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2012年5月5日土曜日

城下町・佐倉をしのぶには武家屋敷を訪れるべし-城下町佐倉を歩き回る ②


国立歴史民俗博物館の特別展を見るのが目的で、ひさびさに京成佐倉駅で下車した。成田空港や成田山にいくことはあっても、佐倉に降りることはあまりない。

何よりもそれ以外の佐倉については何も知らないということに気づかされたので、佐倉市内を歩いて探索することとした。

まずは観光案内で観光地図をもらって、ブリーフィングを受ける。意外と見て回るべきところがあることを知ることになる。城下町だから当然といえば当然なのだが。

観光案内所で観光地図をもとにブリーフィングを受けた際、ここはいくべきだとアドバイスを受けたなかの一つが武家屋敷であった。

レンタサイクルもあるが聞くと一日500円だという。以前、山形県の庄内平野ではレンタサイクルが無料だったので、即座に高いと思ってクチにした。結局、自転車は借りずに、城下町をぐるっと歩いて回ることとする。


佐倉は城下町

佐倉は、漁師町で宿場町の船橋と、成田山新勝寺の門前町である成田お結ぶ成田街道の中間に位置する城下町である。

幕末の外交交渉を担った老中・堀田正睦(ほった・まさよし)は佐倉藩藩主であった。佐倉城址公園には、米国のカウンターパートであったタウンゼント・ハリスと並んで銅像が建っている。

佐倉藩は11万石、石高としては中規模なものだろうが、現在でも佐倉の周辺は水田がひろがる稲作地帯である。近くにある印旛沼の開拓は、江戸幕府にとっては長年の懸案事項であったことは、日本史で習った人も多いだろう。田沼意次による印旛沼開拓事業は、失脚のため中途で中断してしまった。

まったくうかつなことに、佐倉が城下町であることはアタマでは知っていても、実感したことがなかったのだ。今回、じっさいに市内を歩いてみて、そのことを体感することとなった。やはりなにごとも三現主義でなくてはならないとあらためて感じている。現場・現物・現実の三現主義である。

国立民俗博物館でたっぷりと時間を過ごしたあと、そのまま佐倉城址を散策。ただし天守閣などはいっさいない。現在では佐倉城址公園として整備されている。



佐倉城は明治になってからは壊されてしまったらしい。この跡地に陸軍佐倉連隊(陸軍歩兵第二連隊)が置かれたためであるという。小高い丘のうえは戦略的要衝だから、近代国家になってからは、また軍事的な意味合いをつよく帯びることになったわけだ。なお、陸軍歩兵第二連隊が水戸に移駐後は歩兵第57連隊がかわりに転駐することになる。



そして敗戦によって陸軍は解体され、佐倉連隊もこの地から消えた。そして、佐倉城址には国立歴史民俗博物館が建設され現在に至るというわけだ。

佐倉城址は桜の名所、佐倉(さくら)に桜(さくら)をひっかけているのだろうか、なるほど陸軍が佐倉を好んだ理由も理解できる。ただ、昨日の時点ではすでに八重桜も散っていた。ただよく見ていると、そこにある桜はソメイヨシシノはすくなくオオシマザクラなどが多いのはめずらしい。

佐倉城址から坂を下り、「くらしの植物苑」へ。これは、国立歴史民俗博物館の付属の植物園



商品作物もまた、生活史における具体的なモノである。

公式サイトによれば、「生活文化を支えてきた植物を系統的に植栽し、その理解をより深めることを目的として、博物館の南東に位置する旧佐倉城の一郭に開設された自然を生かした植物苑」とのこと。この植物園の由来はよくわからないが、小石川植物園のような江戸時代の薬草園に起源があるのではなさそうだ。

さらに歩き、武家屋敷へ。ここはJR佐倉駅にも近い。城下町佐倉にはお城が残っていないが武家屋敷が残っている。



武家屋敷は現在4つ残っており、そのうち3つが一般公開されている。関東では有数の武家屋敷群であるらしい。ずいぶんむかしに津和野藩の森鴎外の実家(復元)を見たことがあるが、それとくらべると、かなり大きく立派である。

武家屋敷というと、乃木大将の出身地である長州の防府(ほうふ)が有名だが、佐倉の武家屋敷群は規模的には小さいとはいえ、貴重な遺産である。また、その近辺には、1880年(明治13年)から5年間、東京鎮台歩兵第2連隊長兼佐倉営所司令官として滞在していた児玉源太郎大将の旧宅跡もある。


佐倉には印旛地方にしかない麻賀多神社がある

武家屋敷のあとは、麻賀多神社にいってみた。マガダというのがなんだか奇妙な響きがあるので関心をそそられたからだ(・・じっさいはマガタ)。佐倉藩鎮守として大事にされてきた神社のようだ。




麻賀多神社の公式サイトには、つぎのような文言がある。

麻賀多神社という神社は、当社をはじめとしてこの佐倉市内に11社、隣接する酒々井町2社、成田市2社、富里市2社、八千代市1社を数えます。一見多く存在するようですが、これを全国的に見ますと他の地方には見られない、珍しい名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけての地域にのみ存在する神社です。
しかしながら今から約1050年程前に完成した政令集「延喜式」の巻第九・下総国の項に、この「麻賀多神社」の社名が記載されており、当時すでに中央にまで知られていた神社である事がわかります。

「麻賀多十八社」の惣社である麻賀多神社(成田)の wikipedia による説明 には、「延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の一つと同名であるとして、一字取って「真賀多神社」に改称した。後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた」とある。麻賀多は勾玉に由来するというこの説明はなるほどという感じだ。

佐倉市立美術館は旧川崎銀行佐倉支店の建築物。川崎銀行支店は千葉市内にも重厚な建築物が残っている。川崎銀行はいまはない。最終的には三井住友銀行につながっているようだ。




観光案内所では、旧堀田邸を回ることをすすめられたが、観光地図の説明によれば、明治時代になってからの和風建築ということなので、いくのはやめた。かなり歩いているのでくたびれてきていたというのも理由ではあるが。

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③ につづく。


<関連サイト>

麻賀多神社(佐倉藩鎮守)(公式サイト)

「城下町探訪」 佐倉―チューリップが咲きオランダ風車が回る城下町


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幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③ 




(2012年7月3日発売の拙著です)






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