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2011年4月30日土曜日

Where there's a Will, there's a Way.  意思あるところ道あり


 きょうは「3-11」から51日目にあたります。
 
 きょうは前向きな、だが押しつけることのないコトバを取り上げたいと思います。

Where there is a Will, there is a Way.
意思あるところ、道あり。


 There is a Will とThere is a Way、たたみいかけるような口調が、意思の強さをそのまま表現していますね。

 そしてまた Will の W と Way の W が頭韻を踏んでいます。発音次第では、Where も h音が入らないアメリカ英語なら、さらに w音が3つ続くことになります。

 Will は意思(いし)、Way は道(みち)。誰が訳したのか知りませんが、日本語でも意思(i-shi)と道(mi-chi)と、i-i音が韻を踏んでいますね。その意味でも、耳に聞いて心地よく、しかもクチに乗せやすいので覚えやすい。

 この英文は倒置文です。平叙文なら、There is a Way, where there is a Will.
 ここにでてくる where は、場所をあらわす関係代名詞。「道がある、そこには意思がある」というのが素直な意味でしょう。

 とはいえ、あえて倒置文にしているのは、Will(意思)のチカラを重視しているから。Will Power という言い方も可能ですね。

 この英語の格言はまた、高村光太郎の有名な詩の一節を思い出します。

僕の前に道はない。僕の後に道はできる


 何というタイトルの詩か覚えていませんが、この一節は知っている人も多いでしょう。強い意志のチカラを感じさせる名文句ですね。

 また、魯迅の小説『故郷』の最後の一節も思い出しますね。

 もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ


 正確かどうか定かではありませんんが、たしか中学校の国語の授業で習ったような・・・。


「新エネルギー財団」を立ち上げて、「道なき道」に大きく踏み出したソフトバンクの孫さん

 先週、ソフトバンク創業者で会長の孫正義が、またあらたなミッションに乗り出しました。

 4月22日、ソフトバンク本社で行われた「自由報道協会」主催の会見で、孫さんは、原子力にかわる「新エネルギー開発」のために財団つくりのため、私財から 10億円を投じることを発表しました。「生まれてきた使命を果たす」ソフトバンク・孫正義氏"自然エネルギー財団"設立

 先日も、大震災と大津波の被災者のために 100億円の私財と今後の報酬のすべてを提供すると発表して大きな話題をさらった孫さんですが、今回の「新エネルギー財団」構想と私財からの 10億円の資金提供もまた、日本と世界に向けての大きな一歩となることは間違いないでしょう。

 わたしは、趣旨には全面的に賛同します。「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類の歴史にとっては大きな一歩だ」という、はじめて月面に着陸した、アポロ11号のアームストロング船長のコトバも思い出します。

 現時点では脱原発は非現実であるとしても、将来的には自然エネルギーで代替させようとというビジョン、これくらいの「大風呂敷」を広げて構想をぶちあげなければ、何も変化しないといっても言い過ぎではないでしょう。日本人が大好きな「改善」ではけっして対応できないのです。

 おそらく、いわゆるエネルギー問題の「専門家」の多くは、非現実的だといて切って捨てるか、無視するかのいずれかでしょう。ですが、「意思あるところ道あり」、現時点ではコスト的な面から非現実的とみえる新エネルギーも、本腰入れて取り組めばまったく実現可能性がないと、いったい誰にいえるのでしょうか?

 もちろん、本人は現時点では否定していますが、エネルギー投資がビジネス的にみても意味あるものであることは、ながく IT業界に身を置いている経営者であれば当然というべきですね。

 膨大な数のサーバー稼働させているグーグルが、早い段階から電力問題解決のために本腰をいれて取り組んでいることは、比較的よく知られていることです。この点については、わたしも、書評 『グーグルのグリーン戦略』(新井宏征、インプレスR&D、2010)に書きましたのでご参照いただけると幸いです。

 ビジネスパーソンが、自らのビジネスにまったく縁がなくはない分野で、社会貢献のための投資を行うこと、これはけっして非難すべきことではありません。


 早い段階での新エネルギー開発のロードマップを示すことができれば、世論も大きく変わっていくことでしょう。


Where there is a Will, there is a Way.
意思あるところ、道あり。



<関連サイト>

「生まれてきた使命を果たす」ソフトバンク・孫正義氏"自然エネルギー財団"設立
・・会見動画と、孫さんのプレゼン資料つき。


<ブログ内関連記事>

「やってみなはれ」 と 「みとくんなはれ」 -いまの日本人に必要なのはこの精神なのとちゃうか?

『連戦連敗』(安藤忠雄、東京大学出版会、2001) は、2010年度の「文化勲章」を授与された世界的建築家が、かつて学生たちに向けて語った珠玉のコトバの集成としての一冊でもある

(2014年8月24日 情報追加)


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end

2011年4月28日木曜日

Memento mori (メメント・モリ)と Carpe diem (カルペー・ディエム)-「3-11」から 49日目に記す


  
 英国では、ウィリアム王子とケイト・ミドルトン嬢との「ロイヤル・ウェディング」という慶事が明日4月29日と、間近に迫っている。

 現在は、「リーマンショック」と「ユーロ危機」後の不景気のまっただなか、財政再建中の英国だが、景気浮揚効果を考えれば、ぜひとも重視したいイベントであることは間違いない。

 だが、それほど長いというわけでもないが、やや長く生きていると「ロイヤル・ウェディング」というと別の感慨も抱く。それは、いまからちょうど30年前、1981年のことだ。


ダイアナ妃のこと

 いまから 30年前、セントポール大聖堂で、華麗な「ロイヤル・ウェディング」の主人公は、言うまでもなくダイアナ妃であった。ウィリアム王子の母である。

 ロイヤル・ウェディング当日前後のダイアナ・スペンサー嬢は、シャイ・ダイ(Shi Di)と呼ばれていたほど初々しい、白雪姫のような、文字通りのプリンセスだった。ヘアスタイルをはじめ、世界のファッション・リーダ的存在でもあった。

 その後のダイアナ妃の人生は、そのあまりもの運命の暗転に、まさにギリシア悲劇を見ているかのようなのような展開であった。あえてここに書くまでもないだろう。その最後が、パパラッチに追われて、パリの高速道路のトンネル内で自動車事故死というのは、あまりにも薄幸な人生だったとしか言いようがない。

 英国だけでなく、世界中がその死を悼んだダイアナ妃。クリントン元大統領とならんで、アダルト・チルドレンだと言われていたダイアナ妃、晩年は対人地雷廃絶のため世界中で活動していた。「人のために役に立ちたい」という強い思いを抱いていた人生。

 『ダイアナ死して、英国は蘇る』(多賀幹子、毎日新聞社、1998)という本を、ずいぶん前に読んだことがあるが、生前は不倫報道などでマスコミによってもみくちゃにされてダイアナ妃は、若くして悲劇的な死を遂げたことによって、聖女の扱いになった。

 そして現在でも、ダイアナ妃は人々の心のなかに生き続けている。


田中好子(スーちゃん)のこと

 また、つい先日の 4月21日、惜しくも55歳で亡くなった元キャンディースのメンバーで女優の田中好子さん(スーちゃん)が遺した音声メッセージ

 振り絞るように出されたそのコトバは、弱々しくかすれながらも、コトバの一つ一つが訴えるチカラの、なんと大きなものか!

 田中好子は、自分自身の弟を骨肉腫で失っているだけでなく、義理の妹である夏目雅子を白血病で失っている。そして本人は乳がんで。「人のために役に立ちたいという人生」は、身近な人たちとの痛切な別れが原点にあった。

 「フツーの女の子に戻ります!」というのがキャンディーズ解散発表時のメッセージだったが、死を前にしたメッセージもまた、多くの人々の心に刻みつけられるものとなるだろう。風のように立ち去ったスーちゃん。

 キャンディーズの全盛期はわたしの中学時代。当時はスーちゃんではなくランちゃん(=伊藤蘭)のほうが好みだったが、子どもときから 40年来ずっと食べている「揖保の糸」(いぼのいと) CM をやっていたので、田中好子には好感をもっていた。余談であるが。

 まずは、田中好子のテープに録音されたメッセージを文字で再現しておこう。

 こんにちは。田中好子です。きょうは 3月29日、東日本大震災から 2週間経ちました。被災された皆様のことを思うと心が破裂するような、破裂するように痛み、ただただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。

 私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でもそのときは、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の勤めと思っています。

 キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間お世話になりました。幸せな、幸せな人生でした(涙ぐむ)。特に蘭さん、美樹さん、ありがとう。2人が大好きでした。

 映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。お礼の言葉をいつまでもいつまでも伝えたいのですが、息苦しくなってきました。

 いつの日か、妹、夏目雅子のように、支えて下さったみなさまに、社会に、少しでも恩返しができるように復活したいと思います。かずさん、よろしくね。その日まで、さようなら。

(出所)スーちゃん肉声メッセージ全文 「幸せな、幸せな人生でした」(MSN産経ニュース 2011年4月25日)


 文字で読むよりも、音声で聞くと、何度聴いても泣けてくる。スーちゃん「最後の肉声」「被災者のお役に・・・」(11/04/25)(YouTube)。視覚よりも聴覚に訴えるもののほうが、はるかに根源的だ。

 田中好子の最後のメッセージは、大震災と大津波の犠牲者を悼み、被災者への思いを語ったものだった。「被災された方のお役にたちたい」、と。

 ダイアナ妃と同様、田中好子(スーちゃん)も伝説と化して生き続けることだろう。義妹の夏目雅子と同じく、死後に「復活」するという形で。


本日4月29日は、「3-11」から 四十九日にあたる-Memento mori (メメント・モリ)と Carpe diem (カルペー・ディエム)

 そう、本日4月29日は、「3-11」から 四十九日にあたる日だ。四十九日である。

 人が死んでから 49日間(=7×7日間)は、仏教では「中陰」あるいは「中有」(ちゅうう)といわれる。死者が生と死の中間にとどまっている期間のことだ。だから四十九日の法要は、区切りをつけるために重要なのである。日本では、「死苦」と重なる。

 2011年3月11日の午後2時46分に発生した大地震と、その後間髪をおかずに押し寄せてきた大津波に飲み込まれて、わずかの時間のあいだに三万人近い人たちが一気に死んでしまったのだ。

 過去のどんな戦争でも、どんな自然災害でもなかったような「大量死」ではないだろうか?

 こんなときに思い出すのが、Memento mori(メメント・モリ)というラテン語の警句だ。「死ぬ事を忘れるな」という意味である。

 中世ヨーロパのカトリック社会では、当たり前だった警句。幼児死亡率が高く、そのため平均寿命が短く産出される中世は、つねに生と死は隣り合わせだった。また、黒死病とよばれたペストなどの疫病の大流行がたびたび発生して死者が大量にでている。

 近世以降の欧州でも、日本でも、それ以外の世界でも、あたりまえの真実であった。医療が進歩し、衛生状態が大幅に改善されてからは幼児死亡率が下がったが、それは20世紀に入ってからのことに過ぎない。

 今回の「東北関東大震災」の犠牲者は 3万人という大規模なものになっている。果たしてそのうちどれだけの人が、自分が死ぬことになると意識していただろうか。

 日常性なんてほんとうにあっけない日常を支えている基盤とはかくも脆いものかと思ったのは、私だけではないだろう。

 写真家・藤原新也の著書にも『メメント・モリ』というものがある。ガンジス川(ガンガー)のほとりで、野犬が人間の死体を食っている鮮烈な写真が掲載されていて、話題になった本だ。ちょうどバブルの末期のことだったろか。

 永井荷風のコトバを借りれば、「近年世間一般奢侈(しゃし)驕慢(きょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様」(『断腸亭日常』)だったバブル期の日本人に突きつけられた「メメント・モリ」(死を忘れるな)。 

 生と死は隣り合わせ。日常のなかから死が、死体が隠されたバーチャルな世界から、一気にリアルの世界に呼び戻された日本人。

 いつ死ぬかわからない、だからこそ今日というかけがえのない一日を生きることが大事なのだとあらためて思ったのが、とくに震災発生後の一週間の日々であった。多くの日本人が、この重要性をカラダ全体で再認識したのではないだろか。

 いま「メメント・モリ」(Memento mori)とともに思い出すのは、同じく 「カルペー・ディエム」(Carpe diem)というラテン語の警句だ。ローマ初期の詩人オウィディウスの詩句からとられたもの。

 「いまを生きる」と日本語に訳されている。英語なら Seize the day、米国の作家サウル・ベローの小説のタイトルとしても使われた。『いまを生きる』という、ハリウッド映画のタイトルにもなっている。

 いつ死ぬかわからない、だからこそ今日というかけがえのない一日を生きることが大事なのだ。

 Memento mori (メメント・モリ)と Carpe diem (カルペー・ディエム)、この2つのラテン語の警句を、あえて対句として取り上げた理由である。




<関連サイト>

スーちゃん「最後の肉声」「被災者のお役に・・・」(11/04/25)(YouTube)

養老孟司×隈研吾×廣瀬通孝 鼎談:日本人とキリスト教死生観(3) (日経ビジネスオンライン 2014年3月25日)
・・世界的建築家の隈研吾が、カトリック修道院の「黙想の家」で「黙想」という宗教行事に同級生10人と参加し、2泊3日の間まったく口をきいてはいけいない状態で神父から「メメント・モリ」を叩きこまれた体験について語っている

なお、上記の対談は『日本人はどう死ぬべきか?』というタイトルで日経BP社から単行本化されている(2014年11月28日 記す)




PS ハリウッド映画 Dead Poet's Society という男子校プレップスクールを舞台にした青春ドラマ(・・日本公開時のタイトル『いまを生きる』)で主役を演じたアメリカの俳優ロビン・ウィリアム氏が亡くなった。自殺だという。コメディアンで明るい素顔を見せていたが、じつは重度の鬱病だったらしい。『いまを生きる』(Carpe Diem = Seize the Day)というフレーズで思い出すのは、あの映画と・・・だったのだが。まだ63歳、じつに残念である。ご冥福を祈ります。合掌。

⇒ Dead Poets Society (1989) Original Trailer (YouTube)

(2014年8月13日 記す)





<ブログ内関連記事>

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む

大震災のあと余震がつづくいま 『方丈記』 を読むことの意味

書評 『マイ・ビジネス・ノート』(今北純一、文春文庫、2009)
・・文庫本表紙に印刷されている Carpe Diem(カルペー・ディエム)というラテン語の金言

スワイン・フルー-パンデミック、すなわち感染症の爆発的拡大における「コトバ狩り」について
・・ダニエル・デフォーの知られざる作品『ペスト』とエドガー・アラン・ポーの『赤死病の仮面』について触れてある

書評 『身体巡礼-[ドイツ・オーストリア・チェコ編]-』(養老孟司、新潮社、2014)-「見えるもの」をつうじて、その向こう側にある「見えないもの」を理解しようとする解剖学者の旅の記録

(2014年7月21日 情報追加)



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2011年4月26日火曜日

「チェルノブイリ原発事故」から 25年のきょう(2011年4月26日)、アンドレイ・タルコスフキー監督最後の作品 『サクリファイス』(1986)を回想する


 チェルノブイリ原発事故とアンドレイ・タルコスフキー監督の『サクリファイス』。

 ソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリで原発事故が発生したのは、いまからちょうど 25年前の 1986年4月26日のことであった。

 アンドレイ・タルコスフキー監督の最後の作品『サクリファイス』の撮影が開始されたのは 1985年、完成して公開されたのは 1986年5月9日である(日本公開は翌年)。

 したがって直接の関係はない。ただあまりもの偶然の符合に、何か暗示するものを感じた人は多かったようなのだ。とくにヨーロッパでは。この映画は、核戦争の恐怖のなかにいきていた時代の人間にとっては、映画が理解できなくても、暗黙のメッセージを感じ取ることができたからなのだ。

 大学時代、西洋中世史を専攻したわたしは、その当時はまだヨーロッパを実際に歩いたことはなかったが、チェルノブイリ原発事故の報道を知ったとき、そうでなくても衰退過程にあるヨーロッパは、これで滅亡するのではないかとさえ思ったくらいである。

 今回の福島第一原発にヨーロッパ人、とくにドイツ人が過剰なまでに反応するのは理由がないわけではないのだ。


タルコスフスキー監督の『サクリファイス』は難解な作品

 タルコスフスキー監督の『サクリファイス』は、非常に難解でわかりにくい映画だった。いまでも、正直なところよくわからないと告白しておこう。

 映画評論家でもないわたしが、わかったようなことをここに書き付けたとしても意味はない。正直いって好みの映画ではない。1986年に一度だけ見たきりで、その後ビデオでもDVDでも見てはいない。

 芸術映画をみるのが趣味(?)だった私は、もちろんタルコフスキ監督のこの作品もリアルタイムのロードショーで見ている。といってもリアルタイムでみたタルコスフスキー作品は、『ノスタルジア』と『サクリファイス』の2本だけだが。寡作の監督だったからだ。

 アンドレイ・タルコススキー(1932年~1986年)はソ連生まれの映画監督、のちに亡命して、イタリアで『ノスタルジア』スウェーデンで『サクリファイス』を完成後に亡命先のパリで亡くなった。

 『ノスタルジア』(1983年)、『ストーカー』(1979年)、『鏡』(1975年)、『惑星ソラリス』(1972年)、『アンドレイ・ルブリョフ』(1967年)、『僕の村は戦場だった』(1962年)、『ローラーとバイオリン』(1960年)。監督した映画作品はきわめて少ない。

 三田線の千石駅の近くにあった、いまはなき「三百人劇場」で、「ロシア・ソビエト映画の全貌」だったと思うが、大半の作品をみた。

 『惑星ソラリス』は好きで何でも繰り返し見ているし、ポーランドのSF作家スニスワフ・レムの原作も読んでいるので、まったくわからない映画ではない。『惑星ソラリス』以降は、いずれも難解な作品だが、映像詩として、アタマで考えて見るのではなく、素直に感じるのがいちばんいいのかもしれない。

 抑圧体制下のソ連で撮影した映画も、一貫して「絶対者」つまり「神」について語ったものだが、共産主義統治下ではストレートな映画表現ができなかったために、かなりわかりにくいのも仕方がない。

 ついにソ連崩壊を見ることなく、異国の地で没したのは無念なことであったろう。まさに自ら監督した作品『ノスタルジア』をなぞるかのような生涯となった。だが、ソ連崩壊後の宗教事情をみたら、いったいどう思うのだろうか?

 1980年代には、パンフレットを買う習慣のあった私は、『サクリファイス』のパンフレットも購入して、捨てずにもっている。今回、ここから何枚かスキャンして掲載しておこう。1990年から米国留学して以降、米国の映画館ではパンフレットを売る習慣がないことを知ってからは、パンフレッットは滅多に買わなくなってしまった。パンフレット発行は、日本の映画文化の貴重な財産といえよう。

 『サクリファイス』の簡単なあらすじについては、wikipedia の記述を参考にしてもらうといいと思う。もっとも、あらすじがわかったからといって、この作品はアタマで考える映画ではない。コトバを介さない映像でもって、感じなければならない映画なのだ。

 「サクリファイス」(sacrifice)は、「犠牲」という意味とともに、神への「捧げ物」という意味がある。キリスト教の文脈で考えるべきなのである。キリスト教の信仰をもたない人間には、感覚的にわからないのもムリはないのではないかと思う。



奇しくもチェルノブイリ原発事故の直後に公開されることになった『サクリファイス』

 1986年という年は、さきにも書いたようにソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリ原発事故が起こった年である。

 時代はまだ「米ソ連戦時代」のまっただなか、いつ核戦争がおこってもおかしくない、そういう時代の空気のなかで生きていた。いまとなってはすでに過去の話だが、核戦争の恐怖は現在よりもはるかにアクチュアルなものがあったのだ。

 表紙には一本の弱々しい木が一本(・・下の写真を参照)。映画では、核戦争が勃発したまさにその日に、「日本の木」を植えたことになっている。未来に向けて花が咲くことになっている枯れ木。これは人類の未来への投企なのである。

 三陸の大津波の被災地でも、松の木が一本だけ残ったという、そういう映像をTVで見た。奇しくも、同じ光景だ。デジャヴュー(既視感)を感じたのは、この『サクリファイス』という映画のことを思い出したからでもある。



 『サクリファイス』そのものは難解で好みの作品ではないとはいえ、なによりも記憶に残っているのは、インタビューでタルコススキーが語っているコトバである。 

 原発事故の起こった土地の名前であるチェルノブイリとは、ウクライナ語では「にがよもぎ」という意味だそうだ。しかも、その「ニガヨモギ」は『黙示録』に出てくるのだと。

 パンフレットに収録されている、「Interview タルコスフキー自作を語る」から、該当箇所を引用しておこう。このインタビューは 1986になされたものである。

-(インタビュアー) あなたは黙示録に熱中しているようですが、その到来が速まることを望んでいるからですか?

タルコフスキー 黙示録というのは、やがて起こるであろうことではありません。それはとうの昔に始まっことなのです。問題にできるのはその終わりだけなのです。私はただわれわれがどこまできたか見ているだけです・・・黙示録というのは、「終わりの書物」ですから、悲しみにみちた思想はそこからおのずとやってくるのです。チェルノブイリ(これはウクライナ語でにがよもぎのことです)のタイプは、「にがよもぎの星」 (訳注--『黙示録』のなかで、終末に空から降ってくるとされる破壊の星のこと。(ドストエフスキーの)『白痴』で言及されている)と関係があるのです。(鴻 英良訳)


 チェルノブイリは、ウクライナ語で『ヨハネ黙示録』にでてくる「にがよもぎの星」を連想させるという驚愕の事実! 偶然にしては、あまりにも奇妙なまでの符合である。 

 チェルノブイリ原発事故は、たんに「レベル7」の大事故であっただけでなく、「死の灰」という「黙示録の四騎士」が解き放たれたのである。そういう「黙示録」のイメージもまたまき散らされたのであった。まさに終末意識そのものに、キリスト教世界が覆われていたのである。


『ヨハネ黙示録』はキリスト教の「終末論」を代表する、新約聖書の最後に置かれた特異な一書

 『ヨハネ黙示録』(The Revelation of St. John the Divine)の該当箇所を、日本聖書協会の「文語訳聖書」と英国の「欽定訳聖書」(King James Version)から引用しておこう。ギリシア語の原文は省略する。

第八章 10  第三の御使ラッパを吹きしに、燈火(ともしび)のごとく燃ゆる大(おほい)なる星天より隕ちきたり、川の三分の一と水の源泉(みなもと)の上におちたり。 11 この星の名は苦艾(にがよもぎ)といふ、水の三分の一は苦艾となり、水の苦くなりしに因りて多くの人死にたり。

8:10 And the third angel sounded, and there fell a great star from heaven, burning as it were a lamp, and it fell upon the third part of the rivers, and upon the fountains of waters;
8:11 And the name of the star is called Wormwood: and the third part of the waters became wormwood; and many men died of the waters, because they were made bitter.

*太字ゴチックは引用者(=私)による 

 「にがよもぎの星」が墜ちてきて、水が苦くなった、そして多くの人が死んだ・・・。あまりにも直接的なイメージを喚起するではないか!

 『黙示録』(Revelation)は、新約聖書のいちばん最後の最後におかれたもの。その他の文書とは、かなり性格の異なるものである。Revelation とは、隠れているものを明らかにするという動詞 reveal の名詞形だ。

 日本でも「アポカリプス」の名で知られているのは、フランシス・コッポラ監督のベトナム戦争もの『地獄の黙示録』(Apocalyps Now)のおかげだろう。ギリシア語の元タイトルは Aπōκάλυψις Ιωάννης、ラテン語: Apocalypsis Johannis、直訳すれば「ヨハネのアポカリプス」である。

 「黙示録」の作者のヨハネは、「洗礼者ヨハネ」(John the Baptist)とは区別され、「使徒ヨハネ」(John the Apostle)と呼ばれている。エーゲ海の小島パトモス島に籠もって、黙示録を書き上げたといわれる。

 『黙示録』の全篇には、虐げられたもののルサンチマン、呪詛と復讐にみちみちた文章。異様なまでのレトリックが充ち満ちている。キリスト教をベースにした西洋文明の根底に存在する「終末論」を代表する文書である。

 何もいまここで、福島第一原発の事故が「黙示録」を想起すると言いたいわけではない。キリスト教の伝統のない日本では、『エヴァンゲリオン』をはじめとする、サブカルチャーの世界では「黙示録」が繰り返し再生産されて語られているにしても、欧米のキリスト教世界とは違って、ほんとうの意味でのリアリティはない。

 以前このブログにも書いたが、リーマンショック後の強欲資本家たちの狼狽ぶりに見られた「終末論」とは様相を異にする。

 だが、原発が立地している土地に住んでいたがゆえに、放射能汚染によって住み慣れた故郷を強制的に追われ、ディアスポーラ(離散)を強いられている福島県人の怒りが解き放たれたことも確かである。

 ある意味では「封印が解かれた」という「黙示録」の比喩的表現で語ることも不当とは言えまい。この事件が、すくなくとも離散を強いられた福島県人のあいだで半永久的に語り伝えられであろうことは間違いない。

 福島県人は文字通り、原発事故という人災の「サクリファイス」(犠牲)となってしまったのか・・・?

 だが、日本史を振り返れば「末法思想」も何度も現れているが、今回の原発事故が「末法の世」や「終末」にあたるとはわたしは思わない。

 なぜかというと、むしろ、1995年のほうがその感が強かったのではないかと思うからだ。言うまでもなく、阪神大震災とオウムのサリン事件が続いた年である。

 永井荷風のコトバを借りれば、「近年世間一般奢侈(しゃし)驕慢(きょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様」(『断腸亭日常』)だったバブルが崩壊してから 5年、すべてが加速度をつけて崩壊しつつあるという感は 1995年当時のほうが強かった。バブル期とのコントラストがあまりにも強かったこともある。 

 わたしは、今回の大震災と大津波、そして原発事故は、日本人の「新生」にむけての「覚醒」を促すキッカケとなったと、後世からは位置づけられることになると考えている。

 これまで何度も大きな危機をくぐり抜けてきた、復元力のある日本人のことである。日本人の危機からの復元力は、すでに文字通り DNA に確実に刻まれた「民族の集合記憶」というべきだろう。

 これがわたしの時代認識だ。


「使徒ヨハネ」が隠棲していたパトモス島にいってみたことがある

 「使徒ヨハネ」が隠棲して「黙示録」を執筆していたという、エーゲ海のパトモス島にいってみたことがある。チェルノブイリ原発事故から 6年たった 1992年のことだ。

 パトモス島は、とくに何の変哲もないが、農業と牧畜が主要産業の、急坂の続く、静かな小島である。

 ギリシアからトルコにかけて、エーゲ海の島巡りをしていたわたしは、日本人にはあまりなじみはないが、「使徒ヨハネ」と「黙示録」の連想をともなうパトモス島に興味がひかれたのだった。

 たしか、ロドス騎士団で日本人にもおなじみのロドス島からフェリーに乗って渡ったのだろうか。ちょっと記憶が確かではないのだが。

 パトモス島には一泊した。宿泊先では、隣の部屋に長期滞在していたドイツ人女性と、テラスでいろいろ会話したことを思い出した。

 その際の会話では、「ヨハネの黙示録」の話は、なぜかいっさい出なかった。

 ドイツ人にとってのギリシアの島々は、日本人にとっての東南アジアの島々のようなものだ。つまりアイランド・リゾートということである。

 そのことがよくわかったのが、パトモス島を含めたエーゲ海の島々での滞在の収穫であった。





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2011年4月24日日曜日

大震災のあと余震がつづくいま 『方丈記』 を読むことの意味


 行く川のながれは絶えずして、しかも本(もと)の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし・・・

 鴨長明の『方丈記』、さすがにこの冒頭の数行をまったく聞いたこともないという人は少ないだろう。

 いまでも、高校の古文の授業では、『徒然草』や『伊勢物語』、『源氏物語』、『奥の細道』などとならんで、かならず暗誦をもとめられるはずだ。

 仏教的無常観と自然科学的観察が合致した、簡潔で味わい深い文章。日本人の精神を深いところで規定している、諦念(あきらめ)の精神やうつろいの美意識を端的に表現したものだろう。

 今回の「東北関東大震災」と「大津波」に際して、けっして騒ぎ立てることのない日本人の姿をみて、当初は外国人ジャーナリストたちは賞賛を惜しまなかった。「日本人はまるでストア派のようである」、と。

 ストア派とは、エピクテートスに代表されるギリシア後期ヘレニズム期の倫理哲学者たちのことだ。ストイック(stoic)というコトバの語源がそこにある。『自省録』をギリシア語で書いたローマ皇帝マルクス・アウレリウスもそこに含まれる。

 たしかに、喜怒哀楽を全面的に爆発させる韓国人や中国人とは、あきらかに異なるのが日本人の態度である。アイゴーやアイヤーと絶叫し泣き叫ぶ姿は、フツーの日本人からみるときわめて異様であり、エキゾチックですらある。この点は、日本人は果たしてアジア人か(?)という、大いに議論すべき重要なポイントだ

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が書いた文章のなかにも、日本人のそうした心の持ち方や態度を描いた作品がいくつかある。「顔で笑って心で泣いて」は、いまの時代でも変わらず日本人を日本人たらしめているのかもしれない。けっして感情の温度が低いわけではない。それをさして「草食系」と呼びたければ呼べばいいだけの話だ。

 日本人のように、運命を運命そのものとし受け入れること(amor fati)、事実を事実として虚心坦懐に受け止めること、これはきわめて雄々しい態度ではないか。まさにストア派的である。

 とはいえ、極端なリゴリズム(=厳格主義)というガマンの精神も、いい面ばかりでないことは言うまでもない。明治初期の浄土真宗の僧侶で仏教学者であった清沢満之(まんし)は、将来を嘱望されていた学者であったが、エピクテートスを熟読し、厳格なストイックな生活を自らに強いた結果、肺結核を発病し、惜しいかな寿命を縮めている。明治時代の日本人にはストア派哲学を受け入れやすい土壌もあった。

 言挙げすべきことは言挙げする。さきほど、米TIME誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出された南相馬市長の桜井さんのように。日本人がこのように言い出したときは、ほんとうにガマンが決壊したときである。忍の一字でガマンにガマンを重ね、しかしもうそれ以上ガマンの限界を超えたときの日本人の怒りはすさまじい。

 怒るときには怒らねばならない。ダライラマも言われるように「慈悲の心をもって怒れ!」。それは私利私欲にもとづいた濁った怒りではなく、公憤という透明な怒りであるから。静かな怒りであるから。


虚心坦懐に『方丈記』の書き出しを味わってみる

 筆が大幅にそれてしまった。本題である『方丈記』に戻ろう。まずは、冒頭の一節を含む最初の文章をじっくりと味わってみましょう。私もこうやってじっくり読むのは高校時代以来のことです。

 行く川のながれは絶えずして、しかも本(もと)の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
 世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。
 所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに 生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。
 又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

(出典)Japanese Text Initiative 所収の「方丈記」(Hojoki)。Japanese Text Initiative は、バージニア大学図書館エレクトロニック・テキスト・センターとピッツバーグ大学東アジア図書館が行っている共同事業。


 「知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る」、この文句は、ゴーギャンがタヒチで描いた有名な絵画作品を思い出す。「我々は何者か、我々はどこへいくのか」

 「あるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず」。その根底ににある「無常観」。常なるものは世の中にはない、瞬間瞬間に変化しているのであるという認識。

 「朝顔の露」という美しいメタファー(隠喩)は、仏教的認識の表現であるとともに、きわめて科学的な観察に基づく認識であるといってよい。

 そもそも仏教的認識は科学的認観察に基づくものだ。いわゆる鎌倉新仏教発生以前の、ありのままを見るという、ほんらいの仏教の精神態度がよくあらわれていると言っていいかもしれない。外部世界の観察をつうじて、同時に自分の心のなかを観察している。


いま『方丈記』を読む意味があるのは「おほなゐ」(大地震)と余震にかんする具体的な記述があるからだ

 さて、いまこそ『方丈記』を読む意味とは、大地震(おほなゐ)の記述があるからだ。全文を読んでもたいした分量ではないのだが、いまこの時点では、この箇所だけでも読んでおきたい。

 元暦2年(1185年)の大地震にかんする貴重な記述である。源平の騒乱の時代、このときの天皇は後鳥羽天皇であった。 3月24日(太陽暦4月25日)壇ノ浦の戦いに平氏一門が滅亡、幼子であった安徳天皇が母親に抱かれて入水している。

 また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれたる間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。

 おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。

 子のかなしみにはたけきものも恥を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。むかし齊衡のころかとよ、おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。

*出典は同上。太字ゴチックは引用者(=私)


 すさまじいばかりのディテール描写ではないか。現代語に直しながら、その描写を点検してみよう。

  ●「山が崩れて川を埋めた」・・崩落現象と山津波
  ●「海が傾いて陸を浸した」・・津波である。
  ●「土が避けて水がわき上がった」・・液状化現象だ。
  ●「大きな岩石が割れて谷に転げ落ち、渚を漕ぐ舟は波に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている」・・すさまじい崩落現象と山津波が目に浮かぶ。
  ●「いわんや、都のほとりでは、至るところで、お寺のお堂や塔も一つとして破壊を免れたものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れているが、塵や灰が立ち上がって煙のようだ」・・建物が崩壊して舞い上がる塵や灰
  ●「大地が揺れ動き、家屋が倒れる音は雷鳴そのものだ」・・すさまじいまでの轟音
  ●「家の中にいるとあっという間に押しつぶされかねない。外に走り出せば、地面がわれ裂ける」・・はげしい地割れ

 6歳か7歳の武士の子ども、遊んでいたら倒壊した建物に生き埋めになって両目だけがでている姿を声をあげてなき叫んでいる、あわれをもよおす描写もある。

 余震の程度がひどく、多い日には一日に20~30回、だんだん少なくなっていったが、余震が3ヶ月にわたったことが記されている。

 「3-11」に大震災が発生し、いまだ余震がつづく現在、『方丈記』のこの記述を読むと、リアリティがあることにあらためて、これはそのとおりだと感じさせらるのである。


『方丈記』と現代

 『方丈記』は、おほなゐ(大地震)の記述だけでなく、源平騒乱時代のほとんど末法の世ともいうべきで会った当時のみやこの記憶をつづったものだ。

 いまこの 2011年を「末法の世」とは思わないが、天変地異が大きな歴史的転換をもたらすのは、この国にかぎらず、世界中どこでもそうである。

 しかし、源平騒乱はこの大地震の年に終わっている。壇ノ浦で安徳天皇もろとも平家は入水し、源頼朝による鎌倉幕府へとつながってゆく。

 『方丈記』の舞台は、時代の大きな転換期にあった。「末法の世」もいつまでも続くわけでなく、あらたな秩序が形成され、新しい時代へとつながってゆく。このこともまたアタマのなかにいれておきたい。

 堀田善衛の『方丈記私記』(1971年)も高校時代に読んだ一冊だ。戦乱に明け暮れた末法の世の中を描いた方丈記を、戦争を中国大陸で体験した著者が現代の視点で読み解いた作品。『方丈記』以上に印象深い作品である。

 高校時代に読んだのは新潮文庫版であったが、現在ではちくま文庫から再刊されて入手可能である。

 あわせて、ぜひ読んで頂ければと思う。





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・・「起きて半畳 寝て一畳」。北海道の命名者で探険家の松浦武四郎は、晩年「一畳敷」を作って楽しんでいた。方丈は、一丈四方のこと。一丈は約3m、タタミ一畳は、182cm×91cmが標準サイズなので、大きさは感覚的につかめると思う。


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2011年4月23日土曜日

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む


 ここ数年、永井荷風(1879年~1959年)の人気が、じわじわ上がってきているという。

 独身できままに、かつ毅然とした独立自尊の人生をまっとうした荷風が、生き方のロールモデルとして男女を問わず脚光を浴びているらしいのだ。リタイア後の男性だけでなく、若い世代の男女にも。

 高校時代、千葉県船橋市の学校に通っていた私にとって、終の住処(ついのすみか)を千葉県市川市に定めて、京成電鉄をつかって浅草通いをしていたという永井荷風には、大いに親しみを感じていたものだ。

 岩波文庫や新潮文庫に収録されていた作品はあらかた読んでいる。永井荷風とも親交の深かった谷崎潤一郎ともに私の好みの作家だが、高校生にしては変わった読書傾向であったかもしれないとは、当時でも感じてはいた。だからこそ、若い人のあいだで荷風の生き方に関心が強まっているというのはうれしいのだ。作品そのものではなく、生き方そのものであるにしても。

 このブログでも何回か書いている、岡本太郎、折口信夫、白洲次郎、岡倉天心などと並んで、近代日本の個人主義者の系譜のなかでも特筆すべき人物であるといってよい。永井荷風もまた「プリンシプル」を貫いた人生を送った人である。

 都内の麻布町(・・現在の港区六本木一丁目)にたてた洋館を、偏屈で奇人が住む館(やかた)という意味で「偏奇館」と名付けるネーミング感覚は、白洲次郎が疎開先の日本屋敷を「武相荘」(=無愛想)と名付けたセンスに共通するものがある。

 親の財産も相続し、著者印税の収入もあった永井荷風が、株式投資によって財産をつくっていたことは比較的知られている。たしか、いま話題の東京電力株も、長期安定投資として保有していたようだ。

 その「偏奇館」が焼失して、疎開先を転々とした記録のことは、高校時代の現国の授業で受けたことを、ガリ版刷りの教材とともにに記憶している。
 
 その教材は、永井荷風が 38歳から死ぬ直前の 79歳まで42年間にわたって書き続けた『断腸亭日乗』(だんちょうてい・にちじょう)からとられたものであることは、大学時代にあらためて再確認した。膨大な『荷風全集』(岩波書店)の存在を知ったのは、大学図書館に入り浸っていた頃である。なお、下に掲げた肖像写真は、永井荷風49歳(1927年)の頃のもの。


 大学時代でも、周辺に永井荷風を読んでいるような人間は、ごく少数を除いて、ほとんどいなかったように思う。『あめりか物語』『ふらんす物語』は大学時代に読んだ。『すみだ川』『墨東奇譚』、訳詩集の『珊瑚集-仏蘭西近代抒情詩選-』などは高校時代に読んでいる。

 西洋文明を実地に住んで極めてこその日本美再発見、これはハイスクール時代の 3年間を米国で過ごした白州正子にもつうじるものがある。なお、荷風は横浜正金銀行(・・のちの東京銀行、いまは吸収されて現在の三菱UFJ銀行)の行員として米国に 4年間、フランスには 1年弱滞在している。

 さて、『断腸亭日乗』だが、関東大震災の際の記述を読んでいると、なかなか興味深い。手元には、もちろん『荷風全風』などないので、岩波文庫の磯田光一による「摘録」から、さらに震災と余震関連、破壊された東京とその後の復興にかんする記事をピクアップしておこう。

 テキストは『摘録 断腸亭日乗 上』(永井荷風、磯田光一編、岩波文庫、1987)

 幸いなことに、昭和20年(1945年)に焼失することとなる「偏奇館」は、関東大震災(1923年)の際には、焼失を免れたのであった。


大正12年(1923年)荷風年四十五

 九月朔。曶爽(こつそう)雨歇(や)みしが風なほ烈し。空折々掻(かき)曇りて細雨烟(けぶり)の来るが如し。日まさに午(ひる)ならむとする時天地忽(たちまち)鳴動す。 
 予書架の下に坐し『嚶鳴館遺草』を読みゐたりしが、架上の書帙(しょちつ)頭上に落来るに驚き、立つて窗(まど)を開く。門外塵烟(じんえん)濛々殆(ほとんど)咫尺(しせき)を弁ぜず。児女雞犬の声頻(しきり)なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるがためなり。
 予もまた徐(おもむろ)に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ表の戸を排(おしひら)いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に椅りておそるおそるわが家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。やや安堵の思をなす。
 昼餉(ふるげ)をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二、三の外客椅子に坐したり。
 食後家に帰りしが震動歇(や)まざるを以て内に入ること能はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。
 ホテルにて夕餉(ゆうげ)をなし、愛宕山(あたごやま)に登り市中 の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の鄰地にて熄(や)む。わが廬を去ること僅に一町ほどなり。

 九月二日。昨夜は長十郎と庭上に月を眺め暁の来るを待ちたり。長十郎は老母を扶け赤阪一木(ひとつぎ)なる権十郎の家に行きぬ。予は一睡の後氷川を過ぎ権十郎を訪ひ、夕餉の馳走になり、九時頃家に帰り樹下に露宿す。地震ふこと幾回なるを知らず。

 九月三日。微雨。白昼処々に放火するものありとて人心恟々(きようきよう)たり。各戸人を出し交代して警備をなす。梨尾君来りて安否を問はる。

 九月四日。曶爽家を出で青山権田原を過ぎ西大久保に母上を訪ふ。近巷平安無事常日の如し・・(後略)・・

 九月十八日。災後心何となくおちつかず、庭を歩むこともなかりしが、今朝始めて箒を取りて雨後の落ち葉を掃ふ。郁子(むべ)からみたる窗(まど)の下を見るに、毛虫の糞おびたゞしく落ちたり。郁子(むべ)には毛虫のつくこと稀なるに今年はいかなる故にや怪しむべき事なり。正午再び今村令嬢と谷町の銭湯に徃く。

 九月十九日。旦暮新寒脉々(みゃくみゃく)たり。萩の花咲きこぼれ、紅蜀葵(こうしょくき)の花漸く尽きむとす。虫声喞々(しよくしよょく)。閑庭既に災後凄惨の気味なし。『湖山楼詩鈔』を読む。

 十月三日。快晴始めて百舌(もず)の鳴くを聞く。午後丸の内三菱銀行に赴かむて日比谷公園を過ぐ。  
 林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。公園を出るに爆裂弾にて警視庁及近傍焼残の建物を取壊中徃来留(とめ)となれり。数寄屋橋に出で濠に沿ふて鍛冶橋を渡る。到る処糞尿の臭気甚しく支那街の如し。
 帰途銀座に出で烏森を過ぎ、愛宕下より江戸見阪を登る。阪上に立つて来路を顧れば一望唯渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑(こくど)亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさゞる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。

 十月四日。快晴。平沢生と丸の内東洋軒にて昼餉(ひるげ)を食す。初更強震あり。

 十月八日。雨纔(わずか)に歇(や)む。午後下六番町楠氏方に養はるゝ大沼嘉年刀自を訪ひ、災前借来りし大沼家過去帳写を返璧す。刀自は枕山先生の女、芳樹と号し詩を善くす。年六十 三になられし由。この度の震災にも別条なく平生の如く立働きて居られたり。旧時の教育を受けたる婦人の性行は到底当今新婦人の及ぶべき所にあらず。日暮 雨。夜に入つて風声淅々(せきせき)たり。

 十月十六日。災後市中の光景を見むとて日比谷より乗合自働車に乗り、銀座日本橋の大通を過ぎ、上野広小路に至る。浅草観音堂の屋根広小路より見ゆ。銀座京橋辺より鉄砲 洲泊舩の帆柱もよく見えたり。・・(後略)・・

 十一月朔。・・(略)・・深夜強震あり。

 十一月五日。払暁強震。午後丹波谷の中村を訪ふ。震災後私娼大繁昌の由。 (以下省略)


*( )内のルビ、太字ゴチックは引用者(=私)によるもの。読みやすくするために、適宜開業も行った


 この岩波文庫版はそうとう省略しているので、実際はまだまだ余震にかんする記述が、日記のつれづれにある。『摘々録 断腸亭日乗』を参照されたい。

 それにしても震災当日のすさまじさは、ディテールの記述が具体的であざやかである。ロジカルで、かつリズミカルで読みやすい文章だ。漢詩を好んでいた荷風らしく、じつに漢字の多い文章ではあることを除けば。

 荷風の発言は、あくまでも日記のなかであるので、リアルアイムで対外的になされたものではないが、随所にみられる、文明批評的発言には、やはり注目すべきものがあるというべきだろう。

 ときに大震災から約一ヶ月後の 10月3日には、かなり強い語調での発言がなされている。この発言にははり驚かざるをえないものがある。

 阪上に立つて来路を顧れば一望唯渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑(こくど)亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさゞる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。

 現代語訳しておこう。

 坂の上に立って、いま来た道を顧みれば、一望すると遠く一面にわたって焦土と化しており、房総の山影はさえぎるものもないので、手に取るように近くに見える。帝都(・・かつては首都のことを帝都といっていた)東京の光景は哀れというのも愚かなことだ。だが、つらつら明治時代以降いま大正時代の帝都東京を見ると、いわゆる山師の玄関に異ならない。愚民(・・愚かな民衆)をあざむくいかさまモノに過ぎないのであって、灰となってしまったと言っても、たいして惜しいと思うには及ばない。ここ近年、世間一般では、ぜいたくにおごり高ぶり、欲望のおもむくままに飽くことを知らない状況であったことから考えると、このたびの災難はじつに天罰だと言うべきだ。深く悲しむべきであろうか、いやそんなことはない。民衆はすでに住む家を失い、国家の財産もまたカラになってしまった。外観のみ飾って「国家百年の計」をなさなかった国家の末路は、すなわちこのようなものなのだろう。自業自得で天罰はてきめんというべきのみだ。


 文学者の発言で、しかもエリート的な「上から目線」を非常につよく感じる発言である。対外的になされた公的な発言ではないとはいえ、穏当を欠くものではあることは否定できない

 とはいえ、永井荷風と同じコトバを感じる人は、もしかすると少なくないのではないだろうか? さきに大震災と大津波を指して、「天罰」発言でバッシングを受けた東京都知事の発言も、あながち的外れとはいえないのではないだろうか?

 だが、「近年世間一般奢侈(しゃし)驕慢(きょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様」だったか、と言われれば、それはすでに1990年段階で崩壊しており、2011年にはあてはまらないし、都知事の発言も文学者のものとしてはさておき、公人としては穏当を欠くものだと批判されても仕方ない。都知事が天罰のあとに付け加えた「死んだ人たちはかわいそうだけどね」というのも、あからさまな「上から目線」である。

 とはいえ、都市計画のないまま迎えた大震災の被害状況に対する批判としては、そのままあたっているのではないだろうか? 帝都東京の復興にあたって、復興院総裁の後藤新平が、「大風呂敷」とまで批判されながらも、壮大な都市計画でもって再建にあたろうとしたことは、文学者と実務家の違いはあれ、問題意識を共有していたことがうかがうことができる。

 永井荷風の日記に記した感想は、寺田寅彦の科学的視点からみた文章「天災と国防」と比較して読んでみるのもよいだろう。

 さあ、雨もあがって晴れたことだし、散歩にでかけるとするか。『日和下駄』(ひよりげた)にならって。さすがに荷風ではないから、蝙蝠傘を手にぶらさげてスーツに下駄履き(!)ということはありえないが(笑)







<関連サイト>

『摘々録 断腸亭日乗』
・・大震災後の余震関連の記事は、こちらを参照するとよくわかる。なお、岩波文庫版とは表記が異なる。

著作権は切れているが、「青空文庫」がまだアップしていないのが残念


<ブログ内関連記事>

関東大震災の関連

「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦が書いた随筆 「天災と国防」(1934年)を読んでみる

石川啄木 『時代閉塞の現状』(1910)から100年たったいま、再び「閉塞状況」に陥ったままの日本に生きることとは・・・ 

渋沢栄一翁はこの震災を、国民がおごりたかぶるのを天が見かねてこらしめるために下した天譴(てんけん)だといいました。なにしろああいう大金持ちのいうことですから、一も二もなく信用されて、たちまち天譴説がはやりました。が、天はほんとうにそう思っていたかどうか・・。」


永井荷風関連

詩人・佐藤春夫が、おなじく詩人・永井荷風を描いた評伝  『小説 永井荷風伝』(佐藤春夫、岩波文庫、2009 初版 1960)を読む

市川文学散歩 ①-葛飾八幡宮と千本いちょう、そして晩年の永井荷風
・・永井荷風ゆかりのカツ丼


永井荷風と同じ精神の持ち主たちのこと

「プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか」-白洲次郎の「プリンシプル」について

「武相荘」(ぶあいそう)にはじめていってきた(2014年9月6日)-東京にいまでも残る茅葺き屋根の古民家
・・白洲次郎の「終の棲家」

岡倉天心の世界的影響力-人を動かすコトバのチカラについて-
・・Asia is One (アジアは一つなり)というコトバについて

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
書評 『ピカソ [ピカソ講義]』(岡本太郎/宗 左近、ちくま学芸文庫、2009 原著 1980)
・・岡本太郎について

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・永井荷風について触れている。留学経験がなく、西洋的個人主義者ではなかった折口信夫もまた、「世間の外」に居続けた個人主義者であった

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)
・・歴史学者・阿部謹也による「世間論」について

(2014年6月16日、9月11日、2023年9月4日 情報追加)


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