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2013年6月22日土曜日

祝! 富士山が 「世界遺産」 に正式認定(2013年6月22日)

(広重 神奈川沖浪裏)

富士山が「世界遺産」(World Heritage Site)に正式に認定された。

カンボジア王国の首都プノンペンで開かれていた世界遺産の登録会議。以前に申請したときはゴミ問題がネックになったのだが、その後の努力で問題解決がなされたことが大きいようだ。

今回はかならず認定されることになっていると言われていたものの、正式に認定されるとうれしいものだ。

むかし株主総会でよくみられたシャンシャン大会みたいに、結論は決まっているので 10分で終わるといわれていた会議がなんと 50分もかかったのだそうだ。

各国委員からは富士山礼讃の声また声で、しかも諮問委員が勧告から除外していた三保ノ松原も一括で認定というサプライズな結果となった。世界が富士山に寄せる思いはそれほど大きなものがあるのだ

(北斎 赤富士)

庶民信仰の対象の聖なる山は、浮世絵の画題として日本人の心に刻み込まれただけでなく、広重や北斎が描いた富士山は、大胆な構図と色彩が西洋美術に衝撃を与えたことはよく知られていることだ。

永谷園のお茶漬けにおまけとしてついていた、広重の「富嶽三十六景」のカードを想起するのだが、いくら頑張っても残念ながら 「富嶽三十六景」すべてを集めることはできなかったと記憶している。

「富士は日本一の山」から世界の富士山へ。

まずはめでたし、めでたし、といいうことで一件落着。







<関連サイト>

世界遺産活動|公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 (公式サイト 日本語)


<ブログ内関連記事>

 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 総目次
(1) 一生に一回くらい山小屋で働いてみたい!
(2) 宿泊施設としての山小屋 & 登山客としての軍隊の関係
(3) お客様からおカネをいただいて料理をつくっていた
(4) 自然の驚異
(5) 噴火口のなかに下りてみた


富士山は遠くから見ると美しい-それは、対象との距離(スタンス)の取り方の問題である

落日に映える富士山と丹沢山系




(2012年7月3日発売の拙著です)





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2013年6月21日金曜日

英語よりも日本語をキチンと教育してもらいたい!-「英語至上主義」と訣別し、人的資源の有効活用策を考えるべし

(経済産業省の資料より)


大学における英語教育をめぐって、自民党が打ち出してきた政策がさまざまな波紋を生み出しているようだ。

そんななか、こんな記事があるのをみつけた。「英語プアの日本人は、ますます下流化する-安倍政権の英語政策にモノ申す」 

タイトルは編集部がつけたのでキャッチーだが、内容もそれにおとらず飛躍した論理に満ち満ちたものであった。記事の最後のほうにこのような一節があったので引用しておこう。

私が驚いたのは、2カ月ほど前、「大学入試にTOEFL導入へ」のニュースが流れたとき、NHKの「ニュースWEB」でコメンテーターの古市憲寿氏が、こう言ったことだ。「英語がしゃべるようになってもバカはバカなまま。結局、英語がしゃべれるバカが増えるだけではないですか」。私は、耳を疑った。なぜ彼のような20代後半の若い世代、しかも気鋭の社会学者がこんな考え方をしているのだろうか?・・(後略)・・ 。

「古市憲寿氏のコメントに驚く」というコメントに、わたしはさらに驚いた(笑) こういう考えの人間がいることはわかるが、あまりもおかしな意見なので、正直あきれかえってしまう。近来まれにみる愚論である。

「グローバル化という見えない恐怖」におののく日本人がまた一人ここにいるのではないか? 原発事故で「放射能という見えない恐怖」におびえて職場放棄し、海外逃亡した人間と同じではないか? 

一言でいえば、日本人特有の「不安」とそれに対する「過剰反応」である。そしてその背後にあるのは、本人も意識していないかもしれない「英語至上主義」というイデオロギーである。


「第三次グローバリゼーション」もいずれ終息に向かう

英語はできればいいにこしたことはないが、そもそも、すべての日本国民が英語ができる必要はない。日本国民全体で3割もいれば御の字だろう。

現在でも日本国民の7割近く(・・データによる裏付けはないが実感に基づく推計)は英語とは無縁の人生を送っているはずだからだ。

日本のGDPに占める輸出比率は、2割をきっている。2000年代後半に15%を越えたが、それまではずっと15%以下である。そもそも日本は、韓国や中国とはまったく異なる「内需中心」の経済構造なのだ。

グローバル化が右肩上がりで際限なく進展するという幻想に過ぎない。

現在のグローバル化は第三次だが、第一次(=大航海時代)、第二次(=産業革命と帝国主義の時代)のいずれも、グローバリゼーションは右肩上がりで進展したのではない。

しかも、今回の第三次は冷戦崩壊後のものだが、すでに資本主義にとってのフロンティア消失が視野に入ってきており、すでにピークアウトしていると見るのが穏当である。「近代」は終わり、現在はつぎの時代に移行するまでの、比較的長い移行期にあるのである。

この事実に気付くには、まだ10年から20年はかかるかもしれないが。


国内市場のちいさい小国と人口大国のサバイバルはまったく異なる

よく引き合いにだされるフィンランドだが、人口が500万人しかいないような小国であれば、海外で稼ぐことは必須である。

しかし、そのフィンランドでも近年は国内での技能職を選ぶ生徒が増えているという。そのほうが食える可能性が高いからだ。

人口減少が叫ばれる日本だが、なんと1.2億人(!)もいる人口大国である。小国と同列で論じるのはナンセンスとしかいいようがない。これから50年たっても、まだ9千万人(!)もいるのである。

1945年(昭和20年)に敗戦し、その後5年間にわたってアメリカに占領された日本だが、その5年間のあいだに日本人は英語をしゃべるようになったか? 

不幸なことにアメリカによる軍政が28年間に及んだが沖縄だが、その間にすべての沖縄県民が英語をしゃべるようになったか?

答えは言うまでもないことだ。日本は占領されたが、間接統治によって占領政策は遂行された。沖縄の場合も琉球政府をつうじた間接統治であった。

かつてアメリカや英国の植民地であったフィリピンでもインドでも、すべての人間が英語ができるわけではない。そんなことは、じっさいにフィリピンやインドにいってみればすぐにわかることだ。

インドやフィリピンにおいてすら、英語ができるのは一握りの大学卒業者だけであり、一般庶民は必要があれば、外国人相手の商売で片言のピジン・イングリッシュをつかうのみである。

つまり食うための必要があれば、人間というものは片言であれ英語をあやつるのである。ただそれだけのことなのである。


個人レベルで考えれば得意分野やつよみに時間とカネをかけるべき

語学の天才でない限り、英語ができるようになるには、そうとうの時間とカネと忍耐が必要だ。日本語と英語は根本的に構造が異なる言語だからだ。

個人レベルにおいても、限られた時間とカネをなにに投入すればもっとも大きな成果がでるかという発想にたつべきではないか? 要は「資源配分」の問題だ。

個人ベースで考えれば、「強み」は徹底的に活かし、「弱み」はそのままほっておくのがただしい生き方だ。

英語ができてもサッカーが下手なら、ワールドカップには出場できないではないか(笑) 語学の勉強は、海外チームに移籍してからでも遅くない。そのときはサバイバルのために死に物狂いで勉強することになるだけの話だ。

しかも、移籍先がドイツならドイツ語、イタリアならイタリア語となる。かならずしも英語ではない。

そう考えると、英語が好きでもなく、不得意なのに勉強を強いられる多くの日本人生徒が、ほんとうにかわいそうだ。心の底からそう思う。

「強み」をもっと活かして職業選択を行えば、たとえ年収は低いとしても、自信をもって自分の人生を生きていけるのに・・・。


グローバルエリート、グローバルリーダーは徹底的に英語をしごき抜くべし

日本が弱肉強食の国際社会でサバイバルしていくためには、グローバルエリートやグローバルリーダーは徹底的にしごき抜いて英語の訓練をしなければならない。

先日、ネットで世界的に炎上した日本の国連人権大使のような外務官僚はエリートとはいえない。元駐オーストラリア全権大使とは思えない中途半端な英語で、「笑うな!シャラップ!」と、下品な英語で叫んだ外務官僚である。まことにもって日本人として恥ずかしい限りだ。こういうのを国辱という。

公式ボール改造の事実を選手に隠ぺいしつづけたプロ野球問題。コミッショナーも元駐米大使を経験した小役人である。このケースは英語の問題ではないが、みずからボールにサインしておきながら、知らなかったとシラを切るていたらく。こんな人物が日本を代表してアメリカで外交活動をしていたのである。考えるだに恐ろしい。

いずれも日本の国益を大きく毀損(きそん)する、救いようのない愚か者たちである。日本の命運にかかわってくる重大問題である。これがいわゆる「グローバルエリート」の実態だ。情けない。

英語ができればすばらしい人だという幻想は捨て去るべきだろう。

「エリート」の立場にある人は徹底的に英語をしごいて特訓しなおさなければならないのである。


大学入試のTOEFL一律導入はナンセンス

繰り返すが、すべての日本国民が英語ができる必要はない。必要なら尻に火がついてから猛勉強すればいい。

日本国内にいる限り、英語をつかう必要がほとんどないのである。必要なら自分で自主的にやるじはずだ。日本のマンガやアニメのセリフを読みたいから日本語を勉強するフランス人のように。

もちろん、英語を勉強するなといいたいわけではない。しかし、必要もないのにムダな時間とカネを費やすのはいかがなものかと思うのだ。

わたしは、大学入試のTOEFL一律導入は断固反対である。あまりにもナンセンスな話だからだ。大量生産方式の人材育成を前提にした政策だからだ。

実際問題として大学にいっても就職先がない(!)という事態も中位校以下では発生しており、大学進学の意味さえ不明になっているのが現状だ。


■英語は高校では「選択制」にすべし

高校以上は、英語は選択制にすべきである。義務教育の中学レベルの英語だけ完全に身に着けていれば、日常会話などたいていのことは足りるのである。いやむしろ、中学英語を徹底的に訓練したほうが、たいていの日本人にとっては武器になる。

近隣諸国との関係を考えれば、英語オンリーではなく中国語や韓国語を学習すべきである。これは選択制として高校から始めるべきだ。

大陸の中国語は簡体字とはいえ、すでに習ったはずの漢字を応用できるし、台湾や香港であれば日本では旧字体とよばれる正字体である。

韓国語の場合は、日本語と文法構造がきわめて近いし、しかも漢字語という共通語彙(ボキャブラリー)があるので、その点にかんしていえば英語を勉強するより日本語人には容易だろう。

日本に留学してくる中国人の多くが、東北地方(旧満州)出身の朝鮮族であること、韓国の大学入試では日本語選択が多いことを考えてみればいい。漢字のわかる韓国語使用者にとって、日本語は楽勝なのだ。ある程度まで、逆もまた真なりといえるだろう。

技能職への誘導をはかることも望ましい。つまり、高校卒業後は専門学校で手に職をつけたほうが、就職先のない大学進学よりも意味があるのではないかということだ。生きるとはまずは食うことであり、そのためには稼がなければならない。

そのために必要なことは、日本語をキチンと身につけ、日本人として恥ずかしくない振る舞いを身につけることだ。それがふつうの日本人が日本で生きていくためのチカラの源泉になる。


一人ひとりにキチンと向き合う教育が必要だ

いま小学校で英語教育が義務化されようとしているが、ますます英語嫌いを増やすだけのような気がする。

英語が苦手な生徒にまで英語学習を強要するのは、人的資源の無駄遣いだ。得意分野や強みを活かせと、ビジネス界ではさんざん言っているくせに・・・

生徒の一人一人と向き合って、将来の夢の実現にとって英語を勉強することが意味があるかないかを、納得させてあげることも必要だろう。

いまの日本の教育に欠けているのは、この「一人ひとりとキチンと向き合う」という姿勢である。大量生産方式の人材育成を前提にした教育改革は百害あって一利なし、だ。

日本人はもっと自らを見つめて、もっとも自分に適した生き方を選択すべきなのだ。



<関連サイト>

若き日本人が語る古き良き日本論【1】 ナショナリズムは人間の常識(TOKYO MX * 西部邁ゼミナール ~戦後タブーをけっとばせ~ 2013年6月1日)
・・同じテーマをナショナリズムjという側面から論じた番組

大研究 なぜ日本の企業はこんな採用をしているのか ユニクロ・楽天・グーグルほか 急増中!「英語ができて、仕事ができない」若手社員たち(「週刊現代」 2013年04月30日)
・・「就活が本格化すると、こぞってTOEICの教材を買い込む学生たち。日本の歴史や文化をよく知らないまま、英語ができるだけの「グローバル人材」となった若者たちに、仕事ができるわけはない」。


★学術研究の観点からの強力な助っ人が出現!

「日本人の英語学習熱は非常に高い」? 「日本人と英語」にまつわる誤解を解き明かす 『「日本人と英語」の社会学』 寺沢拓敬氏インタビュー  (WEDGE、2015年4月17日)

「日本は英語化している」は本当か?-日本人の1割も英語を必要としていない (寺沢拓敬 / 言語社会学、SYNODOS、2014年8月21日)
・・きわめて心強い援軍が現れた! この記事の筆者の研究成果が、『「日本人と英語」の社会学-−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか-』(寺沢拓敬、研究社、2015)として出版されている。




日本人の「英語下手」は教育を変えても変わらない。その単純な理由歴史は何度でも繰り返す(堀井憲一郎、現代ビジネス、2016年9月4日)
・・日本国内では必要ないから英語を勉強するモチベーションが低い。ただそれだけのこと。

(2015年7月8日、2016年10月17日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

外国語の学習について

福澤諭吉の『学問のすゝめ』は、いまから140年前に出版された「自己啓発書」の大ベストセラーだ!
・・「あるいは書生が「日本の言語は不便利にして文章も演説もできぬゆえ、英語を使い英文を用うる」なぞと、取るにも足らぬ馬鹿をいう者あり。按ずるにこの書生は日本に生まれて未だ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉はその国に事物の繁多なる割合に従いて次第に増加し、毫も不自由なきはずのものなり。なにはさておき今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり」(十七編 人望論) 

<現代語訳>
「あるいは学生が「日本語は不便利で演説もできないので、英語をつかって英文を用いる」などと、取るにも足らない馬鹿なことをいう者がいる。思うにこの学生は、日本に生まれたのにもかかわらず、いまだ十分に日本語をもちいたことがないのだろう。一国のコトバは、その国の事物が複雑になってくれば、その割合にしたがってボキャブラブラリーが増えてなんでも言い表せるようになってくるものであり、まったく不自由であるわけがない。なにはさておき、いまの日本人は日本語をつかってコミュニケーションの上達につとめるべきだ」(私訳)

英語よりも日本語がまず先決だ!と、かの英語名人の福澤諭吉でさえ 140年前にこのように説いているのである。心して読むべし!!


『大本営参謀の情報戦記-情報なき国家の悲劇-』(堀 栄三、文藝春秋社、1989 文春文庫版 1996)で原爆投下「情報」について確認してみる
・・「ところで余談だが、わたしの祖父は、大正時代の "忘れられた戦争" である「シベリア出兵」に陸軍兵士として出征している。人を撃つのはイヤなので、志願して通信兵になったと聞いたことがある。敵として対面していたのは革命政権側のパルチザン部隊。敵の通信傍受がその基本任務であったようだ。そのために軍隊内の教育でロシア語を猛勉強したといっていたが、暗号解読についての話は聞きそびれたのでわからない」 
⇒ 必要に迫られれば、尋常小学校卒の学歴の一兵卒でも、ロシア語すら習得可能なのだ。語学は必要性がなければ勉強しないものだ。

書評 『日本語は亡びない』(金谷武洋、ちくま新書、2010)-圧倒的多数の日本人にとって「日本語が亡びる」などという発想はまったく無縁


英語圏のアングロサクソン思想に巣食う鬼子

『エコ・テロリズム-過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ-』(浜野喬士、洋泉社新書y、2009)を手がかりに「シー・シェパード」について考えてみる ・・アングロサクソンの英語圏に特有の偏頗な思想について

映画 『ザ・コーヴ』(The Cove)を見てきた
・・アングロサクソンの英語圏に特有の偏頗な思想について


グローバリゼーションの意味を見誤るな!

書評 『英語だけできる残念な人々-日本人だけが知らない「世界基準」の仕事術-』(宋文洲、中経出版、2013)-英語はできたほうがいいが、英語ができればいいというものではない

書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む

書評 『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)-12世紀からはじまった資本主義の歴史は終わるのか? 歴史を踏まえ未来から洞察する


人材育成との関連で

書評 『失われた場を探して-ロストジェネレーションの社会学-』(メアリー・ブリントン、池村千秋訳、NTT出版、2008)

書評 『蟻族-高学歴ワーキングプアたちの群れ-』(廉 思=編、関根 謙=監訳、 勉誠出版、2010)-「大卒低所得群居集団」たちの「下から目線」による中国現代社会論

フィンランドのいまを 『エクセレント フィンランド シス』で知る-「小国」フィンランドは日本のモデルとなりうるか?

書評 『韓国のグローバル人材育成力-超競争社会の真実-』(岩渕秀樹、講談社現代新書、2013)-キャチアップ型人材育成が中心の韓国は「反面教師」として捉えるべきだ

「沖縄復帰」から40年-『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(佐野眞一、集英社、2008)を読むべし!

「JICA横浜 海外移住資料館」は、いまだ書かれざる「日本民族史」の一端を知るために絶対に行くべきミュージアムだ!




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2013年6月18日火曜日

「スティル・ライフ」-アートで哲学してみよう

(筆者撮影)


ちょいとアートっぽい写真が撮れたのでアップします。


誰が置いたのか熟れた梅の実が一つ。
無機質な黒い金属板のうえに。
これは人が置いたのでしょう。

誰が置いたのか木の葉が一枚。
無機質な黒い金属板のうえに。
これは自然に落ちてきたのでしょう。

梅雨時の雨でできたちいさな水たまりに打ち込んだ木々。
濁った池の水面に映る木々。
宇宙が写りこんでいるみたいな感じ。

こういうのをスティル・ライフ(still life)というのですね。
日本語でいえば静物。スチール写真のスチル。

静止しているが生きているのが生命。
人工と自然。静止状態と生命活動。

水も蒸発し、梅の実も木の葉もすぐに朽ち果てる。
金属も腐食し、いずれは朽ち果てる。

この世はすべて無常。つねならず。
時の試練に耐え得るものは、ない。

形あるものはかならず滅びる。
ではいったい存在とはなにか?



図らずも、ちょいと哲学したくなる写真になりました。



(jpg の機能で色を反転させたもの 筆者撮影)


<関連サイト>

静物画(スティル・ライフ) wikipedia日本語版
・・西洋美術史の文脈における静物画の意味


<ブログ内関連記事>

「アート・スタンダード検定®」って、知ってますか?-ジャンル横断型でアートのリベラルアーツを身につける

「知の風神・学の雷神 脳にいい人文学」(高山宏 『新人文感覚』全2巻完結記念トークイベント)に参加してきた





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2013年6月17日月曜日

【セミナー開催のお知らせ】 「生きるチカラとしての教養」(2013年6月27日)

(中世ヨーロッパの七自由学芸=リベラルアーツの図像表現)


【イベント開催のお知らせ】

来る 6月27日(木)に、ひさびさに一般向けセミナーを開催します。

タイトルは、「生きるチカラとしての教養」 です。

拙著 『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』(佐藤けんいち、こう書房、2012) の出版から、まもなく一年になろうとしてますが、編集の際にカットしたものも多々あるものの、書くべきことはすべて書き切ったと思ってました。

しかし、意図的に書かなかったことがあります。

それは 「教養」 です。

「アタマの引き出し」は「専門知識」と「雑学」だ、という趣旨のことを『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』で強調しましたが、「雑学」という表現をつかったのは「教養」よりも幅広く、かつ裾野が広いという意味でありました。

しかし、かならずしも 「教養」=「知識」ではありません。知識が多ければいいという趣旨のことを拙著では書いてますが、「教養」はその「知識」を体系化し、自分で考えるため「知恵」とし、生きていくための「知恵」をつくりだすものなのです。

時代の転換期にあるいま、スキルやノウハウだけでは、もはや限界に達しています。自分の軸とするもの、頼るべきものとしての「教養」がいまこそ求められているのではないか、と。

しばらくぶりに、みなさんといろいろ「対話」を再開してみたいという気持ちになってきました。

そこで、「教養」をテーマにしてお話してみることにした次第です。


なぜ「教養」を取り上げるのか

わたしは、大学は、「実学」重視の一橋大学を卒業していますし、留学先のアメリカのレンセラー工科大学では「実学」として MOT(技術経営)を専攻し MBA(経営学修士)を取得している現役のビジネスマンです。

一橋大学もレンセラー工科大学も、ともに「実学」重視の専門教育機関として出発した大学です。一橋大学といえば商学、レンセラーといえば工学で、ともに「実学」です。

その「実学」重視の大学で、大学学部では「歴史学」を、大学院では「経営学」を学びました。ともに「実学」ではありますが、それぞれの大学のメインストリームではありません。しかし、前者の歴史学は商学から、後者の経営学は工学から必然的に要請され、育てられてきた学問分野なのです。

つまり「実学」は極めれば極めるほど、逆説的にリベラルアーツ(教養)教育が必要になってくるということを意味しています。小手先のテクニックやノウハウを越えた思考の分野にまで踏み込んでいかなくてはならないからです。

「専門」にはかならず哲学・宗教・歴史といった「リベラルアーツ」の裏付けが必要であるというのはアメリカでは常識ですし、もちろんヨーロッパでは言うまでもありません。ヨーロッパの大学制度を導入した日本においても、それは同じことです。

ビジネススクールのMBA教育ですら、すぐに役立つスキルやノウハウではなく、ビジネス界で生きていくためのリベラルアーツ教育であるという位置づけがアメリカではなされています。

哲学・宗教・歴史といった、いっけんすると役に立たない「虚学」ともいうべき学問は、じつは専門を深く極めるためには欠くことができない重要な要素なのです。役に立つか立たないかは、すぐ役に立つか、そうではないかの違いに過ぎません。


セミナーで話す内容について

セミナーでは、時代の転換期に必要なものはなにかという観点から、哲学・宗教・歴史といった、「すぐに役にはたたないが、じつはすごく役に立つ(!)「教養」というものについて、みなさんと「対話」をつうじて考えていきたいと思います。

-「教養」とはなにか?
-なぜ「教養」が必要か?
-どうしたら「教養」は身に着くか?


『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』をすでにお読みになっていると、話の内容がわかりやすいと思いますが、まだお読みでない方もおおいにウェルカムです。

終了後には、飲食をまじえた「懇親会」も考えておりますので、ぜひ「教養」とは何かいついて語り合いましょう! 


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<イベント開催概要>

場所: ルノアール飯田橋西口店マイスペース
   (東京都千代田区富士見2-2-6 今井ビル2階
     電話番号 03-5226-6345)
時間: 2013年6月27日(木) 19時~21時
参加者: 10名程度
会費: 2,500円 (別途、各自で飲み物を注文してください。持ち込み不可です)
懇親会: セミナー終了後、居酒屋等で懇親会を開きます(希望者のみ)
お申し込み方法: フェイスブックのアカウントをお持ちの方は、イベントページにて「参加する」ボタンを押してください。 https://www.facebook.com/events/132292253642150/

アカウントをお持ちでない場合は、ken@kensatoken.com までメールでお願いします。
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<関連サイト>

学長見解2013 ─ 二つの重要課題と一橋大学プラン135
・・実学と教養の関係について一橋大学の歴史に則して記述されている


<ブログ内関連記事>

ビジネスパーソンに「教養」は絶対に不可欠!-歴史・哲学・宗教の素養は自分でものを考えるための基礎の基礎

M.B.A.(経営学修士)は「打ち出の小槌」でも「魔法の杖」でもない。そのココロは?
・・「ビジネススクールでは、たとえ主専攻がファイナンスであろうが、マーケティングであろうが、まずまんべんなく全ての科目を履修することが求められる。全体を視野に入れたうえで、個別の専門を研究すべしという姿勢が一貫している。ビジネススクールも例外ではない。これは米国のリベラルアーツ教育の根本姿勢である」

書評 『私が「白熱教室」で学んだこと-ボーディングスクールからハーバード・ビジネススクールまで-』(石角友愛、阪急コミュニケーションズ、2012)-「ハウツー」よりも「自分で考えるチカラ」こそ重要だ!
・・「日本のように受験が最終目的なのではなく、自分がやりたいこと、やるべきことを見つけるための幅広く勉強することが求められる環境。なるほど、できるアメリカ人が専門分野だけではなく、幅広くモノを知っている理由はそこにあるのだなと納得させられるのだ。リベラルアーツとはそういうことである」

「バークレー白熱教室」が面白い!-UCバークレーの物理学者による高校生にもわかるリベラルアーツ教育としてのエネルギー問題入門

書評 『教養の力-東大駒場で学ぶこと-』(斎藤兆史、集英社新書、2013)-新時代に必要な「教養」を情報リテラシーにおける「センス・オブ・プローポーション」(バランス感覚)に見る

日本語の本で知る英国の名門大学 "オックス・ブリッジ" (Ox-bridge)

いまあらためて「T型人間」、「Π(パイ)型人間」のすすめ-浅く幅広い知識に支えられた「専門プラスワン」という生き方で複眼的な視点をもつ

書評 『知的複眼思考法-誰でも持っている創造力のスイッチ-』(苅谷剛彦、講談社+α文庫、2002 単行本初版 1996)

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと





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2013年6月16日日曜日

「生誕100周年記念 中原淳一展」(横浜そごう)にいってきた(2013年6月15日)-「装う、暮らす、生きる。すべてに "美" を求めた芸術家」


「生誕100周年記念 中原淳一展」(横浜そごう)にういってきました。

生誕100周年でかつ没後20年。中原淳一(1913~1983)は雑誌編集からファッションデザイナーにとどまらずマルチな才能を発揮した芸術家です。

百貨店の企画展ではなく巡回展であるようですが、この展覧会は百貨店にはふさわしい。なぜなら、中原淳一は「芸術のための芸術」ではなく、日本の少女たちに、外面も内面も美しくなってほしい思いを貫いて生きた人だったからです。

中原淳一作品を販売する「ひまわり屋」のサイトにはこうあります。

生誕100周年記念 中原淳一展 (朝日新聞社主催) 中原淳一生誕100年を記念し、原画を中心に雑誌や付録など約400点を展示。 中原淳一の軌跡を浮き彫りにします。 初公開となる「ひまわり」の表紙絵3点や、淳一を敬愛するファッション・デザイナー 丸山敬太さんによる豪華なドレスの再現などが話題を呼んでいます。

中原淳一は、いわゆる芸術家(アーチスト)というよりも、「美」の伝道者として職人(アルチザン)として一生にわたて手仕事をつづけた人です。

日本女性に与えた影響は圧倒的なものだといっていいでしょう。じっさい、この展覧会では、「かつての少女」とおぼしき高齢の女性たちが、思い思いの感想をくちにしながら展示物をみている姿を多く目にしました。圧倒的に女性比率の高い美術展です。

(チケット当日券)

『それいゆ』や『ひまわり』、そして『ジュニアそれいゆ』といった雑誌はスタイルブックでもあり、読者みずからがそのパタンにしたがって洋裁することも想定していたようです。

かつての日本の家庭にはミシンがありました。いまはもう家庭でミシンを踏む主婦は皆無に近いのではないかと思いますが、家庭にかならずミシンが一台はあった時代、中原淳一の提案するファッションは家で母親が娘のためにミシンを踏み、あるいは少女がみずからミシンを踏みという光景があったのでしょう。

「洋裁」という日本語も、すでに死語と化しているのかもしれません。洋裁は「お直し」という形で家庭の外に出て外部サービス化しているのが現状ですが。

(展示会カタログにマグネット2点)

フランスやパリがまだまだふつうの日本人からはあまりにも遠い世界であった頃、中原淳一がイラストレーションとともに提案したライフスタイルは日本の少女たちに夢を与えた存在でしたが、「装う、暮らす、生きる。すべてに "美" を求めた芸術家」といえば、「愛と美」を説き、中原淳一を絶賛している美輪明宏を引き合いにださなければならないでしょう。

人間にとってもっとも大事な価値といえば「真善美」となりますが、日本人にとってもっとも大事なのは「美」美という価値には外面的な美しさだけでなはく、内面的な美しさ、つまり倫理までが含まれるからです。

展示の最後にある著名人多数による「中原淳一賛」の数々。そのすべてをひとつひとつ読んでいくと、中原淳一が日本の一般大衆の夢をはぐくみ育てた近代(モダン)という時代の意味を感じ取ることができると思います。

中原淳一という存在があったからこそ、日本と日本人を代表する概念として「かわいい」がいまや世界的なものとなっているのではないだろうか、そんな気持にもなってきます。

現在からみれば「昭和レトロ」といった印象もある中原淳一のイラストレーション。竹久夢二の大正ロマンの作風の模倣から出発した中原淳一は、独自の世界をつくりあげることに成功しました。

この抒情性あふれるイラストレーションは、日本人にとってはどんなハイカルチャーよりもはるかに意味をもっているのではないかと思います。

(美術館に再現された中原淳一流にコーディネートしたモダンなお部屋)


モノのない時代に工夫することで人生を幸せにする方法を説いてやまなかった中原淳一は、低成長がつづいているいまのような時代にこそ、ふたたび顧みられるべき存在でしょう。

たとえ所得があがらなくても、人生を幸せにするのは、気持ちの持ち方とちょっとした工夫であるのだから。

最後に、中原淳一が『女の部屋』創刊号(1970年)に記した詩を引用しておきます。

もしこの世の中に、風にゆれる『』がなかったら
人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。

もしこの世の中に『』がなかったら、
人々の人生観まで変わっていたかもしれない。

もしこの世の中に『信じる』ことがなかったら、
一日として安心してはいられない。

もしこの世の中に『思いやり』がなかったら、
淋しくて、とても生きてはいられない。

もしこの世の中に『小鳥』が歌わなかったら、
人は微笑むことを知らなかったかもしれない。

もしこの世の中に『音楽』がなかったら、
このけわしい現実から逃れられる時間がなかっただろう。

もしこの世の中に『』がなかったら、
人は美しい言葉も知らないまゝで死んでいくだろう。

もしこの世の中に『愛する心』がなかったら、
人間はだれもが孤独です。





PS. 美術展の会場でこんな本をみつけました。中原淳一ショップ「それいゆ」がそごう横浜店内に限定出店されています(美術館のすぐ前のスペース)。

『中原淳一の幸せな食卓-昭和を彩る料理と歳時記-』(中原淳一、集英社be文庫、2004) 昭和レトロでいい味だしてます。




中原淳一に大きな影響を受けた一人が美輪明宏。『愛と美の法則』(美輪明宏、PARCO出版、2009)の「第4章 マルチに生きる」で中原淳一との交友が取り上げられています。この本の表紙には中原淳一の「蝶々夫人」がつかわれています。




<関連サイト>

「生誕100周年記念 中原淳一展」(横浜そごう)
・・会期は、2013年7月15日まで。そごう横浜店6階。入場は午後8時まで。

中原淳一(Junichi Nakahara)OFFICIAL (フェイスブックページ)


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2013年6月15日土曜日

「岡本太郎のシャーマニズム」展にいってきた(2013年6月15日)-エリアーデの『シャーマニズム』が岡本太郎に与えた影響の大きさを知る企画展


「岡本太郎のシャーマニズム」展にいってきた。

岡本太郎、しかもシャーマンなんてテーマ設定したら、それこそ狂喜乱舞して爆発というイメージを喚起するのないか!

今回の企画展の案内文がまたそれをさらにそそる。

「あるとき、突如彼はシャーマンになる。」岡本は1950年代初めころよりシャーマニズムへの関心を示し始める。今展覧会では、岡本太郎が作品に込めた意図を解明する手がかりとして、岡本の興味をシャーマニズムへと向かわせたと考えられる、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデの著作『シャーマニズム-古代的エクスタシーの技法』(1951)等に着目し、1940年代から晩年までの岡本作品の意図解明を試みる。

「あるとき、突如彼はシャーマンになる。」というのは、岡本敏子さんの発言らしい。

戦前はパリでマルセル・モースに師事して民族学(エスノロジー)を研究し、みずからの素養としてたことは比較的知られるようになってきたといいだろう。

そもそも1970年の大阪万博に企画段階から参加していたのは、芸術家としてシンボル塔の発想にかかわっていただけではなく、民族学者の梅棹忠夫からつよく請われたためでもあるらしい。

フランスで学問を修めた岡本太郎は、戦後は宗教学者のミルチャ・エリアーデの諸著作をフランス語で読み込んでいたことが、今回の企画展で強調されている。2010年の「生誕100年 人間・岡本太郎 展・前期」(川崎市岡本太郎美術館) で、岡本太郎の蔵書の一部が展示されていたふが、そのなかにエリアーデの著作を発見したわたしはなるほど!と思ったものだった。

われわれが思っている以上に、岡本太郎はフランスの民族学や宗教学の影響を受けているようなのだ。この点についての研究がいま進んでいるらしい。その成果を反映したのが今回の企画展だ。

今回の企画展はシャーマニズム。ほんとうはシャマニズムと表記したほうがいい。なぜなら、シャーマンだと英語のように聞こえるが、シャマンは満州語が起源のようだからだ。



企画展 「岡本太郎のシャーマニズム」展について

川崎市の岡本太郎美術館は2年ぶりに訪問したが、向ケ丘遊園駅南口からあるいて20分弱の生田緑地のなかにある。

企画展は常設展示のスペースを通り抜けることになるが、いつきても岡本太郎の作品を目の前にすると、不思議にパワーがチャージされるのを感じる。岡本太郎ほど日本の枠の外に出ながら、日本人を元気にしてくれる存在はない。

常設展から企画展に移動する途中の回廊には、岡本太郎とマルセル・モースの民族学との関係も説明されているので(・・これは常設展示)、はじめての人はじっくりみておいたほうがいい。

企画展は、具体的な絵画作品や彫刻、それに岡本太郎が日本全国をフィールドワークして撮影した写真の展示に、岡本太郎が読み線引きしているエリアーデの引用を解説として加えたもの。シャマニズム関連の映像作品の上映もある。

日本のシャマンといえば、沖縄のノロや恐山のイタコなどがそれに該当する。東北のオシラサマもまた、シャマンの儀礼に使用されるものだ。これは岡本太郎の写真作品ろして見ることができる。

エリアーデに先行する宗教学者たちへの言及も親切である。

たとえば、『聖なるもの』で宗教体験の本質を「ヌミノーゼ」という概念で説明したドイツの宗教学者ルドルフ・オットーはきわめて重要だ。さらにいえば、『金枝篇』(The Golden Bough)のフレーザーもそれに加えるべきだろう。

マルセル・モースの叔父である社会学者エミール・デュルケムや、戦前のパリ時代には盟友であったジョルジュ・バタイユなども、岡本太郎の芸術思想を作り上げる上で多大の影響があったようだ。

エリアーデの『シャーマニズム』の副題は「古代的エクスタシーの技法」となっているが、ここでいう「エクスタシー」とは「忘我(状態)」のことを意味している。シャマンにおいては、霊魂が離脱して飛翔した状態をさしている。

(垂直に上方に伸びる生田緑地のメタセコイア 岡本美術館につづく道にある)


絵画作品にみられるのがシャマンの飛翔というテーマ天上への垂直方向への飛翔である。これはエリアーデがとくに取り上げている北方アジアに共通するものである。エリアーデ宗教学の主要テーマである「世界樹」(axis mundi)にも反映されている。

今回の展示では、なんといっても彫刻作品が圧倒的だ。

有名な「ノン」(否)というおちゃめな怪物のような彫刻もいいし、いっけんすると猛牛のような印象を受ける「樹霊」という作品の存在感はじつに圧倒的。樹木の霊(スピリット)を形象化したこの作品は、フレーザーの『金枝篇』にインスパイアされたらしい。じつは美術館のカフェテリアに面した池に設置されている作品と同じであった。

(岡本太郎 「樹霊」)

個々の作品の背後にある岡本太郎の思想現代人にとっての魂の叫びとしての宗教について考え、体感することのできる展示である。人間の根源にあるものについて、つねに思索をつづけ、それを芸術作品としてアウトプットしてきたのが岡本太郎である。

すでに近代は終わり、近代合理主義を相対的にみることができるようになっているからこそ、若い人たちを中心に岡本太郎は圧倒的な人気をもっているのだと思う。その意味では岡本太郎は時代の先駆者であり、こんごもまだまだ大きな影響を与えていく存在であることは間違いない。

岡本太郎好きなら、やや学術的な色彩がつよいという印象を受けるかもしれないが、かならずいくべきだといっておきたい。







<関連サイト>

「岡本太郎のシャーマニズム」展(2013年4月20日(土)~7月7日(日))

川崎市岡本太郎美術館 公式サイト


<ブログ内関連記事>

「生誕100年 人間・岡本太郎 展・前期」(川崎市岡本太郎美術館) にいってきた (2011年6月)

「生誕100年 岡本太郎展」 最終日(2011年5月8日)に駆け込みでいってきた

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・この本の表紙は「縄文人の彫刻」であある

書評 『ピカソ [ピカソ講義]』(岡本太郎/宗 左近、ちくま学芸文庫、2009 原著 1980)

本の紹介 『アトリエの巨匠に会いに行く-ダリ、ミロ、シャガール・・・』(南川三治郎、朝日新書、2009)

マンガ 『20世紀少年』(浦沢直樹、小学館、2000~2007) 全22巻を一気読み・・大阪万博の太陽の塔を見ることのできた少年たち、見ることのできなかった少年たち

「メキシコ20世紀絵画展」(世田谷美術館)にいってみた
・・パブリック・アートとしてのメキシコの「壁画運動」。岡本太郎もその影響を大きく受けており実作もしている。メキシコで発見され里帰りした壁画は、2008年以降は渋谷駅に展示され、有るべき姿でよみがえった

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・宗教学者エリアーデの『聖と俗』について、ややくわしく言及してある

書評 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)-魂の哲学者・井筒俊彦の全体像に迫るはじめての本格的評伝
・・エリアーデとも接点のある哲学者

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」

(2014年6月14日 情報追加)




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2013年6月14日金曜日

「旧江戸川乱歩邸」にいってみた(2013年6月12日)-「幻影城」という名の「土蔵=書庫」という小宇宙



旧江戸川乱歩邸(立教大学キャンパス内)にいってみた。あの探偵小説作家の江戸川乱歩の旧宅が立教大学に譲渡されて保存されていることを、つい最近のことだが知ったからだ。

検索してウェブサイトを調べてみると、月・水・金と開いているらしいが、一般公開は水曜日と金曜日のみで、しかも10時半から16時(午後4時)までだという。

今週水曜日、ちょうど新宿方面で用事があったので、その前にちょっと池袋に立ち寄ってみることとした。

再開発計画の一環として渋谷駅がさらに複雑怪奇になったばかりだが、新宿駅も池袋駅も、いつになってもわたしにとってはラビリントス(迷宮)である。あたかも江戸川乱歩の世界のように(笑)

池袋駅はふだんは東口に用事が多いのだが、立教大学のキャンパスは西口にある。立教大学にいくのはひさびさだが、アメリカ風のレンガつくりにツタのからまった大学建築物はステキだ。しかも、歩いている女子学生が垢ぬけてオシャレな印象もつよい。江戸川乱歩とはなかなか結びつかないのだが、乱歩と立教のつながりはなかなか深いものがあるようだ。

(立教大学キャンパス内)

そのキャンパスの一角に旧江戸川乱歩邸があるはずなのだが、事前にきちんと地図を見ていなかったためか、なかなか探すのに骨が折れた。

キャンパスの配置図をみてもなかなか乱歩邸に行き着けず、まさに乱歩的ラビリントス(迷宮)かとあきらめかけていたが、ようやくたどりついたら16時、職員の女性が門を閉める直前のことであった。

「ちょっとだけ見てもよろしですか?」とダメもとで頼み込んでみたら、OKしていただいただけでなく、なんと親切なことに案内までしていただいた。さすが日本人! 官僚的なしゃくし定規な対応ではない対応に感謝。時間に厳密なヨーロッパだと絶対にあり得ないことだ。

引っ越し魔の乱歩は、なんと46回の引っ越しの末に(・・よくカウントしていたものだ。几帳面な性格がうかがわれる)、昭和9年(1934年)にこの地に引っ越してきたのだという。当時はまだ静かな環境であったようだ。

戦前は借家全盛時代であったので、乱歩もそうしたようだ。戦後になってから買い上げて自分の所有としている。立教大学は2002年に「創立130年事業」の一環として、不動産を買い上げたようだ。

(母屋の奥に土蔵)

乱歩がこの家を借りることにした決め手は土蔵があること。「いわゆる幻影城とよばれる土蔵」は、邸宅のウラにある。土蔵が書庫になっているのだ!

(幻影城=土蔵=書庫)

一般公開はされているが、なかに入ることはできない。あくまでもガラス越しにチラ見することができるだけだ。それでも、公開日以外は敷地内に入れないのだからありがたいものだ。玄関、洋間の応接、そして待望の土蔵=書庫を見ることができた。

(土蔵の書庫のなか-几帳面に整理されている)

幻影城=土蔵=書庫のなかは、書籍がじつに几帳面に整理されているが、江戸川乱歩自身が無類の整理魔であったためらしい。ある意味ではきわめて機能的な書庫になっていたわけである。実物データベースというべきだろうか。

江戸川乱歩というと『少年探偵団シリーズ』が有名なので、子どもむけの物語作家というイメージを持っておられる方も少なくないだろう。じっさいに、旧乱歩邸の玄関にもシリーズ本が並べられている。

(母屋にある洋間の応接室・・レイアウトは乱歩自身だそうだ)

その一方では、とくに前期にはきわめて猟奇的な作品や探偵小説(・・現在の推理小説)も少なくない。探偵小説といえば、夢野久作が大好きなわたしだが、同時代に活躍した江戸川乱歩も「昭和モダン」というレトロ感覚がじつにいい。関東大震災後の東京という場所がなければ成立しなかった作品群である。

なかに入ることができないのは残念だが、旧乱歩邸ではガイドブック(500円)が販売されているので参考になる。内部の写真はネット上でも見ることができるので、関心のある方は検索してみるといいだろう。

とはいえ、やはり「現地」である。「現場」である。乱歩の小説の主人公である明智小五郎もまた犯罪がおこった「現場」で思考する。

だから、旧江戸川乱歩邸という「現地」は、いちどは踏んでおきたいスポットだ。


(乱歩邸の正面)

<関連サイト>

旧江戸川乱歩邸 (立教学院創立130年記念事業
・・立教大学キャンパス内。月・水・金曜(公開は水・金曜のみ)(10時30分~16時)
*公開日の見学は予約不要

(地図の右下に乱歩邸)






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『うずまき』(伊藤潤二、小学館、1998-1999)-猛暑で寝苦しい夜にはホラー漫画でもいかが?
・・怪奇もの、ホラー(恐怖)もののマンガ

スワイン・フルー-パンデミック、すなわち感染症の爆発的拡大における「コトバ狩り」について
・・江戸川乱歩=エドガー・アラン・ポー(笑) ポーの傑作短編 『赤死病の仮面』について取り上げている

米倉斉加年画伯の死を悼む-角川文庫から1980年代に出版された夢野久作作品群の装画コレクションより
・・「探偵小説」の世界の同時代人・夢野久作

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む

「今和次郎 採集講義展」(パナソニック電工 汐留ミュージアム)にいってきた-「路上観察」の原型としての「考現学」誕生プロセスを知る
・・関東大震災後の東京

「東洋文庫ミュージアム」(東京・本駒込)にいってきた-本好きにはたまらない!

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『随筆 本が崩れる』 の著者・草森紳一氏の蔵書のことなど

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「武相荘」(ぶあいそう)にはじめていってきた(2014年9月6日)-東京にいまでも残る茅葺き屋根の古民家
・・白洲次郎・正子夫妻の「終の棲家」(ついのすみか)。白洲正子の書斎と蔵書は必見

「没後50年・日本民藝館開館75周年-暮らしへの眼差し 柳宗悦展」 にいってきた
・・「駒場の日本民藝館もまた、二階建てのつくりで古い日本家屋である。現在ではかえってぜいたくなライフスタイルとなっているかもしれないが、かつての日本人のフツーの生活を想像するにはふさわしい空間である」

(2014年8月29日、9月11日、2015年6月24日 情報追加)




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2013年6月13日木曜日

書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである



『見える日本 見えない日本』という魅力的なタイトルのこの対談集は、出版されてから10年たつがいっこうに文庫化される気配がない。だから単行本の段階で読む。そして2013年現在でも読んで面白い。

本書に収録された対談が行われたのは、1996年から2002年までの6年間。月刊『薬の知識』(ライフサイエンス社)という、おそらくその世界に関係ある人しか知らないであろう雑誌に連載されたものである。

読むとじつにおもしろいので、ついつい最後まで読んでしまう。

2003年のベストセラー 『バカの壁』(新潮新書)で一躍ときの人となった養老氏だが、この対談集でもその独特なものの見方が存分に発揮されている。

また、本人もある対談のなかで語っているのだが、1937年(昭和12年)生まれという「世代論」で説明できるようだ。

つまり、日本が敗戦をむかえた1945年(昭和20年)の時点ではまだ中学生であり、価値観の大転換を目の当たりにした世代なので、なにも信じなくなったのだということだ。

もちろん、医学のなかでも解剖学を専門としていたことも理由であるようだ。解剖学は医学の基礎部門であるが、ある特定の病気の治療を目的とした学問ではない。外科における実用の学でもありながら、それじたいは実用の学ではないという不思議な存在である。

この対談集は対談相手の発言も面白い。対談相手が著名人であっても、その人の対談集に収録されていないものもあるので、この対談集で読む意味がある。

テーマ別に三部に編集されている。この編集はじつに巧みだ。全体的に「脳と身体の関係」をベースにした養老節なのだが、わたしなりにタイトルをつけるとするとこんな感じだろうか。

第一部 いわゆる理系的教養で「見えない世界」をみる
第二部 「見えないもの」への感受性がカギ
第三部 「見えない日本」としての世間を理解し、それをどう越えるか

対談が行われた1996年時点で阿部謹也(1935~2006)の「世間論」にもっとも深い理解を示し、その後 「世間論」を徹底的に使いこなして独自のものの見方にまで発展させているのは養老氏がピカイチであろう。

それは、養老氏が定年を前にして東大教授を辞めるという形で、ご自身も「世間」から外に飛び出た人だからだろう。この点は、ドイツ文学者の池内紀氏も同様だ。「世間」のなかにいては、「世間」そのもの対象化して捉えることは至難のわざである。

不文律としての「世間」、暗黙のルールとしての「世間」、書かれざる憲法である「世間」。意識化すると問題がしょうじるのが「世間」の不文律。

問題提起を行ったのは歴史家の阿部謹也先生だが、養老氏の理科系的な発想も踏まえて、「世間」はより立体的に捉えることが可能になった。

妊娠中絶が倫理的問題にならないのに脳死が問題になっている日本(・・2013年時点でも臓器提供する人はまだまだ少ない)、こんな事例をつうじて日本における法律の意味もわかってくる。

いまだ生まれていない者はメンバーではなく、死ぬことによってはじめて脱出できるのが、利害関係でつながった人間関係である「世間」なのである。

日本ではなぜ「個」として生きるのが難しいのか、その理由は「公」(おおやけ)としての「世間」の存在にあるのだが、「世間」について考えたかったら、養老孟司も読むべきだと思う。





目 次

第一部
荒俣宏(作家)-混ざる文化・混ざらぬ文化
奥本大三郎(フランス文学者)-虫を愛でる日本人の自然観
田崎真也(ソムリエ)-香りの認識のメカニズム
酒井忠康(美術評論家)-日本の景観とパブリック・アート
藤原正彦(数学者・作家)-数学と日本的美意識
第二部
水木しげる(マンガ家・妖怪研究家)-無意識に身を任せる
横尾忠則(画家)-魂の復権
岸田秀(評論家)-現実とは脳が作り出した産物
中村桂子(生物学者)-“個”を救済する新たなシステムを
上田紀行(文化人類学者)-疑似“癒し”からの脱却
第三部
大石芳野(写真家)-ベトナムの森に思う
池内紀(ドイツ文学者。エッセイイスト)-言葉の壁を超えて
ピーター・バラカン(ブロードキャスター)-メンバーズ・クラブの国、日本
阿部謹也(歴史学者)-“世間”から飛び出して生きる
黒川清(医学者)-“本気”のスピリット

著者プロフィール  

養老孟司(ようろう・たけし)
1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、インターンを経て解剖学教室に入り、東京大学大学院医学系研究科基礎医学専攻博士課程修了。標本作りなど、研究のかたわら、文学的領域でも活動の場を広げてきた。1995年に東京大学医学部教授を退官、1996年より北里大学教授。東京大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<関連サイト>

養老孟司×隈研吾×廣瀬通孝 鼎談:日本人とキリスト教死生観(2) (日経ビジネスオンライン 2014年3月25日)
・・「相対評価」ではなく「絶対評価」が個人主義を育む」  近代精神の主導者であるイエズス会系の栄光学園という男子校出身者の三人が語りあう記事。養老孟司氏が阿部謹也の「世間論」をいちはやく理解した背景がわかる。一部引用しておこう。

- 以前、養老先生は、日本人とキリスト教は折り合いが悪いとおっしゃっていました。
養老: そうね、だから世間にふたつの基準ははいらない、という。
- 若い時にキリスト教的な価値観を浴びたことで、ご苦労されたことはありますか。
養老: 苦労というか、考え方ですよね。これは自分じゃなかなか分からないんですけど、考え方は相当、影響を受けているんじゃないですか。キリスト教的な考え方に合う、合わない、というもとの性質はあるとは思いますけど。だって僕は日本の世間とは、もともとあまり合わないじゃないですか。・・(後略)・・


なお、上記の対談は『日本人はどう死ぬべきか?』というタイトルで日経BP社から単行本化されている(2014年11月28日 記す)





<ブログ内関連記事>

養老孟司氏関連

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点

書評 『唯脳論』(養老孟司、青土社、1989)-「構造」と「機能」という対比関係にある二つの側面から脳と人間について考える「心身一元論」

書評 『身体巡礼-[ドイツ・オーストリア・チェコ編]-』(養老孟司、新潮社、2014)-西欧人の無意識が反映した「文化」をさぐる解剖学者の知的な旅の記録


阿部謹也と「世間論」

クレド(Credo)とは
・・後半の「クレド(credo)とは-その原義をさかのぼる」で、『世間を読み、人を読む-私の読書術-』(阿部謹也、日経ビジネス人文庫、2001)から長い引用を行って「信徒信経」としてのクレドについてくわしく解説した

書評 『新・学問のすすめ-人と人間の学びかた-』(阿部謹也・日高敏隆、青土社、2014)-自分自身の問題関心から出発した「学び」は「文理融合」になる
・・「世間」について触れてある

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 に参加してきた(2011年5月14日)
・・「特別対談:『無智の壁』 養老孟司氏&スマナサーラ長老 司会:釈徹宗氏」

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?


その他の対談者の著作

書評 『ことばの哲学 関口存男のこと』(池内紀、青土社、2010)

書評 『富の王国 ロスチャイルド』(池内 紀、東洋経済新報社、2008)

(2014年3月25日、7月27日、9月1日 情報追加)




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2013年6月9日日曜日

遅ればせながらアニメ 『進撃の巨人』を第10話からローカル局の東京MXで見始めた-戦わなければ生き残れない!



遅ればせながらアニメ 『進撃の巨人』を第10話から見始めた。

今夜(2013年6月9日)は第10話。第1話から9話までは、YouTubeに投稿されている映像を主題歌などはしょって一気に視聴しておいた。

わたしが住んでいるのは千葉県船橋市だが、ローカル局の 東京MX の電波は入ってくる。東京MX では 23:30からの深夜枠で放送されている。

とにかく主題歌「紅蓮の弓矢」がやみつきになる。曲と歌詞の双方にすっかりはまってしまった。何度も繰り返し聴いている。


「紅蓮の弓矢」
作詞・作曲・編曲 - Revo / 歌 - Linked Horizon

Sie sind das Essen und wir sind die Jäger.
Ha …Ha ! attack on titan

踏まれた花の名前も知らずに
地に堕ちた鳥は風を待ちわびる

祈ったところで何も変わらない
今を変えるのは 戦う覚悟さ

屍(しかばね)踏み越えて
進む 意思を
笑う 豚よ
家畜の安寧
虚偽の繁栄
死せる餓狼(がろう)の自由を

囚われた屈辱は反撃の嚆矢(こうし)だ
城壁のその彼方
獲物を屠(ほふ)る
Jäger(イェーガー)

迸(ほとばしる)る衝動に
その身を灼(や)きながら
黄昏(たそがれ)に緋(ひ)を穿(うが)つ
紅蓮(ぐれん)の弓矢

Ha …Ha ! attack on titan
Ha …Ha ! attack on titan

(*Sie sind das Essen und Wie sind die Jäger. というドイツ語は、カタカナで音を示せば「ジー・ジント・ダス・エッセン・ウント・ヴィーア・ジント・ディー・イェーガー」、意味は 「奴らは獲物 おれたちは狩人」とでもなるだろうか。)


このオープニング曲(OP)はじつにいい! 曲も歌詞も心に響く。ついつい何度も聴きこんでしまう。

内容は、ごく簡単にいってしまえば、こんな感じである。

「壁」の向こうにいる「巨人」という得体のしれない存在におびやかされる人類。100年のあいだ壁に守られてきた人類だが、安寧というその状態に慢心していたのだった。あるとき、いきなり壁が決壊し「巨人」が侵入してくることから人類は「現実」に目覚めることになる。そして、生き残るためには戦うしかないという「覚悟」を決めた若者たちの過酷なサバイバルが始まる。

「巨人」によって、「壁」はあっけなく崩れてしまう。なんだか、「3-11」の大津波に抵抗できなかった堤防を連想させるが、原作は「3-11」以前に書かれたものだ。町並みはドイツ風で、登場人物もドイツ人のような人名になっているが。

だが、『進撃の巨人』の主人公たちの姿勢は、かつて一世を風靡した 『エヴァンゲリオン』 にみられる「ひきこもり的消極主義」とはあきらかに違う

「祈ったところで何も変わらない 今を変えるのは 戦う覚悟さ」、と歌詞にある。

まさに! 戦わなければ生き残れない!

とにかく一歩まえに踏み出さない限り、なにも変わらないのだ。

そして結果がどうであろうと、覚悟を決めるしかない。これは決断主義といっていいだろう。

原作のマンガ本はすでに全世界に広がっているようだ。アニメ版によってさらに全世界にこの日本発の世界観が拡散していくことになろう。

戦わなければ生き残れない! 

まさに、いまという時代の空気を体現したアニメである。





<関連サイト>

TVアニメ 進撃の巨人 公式サイト
・・放送は、MBS、東京MX、テレビ愛知、福岡放送、北海道テレビ、テレビ大分、BS11、ニコニコ動画にて。ローカル局中心の放送で深夜枠。

『進撃の巨人』 マンガ原作の公式サイト(講談社)

進撃の巨人OP「紅蓮の弓矢」

マンガ「進撃の巨人」の制作現場にテレビが初潜入 日テレ「未来シアター」諫山創(YouTube)
・・「進撃の巨人」の単行本は累計販売部数1300万部超、TVアニメも目下放送中。破竹­の勢いでヒット街道を突き進む、諫山の作家性に迫る」(投稿者の解説文)。

日本のアニメ「進撃の巨人」を巡って韓国で話題沸騰 「巨人」が住む世界は、「有銭無罪、無銭有罪」の韓国社会を象徴?(趙 章恩 日経ビジネスオンライン 2013年6月6日)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20130604/249112/?P=1
・・韓国でも『進撃の巨人』の影響は多大なものがあるらしい。
「韓国では最近、Twitterや新聞の見出しに「進撃の○○」という表現が頻繁に登場する。これは何を意味する流行語なのだろうかと思い調べてみたら、日本のアニメ「進撃の巨人」から影響を受けたものだった。 「進撃の巨人」は、今、韓国の若い世代に大人気だ。「進撃の巨人」のアニメ版が日本のテレビに初めて放映された4月7日、韓国のファンの間で「いよいよアニメの放映が始まった。韓国にも輸入してほしい」との意見が盛り上がった。・・(以下略)・・」

マンガ『進撃の巨人』、韓国で異例の大ブーム&社会現象化のワケと裏側~日韓同時放送も(Business Journal  2013年8月16日)
・・「第10話からTOKYO MXでの放送時刻とまったく同じ毎週日曜日午後11時30分という「日韓同時進行」で放映を行っている。韓国では98年から順次、日本の大衆文化のオンエアを開放してきたが、「日韓同時進行」は珍しい。それだけ『進撃の巨人』人気が凄まじいことを物語っている」。


PS 9月29日の放送で25話終了。謎は謎のまま残った。ぜひ続編を見たいものだ(2013年9月29日)


<ブログ内関連記事>

3月10日は「佐藤の日」(笑)-『リアル鬼ごっこ』という小説を知ってますか?
・・サバイバル系の小説 『リアル鬼ごっこ』について書いた記事。この記事を書いた翌日、「3-11」という大地震と大津波、そして原発事故が発生した

京都国際マンガミュージアムに初めていってみた(2012年11月2日)- 「ガイナックス流アニメ作法」という特別展示も面白い

書評 『中国動漫新人類-日本のアニメと漫画が中国を動かす-』(遠藤 誉、日経BP社、2008)

書評 『秋より高き 晩年の秋山好古と周辺のひとびと』(片上雅仁、アトラス出版、2008)--「坂の上の雲」についての所感 (5)
・・『進撃の巨人』に登場するピクシス司令は秋山好古(あきやま・よしふる)がモデルだという説がある。たしかに肖像的にはよく似ているような気も・・




(2012年7月3日発売の拙著です)








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「倫理」の教科書からいまだ払拭されていない「西洋中心主義」-日本人が真の精神的独立を果たすために「教科書検定制度」は廃止すべし!



いま高校では「倫理」が必修ではないらしい(?)という未確認情報を耳にしました。

その情報の真偽は定かではありませんが、「倫理」の教科書はいまどうなっているのか興味をもった次第です。

そこで、取り寄せてみたのが 『もういちど読む 山川 倫理』(小寺聡=編、山川出版社、2011)。定評のある山川の教科書 『現代の倫理 改訂版』 をベースにを一般向きに読みやすく編集したものです。構成や取りあげられた項目や人名は教科書に準拠しているのでしょう。

「一般常識」としての思想や哲学のさわりについて復習してみたい人には、手頃な読み物になっているといっていいのではないかと思います。

わたしの高校時代は『倫理社会』という名称で、略して「倫社」といっていたものですが、この『山川倫理』をざっと見たところでは、内容的にも構成的にも大きな変更がないようです。

だが、それが問題なのだ!

どういうことか、まずは構成がどうなっているか見ておきましょう。わたしが太字ゴチックにした個所に注目してみてください。

もくじ:ふたたび倫理を学ぶみなさんへ
序章 現代社会と自己への道
プロローグ 自分を探す旅
  1 自己の発見
  2 他者との出会い
  3 社会に生きる自己
  4 人生の意味を求めて
第1章 思索の源流
  1 哲学と思索
  2 宗教と祈り
第2章 西洋の近代思想 
  1 人間の尊厳
  2 近代科学の考え方
  3 民主主義の考え方
  4 近代の理性的な人間像
  5 人間と働くこと
  6 幸福と創造的知性
  7 真実の自己を求めて
  8 生命の尊厳とヒューマニズムの思想
  9 新しい知性と現代への批判
第3章 日本の思想 
  1 日本の風土と文化
  2 古代日本人の心
  3 日本人と仏教
  4 儒教とさまざまな思想
  5 日本の近代化と新しい思想
第4章 現代の倫理的課題
  1 科学技術の発達と生命
  2 地球環境問題と私たち
  3 情報社会とその課題
  4 国際化と異文化理解
  5 世界の平和と人類の福祉
エピローグ 命の星に生きる

この「もくじ」をみて、なにも感じないひとがいたら、それは大きな問題です。

わたしにはまったく理解できないのは、なぜ「第2章 西洋」が先に来て日本は第3章として後回しになっているのかということ。

あたかも、明治維新以前には、日本には思想も哲学もなかったのかというような印象を受けるではありませんか?

「いま、ここ」に生きている日本人にとっての「倫理」になっていないのではないでしょうか?

たしかに、古代ギリシアもキリスト教も仏教も、その源流を押さえておくことは重要です。まずは仏教、そして儒教・道教、そしてキリスト教が日本人のものの考え方に大きく与えてからです。

だが、なぜ西洋思想が日本思想の前にくるのか、わたしにはまったく理解できません。

どうも、科学技術に限らず、「近代化」が「西欧近代化」からはじまった日本は、明治維新からすでに150年近くもたっているのに、いまだに「近代主義」も払拭できず、かつ「西洋中心主義」からも離脱できていないようです。

この国はいまだに「精神的植民地」という無意識の固定観念から、みずからを解き放つことができていないのかもしれません。

しかし、それは一般人の発想ではないでしょう。一般人にとっては、まずなによりも食うために稼ぐということがもっとも重要であり、「いま、ここに」生きている世界は日本という現実の場に生きているからです。

わたしには、「教科書検定制度」が諸悪の根源のように思われてなりません。

教科書検定は文部科学省が管轄していますが、文部官僚という国家エリートには「西洋中心主義」というテーゼが固定観念としてこびりついているという印象を受けるのです。この国のエリートは、一般人から遊離し、西洋近代と一体化した上昇志向のきわめてつよい「階層」なのです。

たしかに、日本は近代化、つまりは西欧近代化することによって、弱肉強食の競争世界のなかでサバイバルしてきました。その意味では日本は近代化の優等生であったわけです。

しかし、すでに近代は終わり、国際世界のなかで日本と日本人が生き残っていくためには、まずなによりも日本人がみずからのアイデンティティを明確にすることから始めなければならないのです。

グローバル化しているからこそ、日本人の自覚が不可欠となるのです。日本人はみずからの足元を掘り下げなくては独自性をもった存在として生きていくことはできない状況にあるのです。

そのためには、まず日本人がこれまでなにを考えてきたのか、それこそ徹底的に知らねばならないのでないでしょう。そして教科書の記述としては、日本人がこれまでどんな思想や哲学の影響を受け、みずからの思想を主体的につくりあげてきたのかという内容にしなくてはならないのではないかと、と。

高校教科書における「西洋中心主義」、これもまた明治維新以来の官僚制度の大きな問題です。教科書という形で行われてきた「思想教化」の問題点がここに集中的にあらわれていると言わねばなりません。

わたしは、教科書検定制度は廃止し、教科書は完全に自由化するべきだと考えます。そうでなければ、日本人の「精神的独立」は達成できないでしょう。

もういいかげん、「近代はすでに終わっている」ということを認識しなくてはならないのです。

とはいえ、この 『もういちど読む 山川 倫理』 はよくできた本なので、高校倫理の復習をしたい人にはよい手引きとなるでしょう。ただし、この教科書をつかうにあたっては、問題点については認識しておくべきではないか、と思うのです。





<関連サイト>

『もういちど読む 山川 倫理』(山川出版社のウェブサイト)

「できる!」とネイティブに思わせるのに英語は要らない-劣等感の3重構造を崩す(林則行、日経ビジネスオンライン 2013年6月11日)
・・英語が苦手の日本人には、いまだに根強い「舶来志向」があることが指摘されている語られる。2013年になっているというのに・・・


<ブログ内関連記事>

書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない

書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!

書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか?

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに

書評 『近世の仏教-華ひらく思想と文化-(歴史文化ライブラリー)』(末木文美士、吉川弘文館、2010)

ETV 「日本人は何を考えてきたのか」 第8回「人間復興の経済学をめざして-河上肇と福田徳三」は見るべき価値のある番組




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2013年6月7日金曜日

「移動図書館」-これもまたぜひ後世に遺したい戦後日本の「昭和遺産」だ!


先日のことですが、用事があって訪問した先からもよりの駅まで歩いて戻っているとき、千葉県船橋市の住宅街のなかで停車している「移動図書館」を見ました。

ああ、いまでも移動図書館ってあるんだな~、と。

都心だと昼食の移動販売車や献血車はよく見ますが、移動図書館は見ないですねえ。移動図書館はいまでは地方都市や図書館へのアクセスがむずかしい地域などでは見られるようです。

この日も小さな子どもと一緒のお母さん方がたくさん集まってました。読み聞かせ用の絵本を借りるのかな?

移動図書館って、なんだか日本の戦後民主主義を象徴するようなシステムのような気がする。子どもの頃、東京都三鷹市に住んでいましたが、教育内容で有名だった明星学園や移動図書館の存在が、わたしの場合、「戦後民主主義」という連想と結びついて記憶されているのかもしれません。

wikipedia などで調べてみると、移動図書館(bookmobile あるいは mobile library)は19世紀なかばの英国だそうだ。その頃はもちろん馬車であったらしい。その後、米国やドイツなどでも定着したのだと。

そういえば移動図書館ではないが、リヤカーに本をたくさんつんで移動販売する行商人のシーンが、アイザク・バシェヴィス・シンガー原作でバーブラ・ストライサンド主演監督製作の映画『愛のイエントル』(1983年)に登場していたことを思い出しました。舞台設定は20世紀初頭、ポーランドのユダヤ人居住区でありました。

移動図書館が日本で普及が始まったのは敗戦後の1948年(昭和23年)、やはり「戦後」だったのですね。自動車の普及がはじまったのは戦後になってからですからね。

移動販売車については、ホットドッグやクレープなど都市部の飲食関連と除けば、ほかの国では見た記憶がありません。日本ではいまでもよくみる野菜の移動販売車は、タイのバンコクの路地裏で見たことがありますが・・・。

日本でも移動図書館はあまり見なくなりましたが、その理由は、電子図書化が進んでいるという理由よりも、wikipedia情報によれば、地方財政問題が背景にあるようです。また、ディーゼル規制に対応できないため廃車となり、移動図書館そのものもなくなっているケースも少なくないのだとか。

だが、発展途上国ではまだまだニーズが高く、日本の移動図書館はそういった国々では活躍しているらしい。よろこばしいことですね。海外で、日本でつかわれていた中古自動車や中古の鉄道車両が現役で活躍しているのに出合うとうれしいものですよね。

日本でも「3-11」の大津波の被害にあった地域では、移動図書館が活躍しているという話を聞いたこともあります。

こういういい制度はまだまだ長生きしてほしいものだと思います。やはり、本は本の形をしているほうがいい。とくに子どもたちのためには。



PS 東日本大震災の被災地で復興に貢献する「移動図書館」!

『走れ!移動図書館-本でよりそう復興支援-』(鎌倉幸子、ちくまプリマー新書、2014)

形ある本をつうじての復興支援! (2014年3月17日 記す)





<ブログ内関連記事>

これがバキュームカーだ!-下水道が整備される以前の「昭和遺産」である

電気をつかわないシンプルな機械(マシン)は美しい-手動式ポンプをひさびさに発見して思うこと

本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)・・映画『愛のイエントル』について書いてある





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2013年6月4日火曜日

「人間尊重」という理念、そして「士魂商才」-"民族系" 石油会社・出光興産の創業者・出光佐三という日本人



「2013年本屋大賞」は 『海賊とよばれた男』百田尚樹著(講談社) に決定いたしました!」、そうですね。「本屋大賞」とは、出版社ではなく、「全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本」のことです。

わたしはこの小説は読んでませんが、主人公のモデルとなった出光佐三(いでみつ・さぞう)は大好きです。まさに「海賊」のような起業家、「反骨」と「独立」、しかもつねに日本のためを意識して行動してきた経営者であり、しかも美術への造詣も深い一級の人物であったというべきでしょう。

出光佐三といえば出光興産。いわゆる 「民族系」 石油元売り会社です。なぜ「民族系」という表現が冠となっているかというと、日本の石油産業は外資比率が飛びぬけて高い業界だからなのです。

エッソとモービル、そしてぜネラル石油が米国メジャーのエクソンモービル系、昭和シェル石油は英蘭系メジャーのロイヤルダッチシェル(・・シェルはもともと横浜が発祥の地です)。

外資系だけで石油製品の国内販売シェアの約3~4割を占めています。石油業界というのは、こういう業界なのです。

そのなかでも出光興産は、まさに名実ともにふさわしい 「民族系」というべき会社でしょう。知る人ぞ知るといったところでしょうが。

また、wiki の出光佐三の項目には、以下の記述があります。

皇室を崇敬することが極めて篤く、死去したおりに昭和天皇が次の歌を残した。「出光佐三逝く 三月七日  国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ」 

この昭和天皇御製は昭和53年(1988年)のものです。出光興産の公式ウェブサイトには、出光佐三の「日本人にかえれ」という発言が紹介されています。

その昔、石油業界の仕事はかなりやっておりましたので、こういう業界事情にはやや詳しいわけでありあります。むかしとった杵柄ということですね。

ちなみに、わたしの父は神戸大学の出身ですが、はるかむかしの卒業式の祝辞で神戸大学(・・かつての神戸高商)OBの出光佐三がスピーチをしたことを聞きました。そのときに出光佐三がクチにした 「士魂商才」というフレーズが記憶に残っているのだと。

武士の魂でもって商売せよという意味の「士魂商才」 とは 「和魂洋才」のもじりですね。出光佐三の場合は、それは日本のために尽くすということでありました。

たとえばもっとも有名なのは、石油メージャーをさしおいてイランから原油を調達した「日章丸事件」(昭和28年 1953年)をあげることができるでしょう。出光興産のウェブサイトには以下のように紹介されています。

メジャー支配に挑戦した「日章丸事件」
1953(昭和28)年5月、出光は石油を国有化して英国と抗争中のイランから石油輸入を敢行し、中東産油国との直接取り引きの先駆けとなりました。英国側は積荷の所有権を主張して出光を提訴しましたが、結局、出光側の主張が全面的に認められ、戦勝国を相手に一歩も引かない堂々たる姿勢が日本国民を大いに鼓舞しました。

冒頭に掲載した写真は、貸倉庫から取り出してきた、出光佐三の著書 『人間尊重五十年』(春秋社、1962) と、『人間尊重の事業経営』(出光興産株式会社、1962)。この本は、わたしがまだ20歳代前半、職場の図書館で読みましたが、おおいに感銘を受けたものです。除籍図書として処分されることになったので、わたしが払い下げを受けて所有しているものです。

組織人事からビジネスキャリアを開始したわたしのような人間にとっては、「人間尊重」(!)という経営理念を掲げて経営してきた会社があるということは、じつに驚きであり、かつ、すばらしいと感銘を受けたものでありました。




いまでこそ2006年に株式公開して「普通の会社」になりましたが、かつてはなんと大企業なのに「定年制なし」、「資金調達は借り入れのみ」という、かなり特異な事業経営を行っていた個性的な会社でもありました。

2011年には創業百年、出光興産のウェブサイトには「人間尊重の百年」というスペシャルコンテンツが掲載されています。『人間尊重五十年』が出版されたのは1962年、それからすでに50年も経過しているわけですね。

ぜひこの機会に出光佐三という傑出した日本人について、もっと知ってもらいたいと思う次第です。

そのためには、『海賊とよばれた男』を読むのもいいかもしれませんね。いままで出光佐三のことを知らなかった人には驚きのエピソードの連続でしょう。

日本人ここにあり、というべきですね。






<関連サイト>

「人間尊重の百年」 出光興産ウェブサイト

出光美術館 公式ウェブサイト (東京丸の内、北九州門司港レトロ地区)
・・出光佐三が惚れ込んで収集した仙崖(せんがい)の禅画においては世界一のコレクション。仙崖の禅画は1980年代に流行した「へたうま」の元祖ともいうべき稚気あふれる名品の数々




「統制と闘った反骨の経営者、出光佐三氏の「私の履歴書 復刻版」がスタート」(日経 Biz アカデミー 2014年2月6日)
・・日本経済新聞の名物連載物「私の履歴書」に出光佐三も登場していた!


<ブログ内関連記事>

書評 『渋沢栄一 上下』(鹿島茂、文春文庫、2013 初版単行本 2010)-19世紀フランスというキーワードで "日本資本主義の父" 渋沢栄一を読み解いた評伝
・・「士魂商才」とは日本資本主義の父・渋沢栄一によるフレーズである

NHKスペシャル 「シリーズ JAPANデビュー」 第3回 通商国家の挫折(2009年6月7日)は面白い試み
・・日本にとっても「石油の一滴は血の一滴」(フランス首相クレマンソー)であった

グンゼ株式会社の創業者・波多野鶴吉について-キリスト教の理念によって創業したソーシャル・ビジネスがその原点にあった!
・・グンゼもまた「人間尊重」を理念に掲げた会社

「信仰と商売の両立」の実践-”建築家” ヴォーリズ

書評 『叙情と闘争-辻井喬*堤清二回顧録-』(辻井 喬、中央公論新社、2009)-経営者と詩人のあいだにある"職業と感性の同一性障害とでも指摘すべきズレ"

書評 『ブルー・セーター-引き裂かれた世界をつなぐ起業家たちの物語-』(ジャクリーン・ノヴォグラッツ、北村陽子訳、英治出版、2010)

書評 『チェンジメーカー-社会起業家が世の中を変える-』(渡邊奈々、日本経済新聞社、2005)

「JICA横浜 海外移住資料館」は、いまだ書かれざる「日本民族史」の一端を知るために絶対に行くべきミュージアムだ!

書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?

「白隠展 HAKUIN-禅画に込めたメッセージ-」にいってきた(2013年2月16日) ・・仙崖(せんがい)以上に有名な禅画といえば白隠

(2014年12月9日 情報追加)



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禁無断転載!



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2013年6月2日日曜日

書評 『イギリスの大学・ニッポンの大学-カレッジ、チュートリアル、エリート教育-(グローバル化時代の大学論 ②)』(苅谷剛彦、中公新書ラクレ、2012)-東大の "ベストティーチャー" がオックスフォード大学で体験し、思考した大学改革のゆくえ


教育社会学者による英国の名門オックスフォード大学での4年間のリポートと考察である。

著者の専門は教育社会学教育問題を社会学というディシプリンで分析し可決策を考える社会科学系の学問である。しかも、東大では "ベストティーチャー" という評判をとっていた人だ。研究者としても教師としても一流の人である。

そんな著者が50歳を過ぎてから選択したのが、日本の一流大学ではなく、世界の一流大学でのチャレンジというものであった。英語圏のワールドクラスの大学での研究と教育体験、しかも専門が教育社会学であるだけに、たんなる印象論や体験談とは異なる深みがある。それは「参与観察」という表現を著者がつかっていることにもあらわれている。参与観察とは、直接コミットしながら同時に観察も行うという人類学や社会学の方法論のことである。

まずは、社会における大学の役割と位置づけが日本とは異なることが解説される。これは社会学的なものの見方である。市民社会におけるエリート教育の意味がわからないと、なぜオックスブリッジのような存在が21世紀のいまでもあり得るのかがわからないだろう。日本のような大衆社会との違いでもある。

オックスブリッジ(=オックスフォードとケンブリッジの総称)におけるカレッジとユニバーシティの違いという二重構造についての説明も、簡にして要を得たものである。この二重構造やチュトリアルといった教育システムについては、すでにオックスフォード出身ででケンブリッジ教鞭をとっていた川上あかね氏のものが日本語の書籍として出版されているので、それ自体がとくに目新しいものではない。

だが、本書の特色は、日本の大学を卒業し、アメリカの大学で博士号を取得し、その後アメリカで教え、日本の大学で18年にわたって教鞭をとり、その後に英国の名門オックスフォードで教えているという経歴から導き出される比較論である。

この比較論のうえに立って、日本の大学改革への処方箋まで提示しているのが本書の最大の特色だといっていい。「第3部 日本の大学改革のゆくえ」に書かれているが、そのためにも第1部と第2部も読んでおくことが前提になる。

大学大衆化にかんしては日本のほうがヨーロッパよりもはるかに早いのである。日本はアメリカ型の大学大衆化社会なのである。だが、ヨーロッパでもサービス経済化と知識社会化によって大学教育の重要性は増している。

日本の場合、意外に聞こえるが、大学教育においては「小さな政府」をいちはやく実践してきたことにある。つまり私立大学が8割を占める現状においては、教育費の国家財政における負担は小さいということだ。だが、学生納付金への高い依存度は、市場原理に左右されやすい。就職のよい大学という評判を維持することが大学にとってはきわめて重要である。

しかも、日本においては大学教育は厳密な意味での「受益者負担」ではない。学生ではなくその親が費用負担を行っているからだ。これは、財産贈与による所得移転ということもできる。日本の大学生が真剣に勉強しない理由の一つといえる。この状況を理解していないと、なぜ英国の学生による学費値上げデモが直接行動となったのかが理解できない。

「大学とは学問するところだ」という、当たり前のことが当たり前となっていないのが日本の大学であるという著者の指摘はきわめて厳しいが、きわめて正しい。

「大学は学問するところだ」という原点は、オックスフォード大学ではチュトリアル(tutorial)という教育システムによって担保されている。

チュトリアルとは一対一での教育法で、日本の大学で採用されているゼミナール制度にも似ているが、オックスフォードの場合、人文社会科学系の学部教育はすべてがチュトリアルによって行われるということが大きな違いだ。

この手のかかるがきわめて教育効果の高いシステムをつうじて、「知の再生産」(学習・理解)と「知の生産」(議論の発展)が実践されるのである。言い換えれば、インプットだけでなくアウトプットも重視されているということだ。いや、アウトプットこそが大事なのである。

だから、原点を見つめ直すことしか改革は不可能だという著者の姿勢にはまったく賛同だ。

大学院教育が世界の潮流となっているなか、日本の大学はその面では大幅に遅れている。この悪循環ともいえる状況をどう打破してくかについての提言が興味深い。

日本語という参入障壁に守られた日本社会における日本の大学は、そのすべてが世界レベルの競争に巻き込まれる必要はないだろう。

だが、トップクラスの大学から改革を目に見える形で実行していかなければ、日本に未来はないという著者の危機感、これだけは大学関係者だけでなく、卒業生の受け入れ先である企業にも共有していただきたいものだと思う。

同じ著者による姉妹編である『アメリカの大学・ニッポンの大学-TA、シラバス、授業評価-(グローバル化時代の大学論 ①)』(中公新書ラクレ、2012 初版は玉川大学出版局より1992年に刊行)とあわせて読んでおきたい本である。




目 次

はじめに-オックスフォードにあって東大にないもの
第1部 大学異文化体験録
 ハイ・テーブルとガウン
 カレッジとチュートリアル
 授業・試験・成績評価
 エリートを育てるということ
第2部 現代イギリス大学改革の潮流
 財政難と大衆化-イギリス大学改革の背景(2010年2月執筆)
 学生たちが暴動を起こした理由-大学教育は誰のものか(2011年2月執筆)
 大衆化時代のオックスブリッジ(2011年9月執筆)
第3部 日本の大学改革のゆくえ
 「閉じた競争」-グローバル競争から隔絶された日本
 ニッポンの大学に何ができるのか


著者プロフィール

苅谷剛彦(かりや・たけひこ)

オックスフォード大学社会学科および現代日本研究所教授、セント・アントニーズ・カレッジ・フェロー。1955年、東京都生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了、ノースウェスタン大学大学院博士課程修了、Ph.D.(社会学)。放送教育開発センター助教授、東京大学大学院教育学研究科教授を経て2008年から現職。著書に『大衆教育社会のゆくえ』、『知的複眼思考法』など多数
(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。




<関連サイト>

「教養? 大学で教えるわけないよ」 英国名門大、教養教育の秘密【前】 (池上 彰他、日経ビジネスオンライン、2014年6月24日)
・・東工大における「教養教育」の実践者ったいが英国流の「教養」について語り合う

「伊藤: 専門外の人に自分の専門をアピールするためには、単に分かりやすく伝えるだけではなくて、自分の専門が私たちの生きる社会とどのように結びついているか、その部分について相手に実感してもらう必要があります。なぜ、そういった会話が自然にできるのか。それは、イギリスの大学では、社会との関係を常にイメージしながら専門教育を進めているからです。そしてまさにこの部分をイメージする力が教養なのです。イギリスでは、教養は「専門外の知識」ではありません。「専門を活かすための知識」が教養なのです。
池上: なるほど。
伊藤:こうしたイギリスの教養観をひとことで表すのが「transferable skill」という言葉です。

理系、恋愛音痴、コミュ障を「教養豊か」に変えるには英国名門大、教養教育の秘密【後】 (池上 彰他、日経ビジネスオンライン、2014年7月1日)

(2014年6月30日 項目新設)


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日本語の本で知る英国の名門大学 "オックス・ブリッジ" (Ox-bridge)

書評 『知的複眼思考法-誰でも持っている創造力のスイッチ-』(苅谷剛彦、講談社+α文庫、2002 単行本初版 1996)

書評 『ことばを鍛えるイギリスの学校-国語教育で何ができるか-』(山本麻子、岩波書店、2003)-アウトプット重視の英国の教育観とは?

書評 『教養の力-東大駒場で学ぶこと-』(斎藤兆史、集英社新書、2013)-新時代に必要な「教養」を情報リテラシーにおける「センス・オブ・プローポーション」(バランス感覚)に見る

ビジネスパーソンに「教養」は絶対に不可欠!-歴史・哲学・宗教の素養は自分でものを考えるための基礎の基礎

書評 『「イギリス社会」入門 -日本人に伝えたい本当の英国-』(コリン・ジョイス、森田浩之訳、NHK出版新書、2011)

書評 『なぜ日本の大学生は世界でいちばん勉強しないのか?』(辻 太一朗、東洋経済新報社、2013)-「負のスパイラル」を断ち切るには?

書評 『大学とは何か』(吉見俊哉、岩波新書、2011)-特権的地位を失い「二度目の死」を迎えた「知の媒介者としての大学」は「再生」可能か?

(2015年4月15日 情報追加)




(2017年5月18日発売の新著です)


(2012年7月3日発売の拙著です)





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