暑で寝苦しい夜にはホラー漫画でもいかが?
・・怪奇もの、ホラー(恐怖)もののマンガ

スワイン・フルー-パンデミック、すなわち感染症の爆発的拡大における「コトバ狩り」について
・・江戸川乱歩=エドガー・アラン・ポー(笑) ポーの傑作短編 『赤死病の仮面』について取り上げている

米倉斉加年画伯の死を悼む-角川文庫から1980年代に出版された夢野久作作品群の装画コレクションより
・・「探偵小説」の世界の同時代人・夢野久作

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む

「今和次郎 採集講義展」(パナソニック電工 汐留ミュージアム)にいってきた-「路上観察」の原型としての「考現学」誕生プロセスを知る
・・関東大震災後の東京

「東洋文庫ミュージアム」(東京・本駒込)にいってきた-本好きにはたまらない!

「東北関東大震災」(2011年3月11日)直後とその後-千葉県船橋市から

『随筆 本が崩れる』 の著者・草森紳一氏の蔵書のことなど

書籍管理の"3R"

「武相荘」(ぶあいそう)にはじめていってきた(2014年9月6日)-東京にいまでも残る茅葺き屋根の古民家
・・白洲次郎・正子夫妻の「終の棲家」(ついのすみか)。白洲正子の書斎と蔵書は必見

「没後50年・日本民藝館開館75周年-暮らしへの眼差し 柳宗悦展」 にいってきた
・・「駒場の日本民藝館もまた、二階建てのつくりで古い日本家屋である。現在ではかえってぜいたくなライフスタイルとなっているかもしれないが、かつての日本人のフツーの生活を想像するにはふさわしい空間である」

(2014年8月29日、9月11日、2015年6月24日 情報追加)


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