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2011年1月20日木曜日

カラダで覚えるということ-「型」の習得は創造プロセスの第一フェーズである


模倣なくして独創なし。「型」の習得は創造プロセスの第一フェーズである

 「それは型にはまった考えだ」。
 「型を打ち破れ!」

 若者に対してこのように叱咤したり、檄(げき)をとばす人はむかしから多い。とくに「日本に元気を取り戻したい」という熱い思いで語る人には多いような気がする。

 私自身も「型」にはまった考えや行動は好きではない。

 だが、「型」を身につけなければ、「型」を打ち破ったり、「型」を超えることがはできない。これは大学時代に合気道に出会って、合気道に打ち込んだ日々を送りながら、文字通りカラダをつうじて学んだことだ。合気道の稽古をつうじて、幼いながらに自分のアタマで考えていたことだ。

 子ども時代はさておき、大人になってから「型」を身につけるのは、意外とむずかしい。素直に言われたことをやるという年齢ではないからだ。なぜ「型」を身につける必要があるのか、その理由の説明が欲しいのである。だが、合理的な説明がなされることはない。

 合気道も含めて日本の武道、いや日本の芸事(げいごと)全般に共通するのは、まず最初に「型」の徹底的な習得ありき、ということである。山伏修行や座禅修行なども同様である。まず形から入る。「型」を身につけることからすべてが始まる。

 とにかく初心者は徹底的に師匠や師範の真似をする、内弟子の場合は一挙手一投足まで真似をする、模倣する。なぜそうしなければならないかの説明はない。ただひたすら「型」を覚えよと繰り返すのみだ。

 「型」は「スタイル」といいかえることも可能だろう。

 「スタイル」も誰かお手本を徹底的に真似ることから始めなければ、自分の「スタイル」を創って確立するにはいたらない。

 「自分のスタイルはまったく自分でゼロから創ったもので、人の真似ではない」と言う人もいる。しかし、それは誰かのスタイルの剽窃(ひょうせつ)ではない、という意味ならそのまま受け取ることはできるだろう。

 だが、まったくのゼロから創り上げたということはありえない。言っている本人が忘れてしまっているだけで、いちばん最初は無意識のうちにだれかのスタイルを真似ているハズである。かならず誰かの真似から入っているはずだが、それはけっして不名誉なことでもなんでもない。真似をした対象を、師匠と言いうるかだけの違いだろう。

 「型」であれ「スタイル」であれ、最初のプロトタイプはかならず誰かの真似をして形成している。真似という表現に難があれば模倣でもいい。最初は憧れの対象を模倣して、自分のなかにプロトタイプをつくりあげる段階だ。
 
 徹底的に真似ることによって自分のなかにできあがったプロトタイプをどう自分流に発展させていくか、あるいは崩していくか、ここからがのスタイル創造プロセスの代にフェーズとなる。

 試行錯誤のプロセスを経て、ようやく自分のスタイルができあがり固定していく。

 だから、「型」を身につけるのは、実は創造的なプロセスの第一フェーズなのである。模倣なくして発展なし

 西欧社会でも、カトリック教徒のあいだで読まれてきた本に、トマス・ア・ケンピスという15世紀ドイツの修道士が書いた『キリストのまねび』というものがある。原題は Imitatio Chrisiti、明治時代の翻訳では内村鑑三は『イミタチオ・クリスティ』とそのままカナに移している。
 現在は『キリストにならいて』(トマス・ア ケンピス、大沢 章/呉 茂一訳、岩波文庫、1960) というタイトルで日本では流通している。

 「まねび」とは「真似ぶ」という動詞の名詞形だ。よくいわれるように「学び」とは「真似び」でもある。キリスト教徒の理想とは、徹底的にイエス・キリストを真似て、そのものに成りきって生きることを究極の理想としているわけだ。
 
 西欧社会の底流に、こうした「没個性」とも見えるものがあることは知っておいて損はない。

 西欧社会では、近代に入って「個人」が確立したが、その近代社会に成立したイエズス会では、創始者のイグナチウス・デ・ロヨラが確立した『霊操』という観想修行のメソッドをマニュアル化したものがある。『霊操』とは英語でいえば spiritual exercise のこと、カラダのエクササイズの「体操」に対する「霊操」である。


 『霊操』は、キリストのイメージを観想するという、いわばイメージトレーニングの一種であるが、身体性をともなった「型」といってもいいだろう。

 イメージを想起する訓練は、徹底的にイメージを消していく禅仏教の対極にあるものだが、「型」を重視する点においては共通性をもつ。イメージを想起する点においては真言密教の阿字観に似ているのかもしれない。

 『霊操』(イグナチオ・デ・ロヨラ、門脇佳吉訳、岩波文庫、1995)として出版されているので入手は容易である。

 観想する、瞑想する環境を設定することから始まる。まず形からである。外形から入るのである。

 旧約聖書の『伝道の書』には「陽の下に新しきものなし」という箴言がある。

 「新しきもの」はすべて過去の模倣か、過去の要素の新たな組み替えである。しかし、そこにこそ独創性が発揮される余地がある。

 まずは「型」を徹底的に身につけること、しかもアタマではなく、カラダにしっかりと覚え込ませること、この意味と重要性、そしてそれが必ずしも容易ではないことについては、私自身の合気道習得の経験を題材に書いてみよう。


合気道における「型」の習得

 高校時代に体育の必修授業で柔道と剣道はすでにやっていたが、合気道は大学に入ってからはじめて取り組んだ。

 武道に限らず日本の芸事(げいごと)においては、「型から入って型を超える」というのが、伝統となっている。独創性を発揮する前に、まず「型」から入るのである。いや、「型」から入らなければならないのだ。
  
 合気道において「型」とは、「技」(ワザ)といいかえてもいい。基本技とその応用をあわせれば数千種類にも及ぶとされている。

 達人の域に達しなければそこまで習得はできないが、基本技さえ完全に身につけば、応用技はその延長線上と組み合わせにあるので、基本技の習得ほど時間はかからない。だが、そこまで打ち込んで稽古する時間がとれないだけである。

 だが、基本技はきわめて難しい。なぜなら、武道の作法は、一般的な現代人の生活とはかけ離れたものとなってしまっているからだ。

 私も含めて現代人はイスの生活をし、タタミよりもフローリングの床を好む。正座はおろか胡座(あぐら)さえ日常生活ではほとんどない。ましてや膝行(しっこう)など現代人の生活に登場することは皆無である。膝行とは江戸時代の殿中の歩き方。左右のひざを使って前後左右に動く基本動作だ。

 だからこういった「基本動作」から、あらためて身につけなければならない。

 なによりも重要なのは「受け身」である。武道は基本的に一対一を基本としているので、スキューバ・ダイビングのバディシステムではないが、取りと受けの二人組みがすべての基本となる。
 
 合気道では「受け身三年」といわれている。それぐらい稽古を積めば、どんな投げ方をされても受け身がとれるようになるということだ。
 受け身がとれなければ命にかかわる。アタマを打って死ぬ自己は毎年発生している。
 それだけでない、相手が受け身が取れるのであれば、技をかける側からも安心して技をかけることができる。

 そしてこの受け身が、日本人男子が高校時代に必修の柔道とは根本的に違っているのだ。受け身だけではない、足の運び方、投げ技も含めてすべて基本動作が柔道とは異なる。
 合気道の足捌(さば)きは基本的に剣道のものである。これは合気道の発生について知れば自ずからわかることだ。


一度カラダに身についた動きを捨て去るのは難しい-大人の男性にくらべて大人の女性のほうが合気道習得がスムーズにいく理由(わけ)

 初心者にとって何よりも難しいのが、柔道の基本動作を捨て去り、合気道の基本動作を身につけることである。

 高校時代に柔道が必修ではない女子のほうが、合気道習得が早いのはそのためだ。男子の場合は、どうしても柔道技が抜けきれずに苦労することになる。私は柔道では黒帯はとらなかったが、「柔よく剛を制す」というのが楽しいので、剣道とくらべて柔道は好きだった。

 従来から身についている基本動作を捨て去り、新たな基本動作を身につける。

 これは「ラーニング」(learning:学び)に対して、「アンラーニング」(unlearning:学んだことから脱する)といわれる。「学習棄却」などとい難しい訳語もあるが、「学び捨て」といっていいかもしれない。一度ついた悪いクセ(・・あくまでも合気道の立場からみて)を捨てて正しいクセを身につけるのは思ったよりも難しい。

 日本人でも柔道の動きと合気道の動きはまったく違うので、18歳で合気道を始めたときいちばん困ったのは、柔道のクセがなかなか抜けずに、合気道らしいなめらかな動きが身につきにくかったことだ。

 これは日本舞踊やダンス、このほかスポーツ全般についてあてはまることだろう。たとえば、ゴルフやテニスでも悪いクセがいったんついてしまうと、なかなか正しい打ち方に変更するのが難しくなってしまう。

 まっさらな状態であれば、素直にすいすいと染みこんでくる。

 カラダで覚えたことは、カラダに覚え込ましたことは、なかなか忘れないのだが、逆に忘れようと思ってもカラダが思うように言うことが聞かないのだ。

 
カラダで覚えることを脳科学の観点から見る

 カラダで覚えるということを、ちょっと別の角度から見てみよう、脳科学の観点である。
 
 カラダで覚える情報のことを「手続き的記憶」という。立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることは、アタマで考えて記憶したのではない。コトバを介在することなく、カラダで身につけた「記憶」である。

 身体がかかわるが、コトバを介在させない記憶。キーボードをたたくなど、さまざまな技能(スキル)もこの「手続き的記憶」の一つである。アタアではなカラダに覚え込ませなければ、パソコンの操作さえ大変なものになってしまう。

 カラダの動きをイメージとして捉えて、動きを模倣し、カラダに覚えさせた記憶を再現し、その反復をつじて定着させる。

 これはイヌやネコを観察していれば理解できることだ。コトバをもたないが、一定以上の知性をもつイヌやネコは、子ども時代に母親の行動をひたすら真似ることによって学習している。

 反復訓練する。インターバルをおいて反復することが記憶の定着につながる。筋肉や臓器のもつ「廃用性萎縮の原則」もかかわる領域。使えば機能は発達するし、使わなければ機能は退化する。

 痛い想いをする。これは「エピソード記憶」としてさらに記憶を強化することにるながる。

 箸をキチンと持てない子ども、卵の殻を割れない子ども、魚の骨をとれない子ども・・・。これらはすでに 30年くらい前から目立ってきた現象だ。

 まだ「可塑性」(かそせい:変形しやすい性質のこと)の高かった子ども時代にキチンとしつけをうけなかったためである。叱られて直されるというしつけを子ども時代に受けていないためである。子ども時代に痛い想いをして身につけたしつけは、大人になっても変わらない。

 カラダに覚え込ませる礼儀作法やしつけは、子ども時代にきびしくやっておかないと、大人になってから恥をかくことになる。

 日本だけでなく、たとえばタイでも礼儀作法のコードは厳密に規定されており、子どもの頃からワイ(合掌)を中心とした礼儀作法が厳しくしつけられる。これは聞いた話だが、子どもときにタイ人社会を離れて外国に移住したタイ人のなかには、タイの礼儀作法が身についておらず、大人になってから恥をかくだけでなく、タイ人社会からまともな扱いを受けなくなってしまうという。

 外国人がワイ(合掌)のまねごとをしても微笑んでもらえるが、礼儀作法を知らないタイ人にはそのような対応はない。これは日本人社会でも同じことだろう。

 楽器の演奏やスポーツも、子ども時代の早い時期にはじめたほうがいいことは常識である。ピアノでもヴァイオリンでも何歳から始めたかということで、ほぼすべてが決まってしまうのは厳然たる事実である。

 歌舞伎などの古典芸能も、子どものうちから所作を覚えないと、大人になってから身につけるのは難しい。

 しかし、大人になってから、あらたに「型」を身につけることは不可能ではない

 大人が「型」を身につけるのが難しいのは、先にも述べたように、大人になってからカラダで覚える「手続き記憶」は意識的な反復訓練が不可欠なためである。また、身についた悪いクセをいったん「アンラーニング」(学び捨てる)することが、これまたなかなか強い意思を必要とすることである。

 子どもと比べると難易度が高いが、強い意志さえあれば不可能ではない。このように言うこともできるだろう。


 以上、さまざまな角度から「型」の習得について見てきたが、要は模倣すべき対象を選び、その動きを模倣し、反復訓練によってカラダに覚え込ませることが、「型」を破り、「型」を超えるための前提となるのであある。

 独創性を発揮する前に、まず「型」から入るのである。「型」から入ってもいいじゃないか、というのではなく、そもそも「型」は身につけなくてはいけないのだ。

 「型」の重要性については、グローバル時代であるからこそ、アイデンティティ確立の意味も含めて、日本人としては意識したいものである。





P.S. この投稿で通算 600本目となった。あと400本で 1,000本になる。
 ブログを書き始めて3年目、今年中に1,000本は難しかもしれないが、地道に愚直に続けていきたい。
 鍛錬とは、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする」(宮本武蔵)、である。







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「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)
・・何ごとも「継続はチカラなり」。3日、100日(≒3ヶ月)、1,000日(≒3年)。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする」(宮本武蔵)

「学(まな)ぶとは真似(まね)ぶなり」-ノラネコ母子に学ぶ「学び」の本質について

書評 『独学の精神』(前田英樹、ちくま新書、2009)-「日本人」として生まれた者が「人」として生きるとはどういうことか
・・独学は先人の跡を真似ぶことからしか始まらない

書評 『狂言サイボーグ』(野村萬斎、文春文庫、2013 単行本初版 2001)-「型」が人をつくる。「型」こそ日本人にとっての「教養」だ!

書評 『模倣の経営学-偉大なる会社はマネから生まれる-』(井上達彦、日経BP社、2012)-「学ぶとは真似ぶなり」とは、個人でも会社でも同じこと

What if ~ ? から始まる論理的思考の「型」を身につけ、そして自分なりの「型」をつくること-『慧眼-問題を解決する思考-』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2010)
・・思考もまた「型」から入るのが王道である。考える自信がつく。


書評 『正座と日本人』(丁 宗鐵、講談社、2009)

合気道・道歌-『合気神髄』より抜粋

クレド(Credo)とは
・・使徒信条(しとしんじょう)を、ロザリオを手繰りながら繰り返し朗誦させることで、教義をたたき込むカトリック教会のテクニックについてふれている。

(2016年1月3日 情報追加)
     




(2012年7月3日発売の拙著です)








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