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2012年3月30日金曜日

「長靴をはいた猫」 は 「ナンバー2」なのだった!-シャルル・ペローの 「大人の童話」 の一つの読み方



「長靴をはいた猫」というのは、日本でもよく知られた童話である。

グリムのものもあるが、なんといっても読んでおもしろいのは、17世紀フランスの詩人シャルル・ペローによるものだ。

フランス文学者で幻想文学作家であった澁澤龍彦による日本語訳は、すばらしいの一語に尽きる。原文は見ていないから正確なことは言えないが、訳文にはいっさいムダがないのだ。

ペローのメルヘンは、オリジナルのグリム童話と同様に、子ども向きの童話ではないのだ。グロテスクでときどきセクシュアルできわめて残酷な話をシレっと語る。むしろ「大人の童話」というべきだろう。

しかも、それぞれのお話の最後につけられた教訓がまた皮肉たっぷりで辛辣なものばかり。大人をニヤリとさせたり、うならせるものが大いにある。

『長靴をはいた猫』(シャルル・ペロー、澁澤龍彦訳、河出文庫、1988 単行本初版 1973には、9つのメルヘンが収録されている。いずれも有名な作品ばかりだ。文庫版のカバー画は、片山健によるもの。

●猫の親方あるいは長靴をはいた猫
●赤頭巾ちゃん
●仙女たち
●サンドリヨンあるいは小さなガラスの上靴
●捲き毛のリケ
●眠れる森の美女
●青髯
●親指太郎
●驢馬の皮

サンドリヨンとは、灰かぶりのことでフランス語。つまりはシンデレラのことだ。親指太郎は英語圏ではトムサム(Tom Thumb)の名で知られている。日本でいえば『古事記』に登場するスクナビコナであろう。

さて、全部読んでいってはキリがないので、今回は「猫の親方あるいは長靴をはいた猫」を取り上げることとしよう。

「グリム童話」の「初版」にも「長靴をはいた猫」は採録されている。初版の日本語訳は 『初版 グリム童話集 ①』(吉原高志/吉原素子訳、白水社、1997)として日本語訳されており、第33話が「長靴をはいた猫」である。

グリムのものは 1812年にドイツのカッセルで採集した話らしいが、フランスのペローの影響の大きい話であるとして第二版以降は削除され、「三つの言葉」という別の話に差し替えられたとのことだ。

ペローとグリムではディテールに違いがあるが、話の内容はほぼ同じである。


「猫の親方あるいは長靴をはいた猫」のあらすじ

話のあらすじはこんな感じだろうか。

粉ひきのおやじが死んで、三人の男子が残された。だが、主人公である末っ子が遺産として受け取ったのはネコ一匹だけ

「長男は粉ひき小屋、次男はロバなのに、なぜ自分は役にたたないネコ一匹?」と文句をいったところでどうなるわけでもない。

ところが、このネコが知恵あるスグレ者だったわけだ。

なぜか作者はまったく説明していないのだが、いきなりネコが人間のコトバをしゃべる

「自分にすべてまかせろ」というネコの提案(!)を聞いて、主人公はネコに賭けてみることとする。条件は長靴を一足つくってくれということだけ。

長靴をはいたネコが知恵の限りをつくして、つぎからつぎへと難問を解決、とんとん拍子にうまくいき、最後は、主人公の三男は王の愛娘と結婚して婿殿となり、ネコは貴族となって、めでたし、めでたし。



主人公のネコへの賭けが、大当たりの金星(きんぼし)だったというお話。上に掲載したのは、有名なギュスターヴ・ドレによる挿絵である。

ざっとこんな感じのお話だが、末尾に作者ペローによる教訓がつけられているので紹介しておこう。

教 訓

父から子へと受け継がれる
ゆたかな遺産をあてにすることも
大きな利益にちがいないが
一般に、若い人たちにとっては
知恵があったり世渡り上手であったりする方が
もらった財産よりずっと値打ちのあるものです。

成金(ヌーヴォー・リッシュ)を軽蔑するカトリック社会のフランスにあっては、この物語の主人公のような生き方をほめる作者の姿勢は珍しいような気もする。

ペローは、重商主義者コルベールに認められ、ルイ14世に仕えた人だから、当然ながらユグノー(=プロテスタント)ではなくカトリックである。ルイ十四世は「ナントの勅令」を廃止して、有能なユグノーたちを国外追放した愚か者である。これ以後、フランスは経済的に世界の中心になる路がいっさい断たれることになる。ユグノー受け入れで大いに恩恵を受けたのはプロイセン王国だ。

考えてみれば主人公は、彼自身の才覚で出世したわけではけっしてないのだ。そうであれば、ペローがなぜこの童話というか寓話を書いたのかわからなくもない。

さらに教訓が一つある。

もう一つの教訓

粉ひきの息子が、こんなに早く
お姫さまの心をつかんでしまって、
ほれぼれとした目で見られるようになったのは
服装や、顔立ちや、それに若さが
愛情を目覚めさせたからであって、
こういったものも、なかなか馬鹿にはならないものなのです。

たしかに!


ビジネスパーソンなら、「長靴をはいた猫」はこう読め!

ストーリーも簡単だし、教訓もそれなりに筋の通ったものである。

では何が面白いのだと問われるだろう。そもそもネコが人間のコトバをしゃべったり、農民に命令したり、王様に獲物を献上したりするという設定は童話ならではのものだが、現実味に乏しいのではないか、と。

人間としてのわたしは、無意識のうちに、ご主人様の視点にたってネコをあくまでも「家来」としてのみ見ていた。たいていの人はそうでしょう。

だがあるとき、ネコの立場からみたら、ご主人様はネコにとっては、自分が生き残るために利用する対象であることに、突然気がついたのだ。

そう、「長靴をはいた猫」は「ナンバー2」なのであった!

「主人あっての家来」というだけでなく、「家来あっての主人」だったのだ。このネコがいなければ、粉ひきの三男も、何に対しても不平不満をもらす、ただのつまらぬ男として終わっていたのは間違いない。

ネコにしても、自分のいうことを全面的に受け入れて任せてくれる主人がいなければ、本来は食われて毛皮になってしまうハズだったのだ。

「ナンバー2」としてのネコは、主人に取引をもちかける。プロポーザル(=提案)ではあるが、限りなくディール(=取引)に近い。「わたしの言うとおりにしたら、ご主人さまをお金持ちの幸せ者にしてあげますよ」という if-then(もし~なら~) 提案だ。条件を満たすために必要な投資は、長靴一足を職人につくってもらってネコに提供することとのみ。

主人は、ネコの提案を全面的に受け入れることにする。

賢くて決断力にすぐれたネコはつぎからつぎへと策を弄し、着実に結果を出していく。最終的に主人が成功をつかむことを可能とする。

ネコは、最後の最後までご主人様を持ち上げて「ナンバー2」の地位にとどまっているのだが、ご主人様も、ネコがいなければその地位にはつけなかったことは、よおくわかっているので、けっしてネコを粗末に扱うことはない。

ところで、哲学者ボーヴォワールの名著『第二の性』に、「主人と奴隷の弁証法」という話がでてくる。大学時代に友人から聞いた話だ(・・あくまでも耳学問)。

奴隷は主人あっての奴隷だが、奴隷がいなければ主人は主人ではない、ということ。つまり主人と奴隷は、お互いのその存在を必要としているのであり、その関係は弁証法的な「正-反-合」という関係にあるということ。精神病理学的にいえば「共依存」に似ているが、弁証法なので二者関係からの発展がある。

「長靴をはいた猫」においても、ご主人様とネコの関係は、「ナンバー1」と「ナンバー2」の関係であり、この関係が逆転することはいっさいない。ネコはあくまでも「ナンバー2」の地位に徹しきることでその地位を保全し、「ナンバー1」のご主人さまをして、永遠にネコに感謝しつづけさせることに成功する。

めでたし、めでたし。これそ、「ナンバー2」の鑑(かがみ)「ナンバー2」は、知恵に富んだ参謀であり、「ナンバー1」にかわって汚れ役を演じているのだ。

わたし自身、長く「ナンバー2」としてやってきたキャリアをもっていながら、うかつなことに、ついつい「ナンバー1」の目ですべてを見ていたことに気がつかされた。

「こんな賢いネコが家来ならなんとラクなことか」、なんて思っていたのだ(汗)。

だがあるとき、「しかし、この主人はすべてをネコにゆだねたからこそ成功を手にすることができたのであって、もしネコに全面委任しなかったらどうなっていたことか・・」と思ったのだ。「いや、自分にはネコにぜんぶまかせるなんてできるのだろうか・・・?」、と。

長靴をはいたネコが「ナンバー2」だとわかった瞬間、すべてが解けたのを感じたのだった。


シャルル・ペローによる教訓にもうひとつ付け加えてみる

では、ペローが「猫の親方あるいは長靴をはいた猫」という話につけた二つの教訓に、さらにわたしが作った教訓をつけ加えておこう。

教訓その3

「ナンバー2」となる者には
全面的に信頼してまかせるべきです。
才能あり、知恵ある者は
かならずや、あなたを助けるはずですから。
ただし、その者を全面的に信頼して、
すべてを任せるのが条件です。
たとえ、それがネコであっても。





<関連サイト>

Le Maître chat ou le Chat botté(Wikipedia フランス語版)
・・『ネコの親方、あるいは長靴をはいたネコ』。なんといってもフランス語版が情報量は多く充実している。

松岡正剛の千夜千冊 第七百二十三夜【0723】2003年02月28日 シャルル・ペロー『長靴をはいた猫』(1973 大和書房 澁澤龍彦訳)
・・こういう読み方もあるということで。もちろん、これが唯一の読み方ではないことは、わたしが上記の記事に書いたとおり

なお、「長靴をはいた猫」にかんしては、臨床心理学で物語論を展開した河合隼雄が『猫だましい』のなかで「猫マンダラ」の一つとして解釈している。 『猫だましい』(河合隼雄、新潮文庫、2002) それもひとつの解釈として捉えるべきものだろう。

なお、「長靴をはいた猫」は英語では Puss in Boots となり、DreamWorks のアニメーション映画『シュレック』のキャラクターのひとつ。

「プス」がスピンオフして全米で公開された(2011年11月)が、オリジナルの「長靴をはいた猫」とは関係ない。映画『長ぐつをはいたネコ』の日本での公開は、2012年3月から。


映画 『長ぐつをはいたネコ』 予告編(YouTube)


PS 読みやすさを考えて加筆修正を行い、写真を大判に変更した (2014年3月24日 記す)。


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(2014年3月24日 情報追加)


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2012年3月28日水曜日

書評『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)ー 文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?


文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムは「異端児」たちによって生み出されてきた

ともにその絶頂期を過ぎてから久しい英国と日本であるが、同じくユーラシア大陸の西端と東端に位置する島国という性格を共有するのに、マインドが大きく違う。

英米研究家の越智道雄氏は「異端児」というキーワードで、現在の文化多元主義の多民族国家・英国と英国人の特質を抽出してみせる。

本書に登場する英国人は、すべてが英国出身ではない

英国を代表する百貨店ハロッズを買収したエジプト出身の実業家アル・ファイードのようなわかりやすい例だけではない。

ヴィクトリア女王時代の首相ディズレーリ(D'Israeli)は "イスラエル人"(Israeli)という意味の名字のユダヤ系だし、そもそも現在のウィンザー王家はドイツ北部のハノーファーに出自をもつドイツ系である。また、メディア王マードックは英連邦のオーストラリア出身である。

英国生まれの生粋の英国人であっても、実業家のリチャード・ブランソンやダイアナ妃のような「異端児」が時代を引っ張ってきた。

本書にはこれらの「異端児」以外にも数多くの登場人物が分析されているが、英国史上初の女性首相であるマーガレット・サッチャーとその夫で石油会社の重役であったデニス・サッチャー夫妻を描いた第二章「妻のパワープレイ、夫のステータスゲーム」が興味深い。

2012年に日本公開された映画『マーガレット・サッチャー-鉄の女の涙』にも重要なバイプレイヤーとして登場するデニスだが、彼のような典型的な英国流ユーモアを語る英国紳士と、パブリックスクール出ではない英国人らしからぬマーガレットのカップルが英国復活を支えたのだと思うと、なかなか英国というのは面白い国だと思うのである。女王陛下を戴く英国は、男性にとってのある種のロールモデルを提供してくれる先進国である。

第一章で扱われている離婚後のダイアナ妃とエジプト出身の実業家アル・ファイードの息子との関係や、ヴァージン・グループの総帥である実業家リチャード・ブランソンについては、いろいろと本もでているので目新しさはないが、「異端児」というコンセプトで一括してまとめたことに本書の意味があるというべきだろう。

現代人だけでなく、ふたりの英国首相ディズレーリとグラッドストーンを描いた19世紀までさかのぼって記述された本書を通読すると、大英帝国とのその遺産が何であるか、おぼろげながらもわかってくる

日の沈むことのない植民地ネットワークを構築した海洋国家・英国は、植民地帝国の遺産として現在は文化多元主義の多民族国家という複雑な存在となっているのである。

「異端児」をコンセプトにした本書は、英国礼賛でも英国批判でもない。著者の文体は、やや含みをもったものであり、情報を詰め込みすぎていているのでけっして読みやすくないが、英国社会の複雑さをそのままつかみとるうえでは、読んで損はない一冊である。


<初出情報>

■bk1書評「文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムは「異端児」たちによって生み出されてきた」投稿掲載(2012年3月27日)
■amazon書評「文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムは「異端児」たちによって生み出されてきた」投稿掲載(2012年3月27日)






目 次
第1章 民衆のプリンセスの光芒 Royal Family-ダイアナ・スペンサー vs 英王室
第2章 妻のパワープレイ、夫のステータスゲーム Premier Family-サッチャー夫妻とその息子
第3章 旧植民地始発のビジネス登攀競争 Business-アル・ファイード vs タイニー・ロウランド
第4章 イギリスを覇権国家へと押し上げたライバル Politics-ベンジャミン・ディズレーリ vs ウィリアム・グラッドストーン
第5章 世界帝国の作り方 Empire & Media-セシル・ローズとルパート・マードック
第6章 祖国に背いた「第三の男」たち Intelligence-キム・フィルビーとグレアム・グリーン、そして「ケンブリッジ5」
第7章 アイデアを残さずつかまえろ Venture-サー・リチャード・ブランスン


著者プロフィール
越智道雄(おち・みちお)    
明治大学名誉教授。1936年、愛媛県今治市生まれ。広島大学大学院文学研究科博士課程修了。明治大学商学部教授を経て現在は著述、翻訳に専念。文化多元主義・宗教・ポップカルチャーなどの視点から、現代アメリカ及びイギリス、英語圏新世界諸国を研究している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<書評への付記>

古くて新しいロンドンの「海賊」と「異端児」というDNA

英米研究家の越智道雄氏は「異端児」というキーワードで英国のDNAを一括してみせたが、エコノミストの浜矩子氏は、英国復活のカギとなたDNAを「海賊」というキーワードで語っている。

「異端児」も「海賊」も、ともに比喩的なイメージとして受け取るなら、英国人の進取の気性をよくあらわしているものといえよう。

「海賊」というキーワードは、『ネクタイを締めた海賊たち-「元気なイギリスの謎を解く-』(浜矩子、日本経済新聞社、1998)で展開されている。現在は品切れ。

もちろん「海賊」ですべてを表現するのはムリがあるが、英国のエリート層が、「陸にあがった海賊」という見方は面白い。すくなくとも、英国海軍が海賊の合法化として発展したことを考えれば、それは十分に頷ける。

浜矩子氏は、小学生時代の4年間と、三菱総研の初代ロンドン駐在員所長、駐在エコノミストとして1990年から1998年まで8年間ロンドンで過ごしている。

1997年のIMFショックの際には、BBCの討論番組にも出席して論客ぶりを示したらしい。BBCの番組は見ていないのでわからないが、日本のTV番組に出席してしゃべている姿をみれば、おおよその推測はできる。

戦後になって大英帝国は解体し、その後の長い景気停滞期は「英国病」と揶揄されていたのだが、これに徹底的にメスを入れて大改造を行ったのが保守党のサッチャー首相であった。

1980年代はまさにサッチャー時代そのものなのだが、その時代は金融の世界では「ビッグバン」や「ウィンブルドン化」が語られた時代である。徹底的な規制撤廃によって、旧来の停滞した市場が大改革された荒療治であったが、そのおかげで英国はふたたび復活することになった。

2008年の「リーマンショック」後、英国経済はふたたび苦境に陥っているが、旧植民地の英連邦から移民を受け入れてきた文化多元主義で多民族社会の英国は、国の内外から「異端児」を受け入れることさえできれば、また復活することは確実だろう。

ここまで書いてきて、ふと京都のことを思い出した。京都もまた、よそから多くの人材を集めてきて、みずからを活性化してきた歴史をもつ都市だ。京都の同志社大学は、エコノミストの浜矩子氏を招聘してビジネス研究科の教授にしている。古くて新しい点は、英国のロンドンも京都も同じ。ともに都市として同型のDNAをもっているのだろう。

「海賊」精神と「異端児」の存在、日本だって、もともとはそういうDNAをもちあわせていたのではないかと思うのである。官僚組織がそれを阻害しているが、民間は官やマスコミのいうことなど黙殺して、自由に航海に乗り出すべきだろう。

英国はもとより、日本も「海洋国家」なのであるから!



<ブログ内関連記事>

映画 『マーガレット・サッチャー-鉄の女の涙-』(The Iron Lady Never Compromise)を見てきた

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)

『2010年中流階級消失』(田中勝博、講談社、1998) - 「2010年予測本」を2010年に検証する(その1)・・英国の「ビッグバン」は勝者だけでなく、多くの敗者も生み出した

書評 『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)

書評 『日本は世界4位の海洋大国』(山田吉彦、講談社+α新書、2010)

書評 『あんぽん 孫正義伝』(佐野眞一、小学館、2012) -孫正義という「異能の経営者」がどういう環境から出てきたのかに迫る大河ドラマ

ひさびさに宋文洲さんの話をライブで聞いてきた!-中国人の「個人主義」について考えてみる

書評 『知的生産な生き方-京大・鎌田流 ロールモデルを求めて-』(鎌田浩毅、東洋経済新報社、2009)・・「京都は、外部からさまざまな才能を惹きつけ、ふるいにかけた上で受けいれて自らを活性化してきた歴史をもつ」。京都モデルの活性化の意味について書いておいた


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2012年3月24日土曜日

映画『マーガレット・サッチャー-鉄の女の涙-』(The Iron Lady Never Compromise)を見てきた


映画 『マーガレット・サッチャー-鉄の女の涙-』を見てきた。英国史上初の女性首相で、11年間の在任中に、衰退する英国に荒療治を施して再生させた政治家を扱った映画だ。

原題:The Iron Lady Never Compromise(鉄の女に妥協なし)
製作: 2011年、英国。
上映時間: 105分
主演:メリル・ストリープ
監督:フィリダ・ロイド
公式サイト: http://ironlady.gaga.ne.jp/

さすが、名女優メリル・ストリープ。完全にマーガレット・サッチャーになりきっている。当時は一般的にサッチャー夫人ないしはサッチャー女史と呼んでいたので、以下サッチャー夫人と書くことにする。

姿形だけでなく、クイーンズイングリッシュによるしゃべりもまた、役作りにかける情熱、プロ意識にはまったく脱帽である。エンターテインメント作品として、大いに楽しませてもらっただけでなく、1980年代そのものであったサッチャー時代を思い出しながら最後まで観た。



夫のデニスがすでに亡くなったこともわからないほどの認知症になった晩年のサッチャー夫人に、さまざまなキッカケで過去の記憶が想起され、いい思い出も悪い思い出も、ともによみがえってくるという形式で、サッチャー夫人そのものを描いた内容である。主人公の存命中にこういう映画をつくってしまうというのも、ある意味では驚くべきことだ。

この映画は、音楽のチョイスがひじょうによい。

ユル・ブリンナー主演のブロードウェイのミュージカル『王様と私』から、オスカー・ハマーシュタイン作曲の「Shall We Dance ?」 (シャル・ウィ・ダンス?) は、若き日のサッチャー夫妻のロマンティックな日々の回想シーンとあわせて、なんども流される。

そして政治の場面では、ベッリーニのオペラ『ノルマ』から、マリア・カラスの独唱で「Casta Diva」(清らかな女神よ)。オペラ音楽はよく映画に使用されるが、この点においてもこの映画は特筆に値するといっていいだろう。これから観る人はぜひ、なぜ政治の場面でこの曲が流れるのかアタマに入れておくといいと思う。

以下は、映画の内容そのものではなく、サッチャー夫人について、より理解を深めるために書いたものである。


1980年代そのものであったサッチャー時代

サッチャー夫人が、英国史上初の女性首相に選出された1979年から退任した1990年までの11年間は、わたしにとっては、高校から大学、そして社会人にかけての時期とピッタリ重なる。だから、わたし(の世代の人間)にとっては、マーガレット・サッチャーはけっして過去の人ではない。

日本では1980年代の後半は「バブル時代」というレッテルを張られて総括されてしまっているが、まさに冷戦時代末期で、サッチャー首相とレーガン大統領(当時)のタッグが、冷戦終結をもたらしたことは忘れるわけにはいかないのである。

この映画の原題である「鉄の女」(The Iron Lady)の毅然とした態度、断固たる態度には、わたしはすばらしいと賞賛の気持ちを抱き続けていた。まさにその「妥協」しないという態度を尊敬していたのであった。

サッチャー以前の英国は、先進国特有の「英国病」と言われ続けてきたのである。映画にもでてくるが、労働党の下で停滞し、衰退に拍車のかかっていた英国にカツをいれたわけである。「鉄の女」という異名をとったのは、度重なるIRA(北アイルランド解放闘争)による爆弾テロ、炭鉱ストとの全面対決、フォークランド紛争での一歩も引かない態度などがあずかっているのである。

フォークランド紛争で見せた不退転の決意と結果によって、ふたたび支持率が上昇したわけだが、それは英国人がなによりも忌み嫌う appeasement を回避したところに求めることができよう。映画では、戦争回避を説得する米国大使(?)に対して、パールハーバー(真珠湾)を引き合いに出していたが、ここは英国人向けなら appeasement(宥和)によってヒトラーに譲歩したチェンバレン首相(当時)の轍は踏まないというという発言になったことであろう。

そう、その「妥協」しないという点が、まさにサッチャー夫人そのものであり、英語の原題にあるように The Iron Lady Never Compromise(鉄の女に妥協なし)なのである。これがあえてタイトルになるということは、un-British(非英国的)であったからである。

サッチャー夫人は、自分の信念に忠実に徹し切れたわけだが、世の中というものは「押してダメなら引いてみな」というものである。英国では「妥協」というものが重んじられるとは、むかしからなんども聞かされてきたことである。英国人は日本人とは違って「大人」だから、だという理由づけで。

その意味では、この映画を観ていて思うのは、確固たる信念に基づいて毅然とした態度で臨むサッチャー首相のリーダーシップスタイルは、見習うべき点があると同時に、妥協を行わなかった点は反面教師にしなくてはならないと思うのである。

「妥協」しない政治家サッチャー首相。しかし、その「妥協」を欠いた姿勢が最後には・・・





「非英国的」であったサッチャー夫人

サッチャー夫人が非英国的であったという話に戻るが、映画のなかでもなんども強調されているが、男社会の閉鎖的クラブ社会であった英国政治(・・しかも保守党だ)のなかで孤軍奮闘してきただけでなく、オックスフォード大学卒業とはいえ、伝統的にオックス・ブリッジに進学していたエリート層ではない。庶民階級の出身であった点がまず、それまでの英国とはまったく違う。

ファミリービジネスの食料品店に生まれた娘である。奨学金制度の開始によって、一般庶民にもオックス・ブリッジに進学する道が開かれたのである。また、映画には出てこないが、オックスフォード大学で専攻したのは化学(ケミストリー)である。理系なのである。しばらく専攻を活かした職についていたが、政治家への道を選んだのは、出身地で市長を務めていた父親の影響だろう。

『サッチャー時代のイギリス-その政治、経済、教育-』(森嶋通夫、岩波新書、1988)は、まだサッチャー夫人が在任中に書かれたものだが、著者の森嶋教授は、「サッチャーは、イギリスの悪い所も、善い所も、数多くすっかりぶち壊してしまいました」と書いている。まさにそのとおりだろう。2012年現在でも、サッチャー夫人は毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする存在だ。

しかし、あの時点で荒療治を行わなかったら、英国の衰退はさらに加速していたことは間違いない。著者の森嶋通夫氏は独創的な経済学者で、日本を飛び出して社会科学系では名門のLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス)で長く教鞭をとっていた人である。森嶋教授(故人)の政治的立場にはあまり賛同はできないが分析としては面白いと思って読んだ本である。

サッチャー夫人の父親は職人の家に生まれた人で、主流の英国国教会ではなく、熱心なメソジスト派であり、まさに刻苦勉励によって自分自身を鍛え上げた人であったようだ。サッッチャー夫人の首相になるまでの回顧録『サッチャー 私の半生』(The Path to Power、1995)には、「両親ともに熱心なメソジストで、父親は牧師のようだった」とある。この記述から考えると、一般的にイメージされる英国人よりも、かなり米国人に近いメンタリティーの持ち主であったのかもしれない。こういう特性が、そっくりそのまま娘に受け継がれたようだ。サッチャー夫人は、自分自身のことを、プラクティカルでまじめで、宗教的だと書いている。

『サッチャー回顧録』(The Downing Street Years、1993)は、この映画でも冒頭にサッチャー夫人みずからがサインするシーンがでてくるが、日本経済新聞で「私の履歴書」として、翻訳連載されていた抜粋だけは読んでいるが・・・。この正編だけで900ページを越える大著は、ハードカバーの原著を所有しているのだが、いまだに読んでいない。いつかは読む日もあろうかと思って、手放していないのだが・・・。「ダウニング街10番」とは英国首相公邸のことである。




サッチャー夫人の夫デニスと「鉄の女」の涙 


サッチャー夫人が引退を決めたのは、「マギー、もうそろそろいいのではないかな?」と夫のデニスが語りかけたからだという記憶がわたしのなかにあった。

この映画でも最終的に引退を決意させたのが、夫の一言であったことが明らかにされる。おかげで権力者にとって困難な課題である引き際を誤ることはなかったのである。

「在任中の政策が、ただしかったかどうかは、歴史が審判を下す」というサッチャー夫人のセリフに対し、「いや、ゴミ箱行きかもしれないな」と、夫が茶々を入れるのは、さすが英国人である。こういう肩すかしの発言が、サッチャー夫人のストレスリリーフになっていたのだろう。

しかし、11年間にわたるギリギリの意志決定の日々で消耗してしまったのかもしれない。いわゆるバーンアウト(=燃え尽き)症候群というやつか。認知症を患って、現在では自分が首相をやっていたこともわからなくなっているらしい。痛ましい話ではあるが、一国の命運を担う首相としては当然として受け止めるべきことかもしれない。

英国は、女王陛下の夫君というロールモデルが、同時代のエリザベス女王だけでなく、絶頂期のヴィクトリア女王にもあったことは、英国人男性であるデニス・サッチャーにはあらじめ心構えとしてあったのだろうか?

この映画のもう一人の主人公は、実業家のデニス・サッチャーである。男性であるわたしは、どうしてもデニスの存在が気になるものだ。

日本語版の副題が「鉄の女の涙」となているのは、またまた日本人観客向けの情に訴える作戦かといぶかしく思って見始めたが、原題の「鉄の女に妥協なし」よりは、日本語版のほうがいいかもしれないと思った。ちなみに Lady は Sir の女性版。サッチャー夫人は一代爵位で女男爵になっているので、Lady Thatcher が正式名称なのである。

衰退する英国で衰退をなんとか食い止めたサッチャー夫人。同じような地政学ポジションにある日本に住む日本人にとっては、どうしても他人事には思えないものがある。

まあ、ここまで書いてきたようなむずかしい話は別にして、エンターテインメント作品としてよくできているので、ぜひ観ることを薦めたい映画である。


P.S. 麹町ワールドスタジオ 「原麻里子のグローバルビレッジ」(Ustream 生放送) に出演して、映画 『マーガレット・サッチャー-鉄の女の涙-』についてさまざまな観点から語り合いました(2012年4月18日 21時から放送)。いろいろな裏話もふくめた内容の濃い番組になっていると「思います。当日の放送は、下記のサイトでから録画を視聴できますので、ぜひご試聴ください(2012年4月20日 記す)。 http://www.ustream.tv/recorded/21938422 


P.S. レディー・サッチャーがお亡くなりになったという情報が入ってきた。享年87年。まさに「巨星落つ」という感である。賛否両輪はあるものの偉大なリーダーであったことは間違いない。冷戦を終わらせた偉大な功績は後世に長く語り伝えられることだろう。レーガン大統領はすでに世を去り、残るはゴルビー(=ゴルバチョフ)と中曽根元首相である。ご冥福をお祈りしたい。合掌。(2013年4月8日 記す)



<関連サイト>

映画 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』 (日本版公式サイト)

The Iron Lady Trailer Official 2011 [HD] (英国版トレーラー)
・・イギリス英語は発音さえ聞き取れれば、むしろ受験英語に慣れてきた日本人には理解しやすいかもしれない

Casta Diva - Maria Callas (Best)
・・オペラ『ノルマ』から、マリア・カラスの独唱で「Casta Diva」(清らかな女神よ)



<補足解説>

映画のなかで、サッチャー首相の就任式で「アッシジのフランチェスコの祈り」を朗読するシーンがある。全文は以下のとおり。


平和の祈り        
主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしに もたらさせてください……
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より

(出典: wikipedia アッシジのフランチェスコ )

<関連サイト>

「鉄の女」サッチャーの最大の強みは、最大の弱みでもあった (ロバート・B・カイザー,バート、E・カプラン、『ダイヤモンド・ハーバード・レビュー』、2014年3月3日)
・・わたしがこのブログ記事で書いたことをリーダーシップ論の観点から補強してくれる記事

(2014年3月3日 項目新設)



<ブログ内関連記事>

なぜいま2013年4月というこの時期に 『オズの魔法使い』 が話題になるのか?
・・「先日お亡くなりになったサッチャー元首相は、在職中に発揮したリーダーシップによって「英国病」を完治し、衰退する英国に活を入れた日本ではもっぱら称賛する人が多いが、当事者である英国人のあいだには、その強引なやり方のために中流階級が弱体化したと批判している人も存在します。 サッチャーの批判勢力が「祭り」(?)を引き起こしているとTVで報道されていました。批判勢力の呼びかけで、『オズの魔法使い』の「鐘を鳴らせ 魔女が死んだ」という歌が、猛烈な勢いでダウンロードされ、英国のヒットチャートでナンバーワンになっているいうのです」

映画 『英国王のスピーチ』(The King's Speech) を見て思う、人の上に立つ人の責任と重圧、そしてありのままの現実を受け入れる勇気

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)

書評 『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)-文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?
・・同書の第二章でサッチャー夫妻が取り上げられている

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)

(2016年6月25日 情報追加)


 
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2012年3月21日水曜日

『新京成電鉄 ー 駅と電車の半世紀』(白土貞夫=編著、彩流社、2012)で、「戦後史」を振り返る


『新京成電鉄-駅と電車の半世紀』(白土貞夫=編著、彩流社、2012)は、千葉県北西部を南北につなぐ新京成電鉄の歴史を豊富な写真資料をつじて「戦後史」を振り返ることのできる本だ。

たまたま新京成線の沿線にいま住んでいるので、こういう本が目に入ってくるのだが、熱心な鉄道ファンをのぞけば、そうでない人にとっては何の関心も呼び起こさないかもしれない。

この本じたい、松戸駅を起点に津田沼駅までの記述になっているのは、乗り入れ区間の京成線の千葉中央駅まで含んでいるからだと推察されるが、松戸にはほとんど縁のないわたしにとっては、反対向きにしてほしいという気持ちもある(笑)。

それはさておき、新京成電鉄にかんする本はひじょうにすくないので貴重な一冊であるといえよう。

『新京成電鉄沿線ガイド』(崙書房・竹島 盤=編、崙書房出版、1995)からはすでに17年もたっていたのである。ちなみに崙書房は流山市に本社のある千葉県の地方出版社である。

今回のものは、なんといっても写真集であるので、開業当時のレトロな昭和時代の風景がいい味だしているので見ているだけでも楽しいし、むかしの新京成については知らないわたしのような読者にとっては貴重な資料となっている。

すでにこのブログでも何度かこの沿線のことは取り上げているが、もともと新京成電鉄という名称は京成電鉄に「新」をつけたものである。とはいえ、京成電鉄が、成田詣での乗客目当てに、東「京」と「成」田を結ぶ目的でつくられた東西を結ぶ私鉄であるのに対し、「新」京成は千葉県北西部を南北に結ぶ路線である。

首都圏の鉄道網が東京環状線である山手線にある駅を起点として放射状に伸びていることから、千葉県内の鉄道も東京都と同じく東西方向が中心になっており、南北方向はあくまでも補助的な役割となっている。新京成と接続している路線は、JR総武本線、JR常磐線、JR武蔵野線、京成電鉄、東葉高速鉄道、東武野田線、北総線とじつに多い。

じっさい、津田沼から終点の松戸まで乗る乗客はあまり多くはないと思う。わたしも通しで乗ったのは一回限りである。それについては、"世界最小の大仏"を見に行ってきた・・そしてついでに新京成線全線踏破を実行  に書いた。

もともと新京成は、陸軍鉄道連隊の線路を、戦後に払い下げによって私鉄となったものである。

「下野牧」の跡をたずねて(東葉健康ウォーク)に参加-習志野大地はかつて野馬の放牧地であった にも書いたが、習志野を中心とした下総は、もともと江戸幕府の馬の放牧場であったが、その広大な土地は明治になってからは陸軍の演習場となった。陸上自衛隊「習志野駐屯地夏祭り」2009に足を運んでみた を参照されたい。鉄道連隊もそこにおかれることになる。

鉄道連隊は、工兵隊のなかでも、占領地における鉄道の敷設と破壊を専門にした部隊で、かの有名な泰緬鉄道にもかかわっている。

泰緬鉄道とは、泰(タイ)と緬(ビルマ)を結んだ鉄道で、『戦場にかける橋』で有名な鉄道だ。このほか、中国大陸や朝鮮半島だけでなく、日本内地でも訓練を兼ねて鉄道敷設を請け負っていたという。くわしくは『本当にあった陸自鉄道部隊-知られざる第101建設隊の活躍』(伊藤東作、光人社NF文庫、2008)を参照されたい。

日本には、JR武蔵野線のように貨物路線として企画され建設されながらも、郊外人口の増大による旅客需要に対応するため進化したものもあるが、新京成は陸軍の鉄道連隊が旅客運搬に転じたものなのである。

沿線には、おもしろい駅名が多いのも新京成の特色である。

たとえば、鎌ヶ谷大仏駅駅名に「大仏」が入るのは、日本全国でもこの駅だけだという。"世界最小の大仏"を見に行ってきた・・そしてついでに新京成線全線踏破を実行 ではじめて訪れてみた。

また、高根公団駅というのもめずらしいようだ。かつての住都公団が建築した高根公団の出入り口に建設された駅だが、新京成沿線にはこのほか住都公団による団地が多いのは、さきに見たように、陸軍の広大な演習地があったためである。さらにその前は馬の放牧場であった。本書には、それらの団地の昭和50年代の空中写真も収められている。

ことし2012年の正月には、御瀧不動尊にいってきたが、最寄り駅は滝不動駅という。駅じたいにはとくに風情はないが、東京都心にはないレトロな昭和時代をかもしだしている駅が新京成には多い。

わたしもいつまでこの地域にいるかはわからないが、もうすこし沿線を歩いてみたいと思っている。本書はその際のよいガイドとなるであろう。

もちろん大判なので、沿線歩きに持参はしないが。書斎で眺めるのにふさわしい一冊だ。





<関連サイト>

・・すでに100%子会社であったが、先の10月31日に開催された京成電鉄の取締役会で正式に新京成の吸収合併が決議された。2025年4月に合併されるとのこと。沿線住民としては、路線名の変更などが予想され、まことにもって残念なことになりそうだ

(2023年11月6日 項目新設)


<ブログ内関連記事>

"世界最小の大仏"を見に行ってきた・・そしてついでに新京成線全線踏破を実行

書評 『京成電鉄-昭和の記憶-』(三好好三、彩流社、2012)-かつて京成には行商専用列車があった!

「下野牧」の跡をたずねて(東葉健康ウォーク)に参加-習志野大地はかつて野馬の放牧地であった

陸上自衛隊「習志野駐屯地夏祭り」2009に足を運んでみた

辰年(2012年)の初詣は御瀧不動尊(おたき・ふどうそん)にいってきた

映画 『レイルウェイ 運命の旅路』(オ-ストラリア・英国、2013)をみてきた-「泰緬鉄道」をめぐる元捕虜の英国将校と日本人通訳との「和解」を描いたヒューマンドラマは日本人必見!
・・鉄道連隊について触れておいた

書評 『鉄道王たちの近現代史』(小川裕夫、イースト新書、2014)-「社会インフラ」としての鉄道は日本近代化」の主導役を担ってきた

(2014年8月16日、2016年7月23日 情報追加)


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2012年3月15日木曜日

三年ぶりの別所温泉-"信州の鎌倉" は騒々しさとは無縁の温泉郷


3月10日(日)から二泊三日で別所温泉(べっしょ・おんせん)で過ごしてきた。

約3年ぶりの別所温泉である。通算で何回目だろうか? すくなくとも6回以上は来ているはずだ。退職や転職など人生の節目の出来事があるたびに温泉にきて心身を癒すのがならわしになっている。

別所温泉は、上越新幹線上田駅から上田電鉄別所線で西へ30分。信州の山並みを見ながら、塩田平を走る別所線の終点・別所温泉駅で下車すればもうそこは温泉街である。ラグビー合宿やスキーで有名な "日本のダヴォス" 菅平(すがだいら)高原とは反対方向になる。

別所温泉は温泉街だが、熱海のような歓楽街はいっさいない。静かで落ち着いた「温泉郷」といったほうがより正確だろう。信州の穀倉地帯である塩田平(しおだだいら)の西端にある。温泉郷は平野が山に変わっていく風景のなかにある。

別所温泉がうれしいのは源泉掛け流しという点だ。温度調整はしているが、追い炊きすることなく、源泉をそのまま惜しみなく掛け流しているから新鮮で清潔なのである。

別所温泉の泉質は単純硫黄泉である。ゆでたまごのような硫黄の匂いがすこしする温泉水はそのままひしゃくで飲むことができる。



共同浴場には、大師湯と石湯があり、じつにひさびさに「石湯」につかってみた(写真)。真田幸村の「隠し湯」らしいが真偽のほどはわたしにはわからない。地元の老人が入れ替わり立ち替わりつかりにくる。湯船のなかには大きな石があり、それが名前の由来になっているようだ。入湯料は150円。

わたしの定宿は上松屋だが、お湯の入れ替え時間中は入湯できないので、二泊目のために共同浴場の利用券をもらったので石湯に入ったという次第。粉雪が吹き付けてくる寒い日だったので、風呂から出たあとがかなり寒かったのだが。

美人の湯として知られているとおり、お肌がつるつるすべすべになるのは、この温泉の効能のなかでも特筆すべきことだろう。「温泉、水なめらかにして凝脂をあらう」というのは、高校の漢文で習った『長恨歌』(白居易)で描写された楊貴妃の姿だが、まさにそのものである。温泉の効能は、慢性皮膚病、慢性婦人病、きりきず、糖尿病などに効くといわれている。



別所温泉といえば、厄除けで北向観音がある(写真)。わたしも前厄と後厄それぞれ訪れて、無事に厄年をやり過ごすことができた。別所温泉のお土産は、「厄除けまんじゅう」がある(いちばん下の写真)。

温泉地だけに、北向観音の手水はなんと温泉である! しかも、ひしゃくで温泉水を飲むこともできる。境内には、「愛染かつら」のモデルとなった桂(かつら)の木がある。

善光寺が南向きに建てられていることはご存じだろうか?これは別所温泉の北向観音の存在を知ると意味をもってくる。善光寺は南向きで来世の幸せを、北向観音は北向きで現世の幸せを祈る。こういう形でこの二つは対になっており、片方だけでは片詣りになってしまうという。wikipedia に以下の記述がある。

北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来する。これは「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」という観音の誓願によるものといわれている。 また、善光寺が来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすということで善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうと言われる。 

別所温泉が "信州の鎌倉" と呼ばれるのは、この地が鎌倉時代に北條氏の領地だったことによる。国宝の八角三重塔のある安楽寺は禅寺で、初代の住職は宋から渡来した中国人の禅僧であるという。



この安楽寺も、別所温泉に来た際はかならず散歩コースにいれて訪れているので、何度も来ているのだが、そのたびに美しい塔だと感心している。五重塔は日本には多いが、八角三重塔(写真)はきわめてめずらしいという。いっけん四重に見えるが、いちばん下は裳階(もこし)なので三重塔なのだとか。塔の内部には大日如来が安置されているらしいが、なぜ禅寺に大日如来があるのかはミステリーである。

今回の別所温泉滞在の最終日、3月13日(火)の早朝6時半、東日本大震災・栄村 復興祈願護摩に参加した。宿泊先の上松屋の社長さんんが引率しての無料イベントである。場所は、北向観音の不動堂である。天台宗でも不動明王の護摩行がある。

たまたま、2012年3月12日は栄村の大地震から一年目にあたっていたのである。「3-11」の翌日に発生した大地震の被害であることは忘れがちあり、たまたまではあったが、早朝の護摩行に参加することができたのは幸いであった。僧侶が4人もでてくるのはそうとう気合いが入っているというのは、チェックアウトの際に社長さんから聞いた話である。



護摩に参加していて思ったのは、日本中の真言宗や天台宗のお寺で一日に一回は護摩が焚かれると仮定したら、いったいぜんたい日本でどれだけの数の護摩が焚かれることになるのだろうかということだ。

そのときアタマに浮かんだのは「鎮護国家」というフレーズ。

「3-11」の大災害で、日本=日本人=日本の国土という意識が目覚めつつあるような気がしている。それが、排外的なナショナリズムにさえならなければ、「鎮護国家」で護摩が焚かれるのはウェルカムというべきだろう。

調べると、真言宗の寺院だけでも日本全体で一万以上はある。これに天台宗の寺院をあわせれば、一日に焚かれる護摩はそうとうな量になるわけだ。

不動明王の真言が繰り返し唱えられているのを聴きながら、日本はこのおかげで守られているのかもしれないという気持ちがわき起こってくるのをおぼえたのである。これもまた日本を日本たらしめている重要な要素である。




信州の塩田平(しおだだいら)には独鈷(とっこ)山という、標高 1,222m のキザギザな形をした山がある。写真は、上田電鉄別所線の車内から撮影したものだが、一説によれば、弘法大師がこの地で修行して、密教法具の独鈷(とっこ)を埋めたのでこの名がついたのだとか。たしかに、山のかたちが独鈷(とっこ)によく似ている。

このように、別所温泉はなんど来ても、そのたびにあらたな発見のある温泉郷だ。つぎにおとづれるのがいつになるかわからないが、東京からも近く、しかも落ち着いた雰囲気の温泉郷はじつに貴重な存在である。しかも塩田平という信州でも有数の穀倉にあり、山の幸も豊富で旅館でだされる料理もじつに旨い。

火山国日本は地震多発国でもあるが、一方ではいたるところに温泉がわき出ている豊かな国でもある。火山国のデメリットを嘆くだけでなく、生きて現世にいる人間は温泉というメリットも大いに味わいたいものだ。

南向きの善光寺では来世を想い、北向の北向観音では現世利益をいただく。この世に存在するものはすべて対になっているのである。メリットとデメリットもまたコインの両面のようなものだ。

機会があれば別所温泉は、ぜひ一度は訪れてほしい。





<関連サイト>

別所温泉観光協会 (公式サイト)

別所温泉 上松屋旅館 (公式サイト)

北向観音堂(上田市デジタルアーカイブ)

天台宗別格本山 常楽寺(上田市デジタルアーカイブ)



<ブログ内関連記事>

善光寺御開帳 2009 体験記(2009年5月9日)

成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (総目次)

不動明王の「七誓願」(成田山新勝寺)-「自助努力と助け合いの精神」 がそこにある!

『崩れ』(幸田文、講談社文庫、1994 単行本初版 1991)-われわれは崩れやすい火山列島に住んでいる住民なのだ!






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2012年3月11日日曜日

鎮魂-2011年3月11日から一年



2011年3月11日に発生した大地震、大津波、そして原発事故で亡くなった
二万人近い死者と行方不明者の冥福を祈ります。
鎮 魂







2012年3月10日土曜日

「フェルメールからのラブレター展」にいってみた(東京・渋谷 Bunkamuraミュージアム)-17世紀オランダは世界経済の一つの中心となり文字を書くのが流行だった



「フェルメールからのラブレター展」にいってみた。ウィークデーの17時前なので比較的ゆったりと絵を見て回ることができたのは幸いであった。

美術展の副題は「コミュニケーション:17世紀オランダ絵画から読み解く人々のメッセージ」。フェルメールの「手紙を読む女」が、三点同時に展示されているのが今回の目玉である。

「フェルメールからのラブレター」も、どうせなら「フェルメールからのメール」なんていうおふざけなタイトルにしたらどうだろう、なんてことが思い浮かんだが、それは企画したフリーの美術キュレーター林綾野さんに失礼だろう。そもそもフェルメール(Vermeer)とメールmail)は、つづりがまったく違うので、日本語でしかつうじないダジャレである。失礼。

林綾野さんがフェルメール展の企画を担当していることは、昨年8月に放送された、TBSテレビの「情熱大陸」で知った。林さんは、絵画作品に取り上げられた料理を再現するのが趣味というクリエイティブ系の人である。放送に登場したのは京都の美術館であったが、巡回展の最後が東京になる。

わたしは特別にフェルメール好きというわけではないし、現存する作品が30数点しかないフェルメールの作品をすべて見るために世界中を回るなどという情熱はもちあわせていない。ごくごくふつうの美術ファンである。

いままで見た作品もたかだか5点だけだ。おそらく生きているうちにすべての作品を見ることはないだろう。

だが、フェルメールの絵がすばらしいことには同意する。フェルメール作品のキーワードは光である。

(フェルメール作品の世界分布図)


今回の目玉は「手紙」という切り口で、フェルメール作品が3点同時に展示

今回の美術展では、フェルメールだけでなく、日本では無名だが、フェルメールと同時代に活躍した17世紀オランダの画家たちの作品が一緒に展示されている。

テーマは、羽ペンによる肉筆の手紙による双方向のコミュニケーションと活版印刷による出版物の読書だ。メインテーマは前者の手紙だが、後者の印刷物にも注意を払いたい。フェルメール以外の作品に活版印刷による書物が多数登場している。

17世紀当時の国際貿易国家ネーデルラント(・・現在のオランダ)は貿易商人によって支えられた「新興国」であった。ネーデルラントとは低地という意味であり、スペインのハプスブルク帝国から独立して間もなかったのである。最終的に独立が承認されたのは1648年のウェストファリア条約である。

国際貿易国家の商人にとって不可欠だったのは、文字の読み書きであった。しかも、カトリックのスペインから独立したオランダは基本的にプロテスタントの国である。カトリックとは違って、プロテスタントにおいては、自分で聖書を読むことが奨励されていたので、まずはプロテスタント聖書の出版(*)を中心に活版印刷術が発達することになる。

(*)オランダ語の聖書が出版されたのは1637年のことだ。「公定オランダ語訳聖書」(Statenbiibel)が完成、北部諸州と南部諸州の協議で共通語が推進された。この聖書は20世紀まで使用されていたという。ちなみにイングランドで「欽定訳聖書」が出たのは1611年であり、ドイツでルター訳聖書が完成したのは16世紀半ばのことだ。(2020年9月22日 追記)

ちなみに、経営学者で社会生態学者のドラッカーは、オーストリアの首都ウィーンに生まれた人だが、先祖はオランダで聖書を専門にしていた印刷業者であったという。『ドラッカー自伝』によれば、オランダにはいまでも Drucker という名字をもつファミリーが多いそうだ。

活版印刷による書物から、フェルメール展のテーマである肉筆の手紙に戻ることにしよう。

けっして絵画作品そのものに、つよい自己主張があるわけではないのだが、フェルメールの3つの作品、とくに「手紙を書く女」と「手紙を読む青衣の女」の2作品の、静かでありながら生き生きとした感情を感じることができる。その他の通俗画家たちとは違うという気にさせられる。

フェルメールの作品をみていつも思うのは、有名な割にはひじょうにサイズが小さな絵であることだ。しかも、描かれているテーマが、17世紀オランダの、ごくごく日常的な生活を切り取っているものである。ふだんの生活のなかの、なにげない小さな幸せを描いていた画家であることがまた、日本での人気の高さにつながっているのであろう。

(左上から 「手紙を読む青衣の女」、「手紙を書く女」、「手紙を書く女と召使い」)


フェルメールが生きた時代の17世紀オランダは「黄金期」であった

ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:1632~1675年)は、17世紀オランダ最盛期の画家である。

当時のオランダは、世界最古の株式会社といわれる「東インド会社」の拠点をバタヴィア(・・現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に構えていた。同時代の日本は、戦国時代末期から徳川幕府確立にかけての時期であり、オランダ東インド会社は長崎の出島に拠点を確保し、日本との貿易を独占し、日本から輸入した銀によって国際貿易を有利に進めていたのである。

17世紀は、オランダが国際貿易によって世界経済の一つの中心になっていた黄金期であった。1637年には世界市場発のバブルとその崩壊を体験している。いわゆる「チューリップ・バブル」である。しかしながら最盛期は意外と短く、覇権は英国に奪われることになる。

17世紀のオランダは、欧州における貿易と情報流通の中心地であったのだが、その最盛期に花開いたのが、フェルメールやレンブラントなどの絵画作品でもある。17世紀の経済情勢については、背景知識としてもっと強調すべきことであろう。

経済や芸術だけでなく、哲学や科学においてもオランダは最先端を走っていた。

同時代には、『エチカ』で有名な哲学者スピノザ1632~1677年)がいる。同時代というよりも、同じ年に生まれてほぼ同じ年まで生きた文字通りの同時代人である。スピノザ家は、ポルトガルから移住してきたセファルディム系ユダヤ人である。1492年のスペインからのユダヤ人追放後、ユダヤ人が体験することになったのである。

ユダヤ人は国際貿易を担った商人でもあり、当時のアムステルダムには経済的富が集積していた。1675年に完成したポルトガル・シナゴーグはその精華であり、当時は世界最大のシナゴーグ(=ユダヤ教会堂)であった。同時代に生きた大画家レンブラント(Rembrandt Harmensz. van Rijn、1606~1669年)の作品にユダヤ人が多く描かれていることも比較的よく知られていることであろう。

展示をみたあとミュージアムショップに立ち寄ったら、『フェルメールとスピノザ-<永遠>の公式-』(マルタン(ジャン=クレ)、杉村昌昭訳、以文社、2011)という本が目に入った。やはりこういう視点でものをみる人はいるのだなと感心し、さっそくその場で購入した。

スピノザは、宗教から自由に思考するフリー・シンキング(free thinking)によってユダヤ教会から破門された人だが、精神のあり方においてフェルメールと共通するものをもっていたという見方は興味深い。年譜によれば、フェルメールは結婚を機会にカトリックに改宗していることを知った。


フェルメールの時代はまた光学と視覚の時代の始まりでもあった

10年ほど前だが、『真珠の首飾りの少女』(Girl with a Pearl Earring)という映画が日本でも公開された。フェルメールの同名の作品を歴史小説にしたものが原作の、美しい映像美で描かれた映画だが、わたしにとっては、フェルメールというとその映画の印象がひじょうにつよい。

映画の終わりのほうで(*)、フェルメールが「真珠の首飾りの少女」をモデルに、暗室でカメラ・オブスキューラをつかうシーンがでてきたのをおぼえている。カメラ・オブスキューラとは現在の写真機のことであるが、カメラとはもともとラテン語で部屋という意味だ。

(*)確認したら開始から32分頃のシーンであった。全体で104分の上映時間の最初の1/3に該当する。記憶のみに頼って書くことは問題だなとあらためて感じている次第。(2020年9月22日 追記)
(『真珠の耳飾りの少女』より筆者がキャプチャ)

カメラの球体レンズをとおしてあらわれた歪みを描いた絵というと、同じく17世紀オランダの画家であったフランク・ハルスのほうが印象がつよいのではないかと思うが、今回の展示のテーマではないので登場していない。

さきに名を出したスピノザも、哲学者としてではなく、当時は腕利きのレンズ磨き職人として名を知られていた。ユダヤ教のラビになる道を捨てたスピノザは、生計をたてるために手仕事に従事していたのである。フェルメールが使用したカメラ・オブスキューラのレンズを磨いたのがスピノザかどうかはわからないが、接点があったという説もある。『フェルメールとスピノザ』という本では、フェルメールの「天文学者」のモデルがスピノザであるとしているが、真偽のほどは判断しかねる。

高校物理で学習する、波動にかんする「ホイヘンスの原理」のホイヘンスもまたその時代のオランダ人の物理学者で天文学者だが、天文学の観察に使用したレンズについてスピノザと話をしたこともあるようだ。

ニュートンが『光学』という著作を発表したのは1704年になってからだが、光学のプリズム実験を行っていたのは、1665年頃であった。17世紀が光学の時代であったことは、超英文学者の高山宏が『近代文化史入門-超英文学講義-』(講談社現代文庫、2007)で語り尽くしているとおりである。同書ではフェルメールの手紙を読む女の意味についても言及している。

17世紀オランダが、同時代の英国に大きな影響を及ぼしたのである。高山宏が強調しているように「1660年代のオランダのインパクト」がいかに大きかったかを知る必要がある。同時代のオランダとのみ関係をもっていた日本に与えた影響も、日本がオランダに与えた影響とともに意識しておきたいことだ。

当時は世界経済の中心であった17世紀オランダは、科学研究の中心にもなっていたのだ。

フェルメール作品のキーワードは光と光学。今回のテーマである手紙という双方向コミュニケーションだけでなく、フェルメールはやはりこういった側面からも見ておきたいのである。






<関連サイト>

「フェルメールからのラブレター展」は巡回展で、京都と仙台、そして東京で開催される。

京都: 2011年6月25日(土)~10月16日(日)、仙台: :2011年10月27日(木)–12月12日(月) 
はすでに終了している。
東京も、3月14日まで。お忘れなく。


『真珠の耳飾りの少女』については、フェルメールの世界を映像美として味わいたかったらこの映画を見るのがいちばん。
https://www.youtube.com/watch?v=8awflTA4QYE



日蘭交流の歴史 (オランダ大使館・オランダ総領事館) (日本語)
・・400年に及ぶ二国間関係の歴史が詳細に記されている

江戸時代の日蘭交流 (国立国会図書館 電子展示館 2009年)
・・「第1部 歴史をたどる」「第2部 トピックで見る」 国会図書館の豊富な蔵書をもとにした電子展示館

(2016年2月24日 情報追加)



<ブログ内関連記事>

書評『誰も語らなかったフェルメールと日本』(田中英道、勉誠出版、2019)-17世紀の「オランダの黄金時代」に与えた同時代の日本の影響

書評 『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」-』(松方冬子、中公新書、2010)
・・なぜ17世紀オランダが世界経済の一つの中心地であったのか、その理由の一つが日本との貿易を独占していたことは日本人の常識とならねばならない。今回の出品にも、当時のオランダで流行した日本の着物の影響をうけたゆるいガウンが公証人を描いた作品に登場している

書評 『チューリップ・バブル-人間を狂わせた花の物語』(マイク・ダッシュ、明石三世訳、文春文庫、2000)-バブルは過ぎ去った過去の物語ではない!
・・17世紀オランダの「チューリップ・バブル」

書評 『ニシンが築いた国オランダ-海の技術史を読む-』(田口一夫、成山堂書店、2002)-風土と技術の観点から「海洋国家オランダ」成立のメカニズムを探求

書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)・・ヨーロッパ経済の中心はイタリア北部からスペイン、そして地中海からヨーロッパ北部のオランダへとシフトする

オペラ 『ドン・カルロ』(ミラノ・スカラ座日本公演)
・・スペイン・ハプスブルク帝国統治下のフランドルで起こった叛乱に材をとったヴェルディ作曲のイタリアオペラ

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む

「アラブの春」を引き起こした「ソーシャル・ネットワーク革命」の原型はルターによる「宗教改革」であった!?・・16世紀はじめのルター訳聖書はグーテンベルク革命で活版印刷物として普及し、で近代ドイツ語が確立。この動きは各国語の確立に波及

書評 『そのとき、本が生まれた』(アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ、清水由貴子訳、柏書房、2013)-出版ビジネスを軸にしたヴェネツィア共和国の歴史
・・「15世紀から16世紀にかけてのヴェネツィア共和国に出版ビジネスが確立し、欧州の一大中心地となった」。「16世紀メディア革命」の担い手はグーテンベルクではなく、ヴェネツィアの出版業である

書評 『大学とは何か』(吉見俊哉、岩波新書、2011)-特権的地位を失い「二度目の死」を迎えた「知の媒介者としての大学」は「再生」可能か?
・・大学は「16世紀メディア革命」で死んだ。「16世紀メディア革命」とは、活版印刷と書籍の流通によって、「知」が大学やキリスト教会から解放されたことを意味している。「知が生産され消費される場は、クローズドな機関ではなく、生活人を中心とした「現場」に移行したのである。西欧近代に生まれた「主権国家」においては、それは軍事を中心とした実学志向となる」 オランダでは「軍事革命が起こっている

政治学者カール・シュミットが書いた 『陸と海と』 は日本の運命を考える上でも必読書だ! ・・海洋国家オランダの話もでてくる。捕鯨と海賊。

「知の風神・学の雷神 脳にいい人文学」(高山宏 『新人文感覚』全2巻完結記念トークイベント)に参加してきた・・マニエリスムについて。17世紀オランダから英国への光学の影響

(2016年2月24日、5月18日、2020年9月21日 情報追加)


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