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2012年2月24日金曜日

語源を活用してボキャブラリーを増やせ!ー『ヰタ・セクスアリス』 (Vita Sexualis)に学ぶ医学博士・森林太郎の外国語学習法



今年2012年は、鴎外・森林太郎(1862~1922年)の生誕150年にあたる年である。2月17日の生誕日はすでに過ぎたが、先日も鴎外ゆかりのベルリンで生誕150年を祝う会がもたれたとの報道があった。

昨年のことだが、『舞姫』の主人公の相手のドイツ女性の身元がほぼ判明したというニュースをみた。「舞姫」には「姫」という単語が入っているが、「歌姫」と同様、日本語の姫にはかならずしもプリンセスの意味はない。舞姫というのは女性ダンサーといった程度の意味だ。

このブログに「メメント・モリ」という文章を書いたことがある。ダジャレ的な連想ではあるが、森鴎外のことを思い出したので、たまには鴎外の話題を書いてみたいと思う。


語源を活用してボキャブラリーを増やせ!

「メメント・モリ」(Memento Mori)はラテン語で「死ぬという事を忘れるな」という意味である。こうしたラテン語の表現は、森鴎外の作品にはよく出てくる。たとえば nil admirari(無関心、無感動)などの表現。vita sexualis など、小説のタイトルそのものにも使用されている。

森鴎外=明治の文豪=ドイツと思い込んでいると盲点かもしれない。鴎外は文学者として名を残した人であったが、本職は陸軍軍医であり、医学博士でもあったことを忘れるべきではない。最近の表現をつかえば「文理融合」のモデルといってもいいだろう。しかも、陸軍軍医としてのキャリアをまっとうし、最終的には軍医としてトップまで上り詰めている。

鴎外が軍医になったのは、東京帝国大学医学部を二番で卒業したからである。首席ではなかったため帝大教授への道は断念し、陸軍軍医としてのキャリアを開始することになった。

近代日本では最新の科学知識はみな西洋から学んだが、医学については当時の最先端であったドイツから学んでいる。陸軍じたいはモデルを当初のフランスからドイツに転換しているが、医学にかんしては最初からドイツであった。

鴎外は、石見(いわみ)の国・津和野藩の藩医の家に生まれた長男であったから、当然のことながら医者を継ぐことが嘱望されていた。少年時代からドイツ語を学んでおり、しかも堪能であった。早熟な秀才というべきだろう。

医学においては現在もそうであるが、学名はすべてラテン語である。鴎外がラテン語も使っているのは、学名を覚える必要から学んだのであろう。当然、ドイツ留学中もドイツ語で講義を受けながら、学名はラテン語をつかっているはずだ。

明治42年に「昴」(すばる)に発表された半自伝的小説、『ヰタ・セクシュアリス』にはこんな一節がある。小説の主人公が15歳のときの回想となっている。当時だから数えで15歳だろう。知的にもずいぶん早熟な少年だったようだ。出典は、『ヰタ・セクスアリス』(森鴎外) 著作権の切れた文学作品をネットで公開している「青空文庫」。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/695_22806.html

寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘拉甸(ギリシャラテン)の語原を調べて、赤インキでペエジの縁(ふち)に注して置く。教場の外での為事(しごと)は殆(ほとん)どそれ切(きり)である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑(おか)しくてたまらない。何故(なぜ)語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。

「何故(なぜ)語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる」・・これは鴎外が、現代風にいえば「語源で覚える単語」をすでに実践していたエピソードを自慢したものと受け取ってもいいだろう。わたしはこの一節を読んだとき、「まさにそのとおり!」と思ったものだ。

鴎外の「語源で覚える単語」(・・英単語以外でもいい)は、トロイの遺跡を発掘したシュリーマンの全文丸暗記外国語学習法とならんで、外国語習得のコツとして顧みるべきメソッドである。


「専門知識」(仕事)×「雑学」(遊び)=「引き出し」

『ヰタ・セクスアリス』という半自伝的小説は、「鴎外に学ぶ学習法」として読むといいとわたしは考えている。

この小説は、鴎外と思われる主人公の「学び=遊び」という姿勢が読み取れるのが興味深い。こういう知性のありかたは日本人ではあるが、ユダヤ的な印象も受ける。専門の勉強以外に、心の赴くままに、自分が好きなことをするという姿勢だ。

「専門知識」を得るための勉学のかたわら、有職故実について記された『貞丈雑記(ていじょう・ざっき)などを読みあさっていた鴎外は、豊富な「雑学」をそのようにして身につけたようだ。鴎外の「引き出し」がきわめて大きかったのは、「専門知識」と「雑学」とのシナジーでもあるのだろう。先の引用のあとに、こんなやりとりがある。

古賀はにやりにやり笑って僕のする事を見ていたが、貞丈雑記を机の下に忍ばせるのを見て、こう云った。
「それは何の本だ」
「貞丈雑記だ」
「何が書いてある」
「この辺には装束の事が書いてある」
「そんな物を読んで何にする」
「何にもするのではない」
「それではつまらんじゃないか」
「そんなら、僕なんぞがこんな学校に這入って学問をするのもつまらんじゃないか。官員になる為めとか、教師になる為めとかいうわけでもあるまい」
「君は卒業しても、官員や教師にはならんのかい」
「そりゃあ、なるかも知れない。しかしそれになる為めに学問をするのではない」
「それでは物を知る為めに学問をする、つまり学問をする為めに学問をするというのだな」
「うむ。まあ、そうだ」
「ふむ。君は面白い小僧だ」

なにかのために「雑学」を増やしているのではない。好きだから好奇心のおもむくままに雑学が増えていくのはきわめてナチュラルな姿勢だ

おそらく、日本でのこうした経験が、ドイツ留学中の綿密な社会風俗観察の基礎となっていたのだろう。専門の医学でつちかわれた緻密な観察眼豊富な雑学に支えられた「引き出し」は、翻訳者にとっては絶対に不可欠である。

『ヰタ・セクシュアリス』の末尾はこうなっている。

さて読んでしまった処で、これが世間に出されようかと思った。それはむつかしい。人の皆行うことで人の皆言わないことがある。Prudery に支配せられている教育界に、自分も籍を置いているからは、それはむつかしい。そんなら何気なしに我子に読ませることが出来ようか。それは読ませて読ませられないこともあるまい。しかしこれを読んだ子の心に現われる効果は、予(あらかじ)め測り知ることが出来ない。若しこれを読んだ子が父のようになったら、どうであろう。それが幸か不幸か。それも分らない。Dehmel が詩の句に、「彼に服従するな、彼に服従するな」というのがある。我子にも読ませたくはない。
金井君は筆を取って、表紙に拉甸(ラテン)語で
VITA SEXUALIS
と大書した。そして文庫の中へばたりと投げ込んでしまった。

VITA SEXUALIS・・・このラテン語じたいがわからないと、読んでも正確に理解できないだろう。

『ヰタ・セクシュアリス』はラテン語の Vita Sexualis(ヴィータ・セクスアリス) をカタカナで日本語表記したものだ。このラテン語の意味は英語でいえば Sex Life となる。直訳すれば性的生活。現代的な語感なら、ずばりセックス・ライフといったところか。


外国文学紹介者としての鴎外

鴎外の業績はあまりにも膨大なので、研究者でもなければまず全集を全部読むなんてことはないだろう。岩波書店から刊行された『鴎外全集』はなんと全38巻、軍医という多忙な官僚生活を続けながら、よくもそれだけ書きに書いたものだ。しかも、日清戦争と日露戦争には軍医として出征もしている。

まさに近代日本の知的生産の先駆者である。

わたしは、高校在学中の1978年からはじまった、小説家でアンドレ・ジードの翻訳家でもあった石川淳が選んだ『鴎外選集』(岩波書店)の第一巻小説を廉価なので購入して読んでいた。石川淳の選択は、『即興詩人』以外の翻訳小説を中心においているのは、まさに炯眼というか、見識を感じさせる。

鴎外というと、アンデルセンの『即興詩人』の擬古文による雅俗体の名訳が有名だが、なぜ石川淳が『鴎外選集』からはずしたのかはわからない。あまりにも通俗的とみなしたのか。

世紀末ウィーンの文学者アルトゥーア・シュニッツラーの小説『みれん』の鴎外による翻訳はかつて角川文庫に入っていた。訳文は口語体で、現在でもそれほど違和感を感じずに読むことができる。ちなみにシュニッツラーもまた医者でかつ文学者であった点は鴎外と共通点がある。シュニッツラーはユダヤ系であった。

海外文学紹介者としての鴎外こそ、もっと知られるべきであろう。

その基礎は、漢文も含めたバツグンの語学力に支えられた「文理融合」の人であったことにある。世の中には漱石のファンは多いが、鴎外こそ見直すべきである。



PS 森鴎外訳の『みれん』

森鴎外訳の『みれん』は、世紀末ウィーンの作家シュニッツラーのもの。アンデルセンの『即興詩人』以外に鴎外は膨大な量の文学作品を翻訳して日本に紹介していることも知るべきだ。

『臓単-ギリシャ語・ラテン語 語源から覚える解剖学英単語集【内臓編】-』(原島広至、河合良訓=監修、エヌティーエス、2005)という本があることをはじめて知った。シリーズででている。

(2014年12月30日 情報追加)



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