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2010年2月7日日曜日

朝青龍問題を、「世間」、「異文化」、「価値観」による経営、そして「言語力」の観点からから考えてみる

     
                    
 2010年2月4日、ついに朝青龍が引退表明して角界を去ることとなった。ファンとしては残念だが、この状況下ではベストとはいわないまでも現実的な選択であったといえよう。さすがに今回はもう無理かな、と思ったファンも多いことだろう。

 週刊誌によれば、黒い交友がつねにウワサされていたようだが、芸能界含めて興業の世界にはつきものの話であり、一概にそれだけで断罪することはできないだろう。そういうウラ社会の話はいい悪いは別にして、日本人なら、それとなく知っている話ではある。歴代の横綱もまた例外ではない。


日本の「世間」における「常識」と「非常識」

 今回の引退劇は、日本相撲協会の理事会から「解雇か引退か」と迫られた上で、退路を断たれた朝青龍が泣く泣く引退を決断した、というのが真相らしい。自発的とはいいながら、いわば「強いられた引退」といったところだろう。英語でいえば、forced to retire といったところか。もちろん、退職金などさまざまな特典や名誉のことを考えれば、引退しか結論はない。

 私も朝青龍のファンだが、今回の件は残念だが仕方がないと考えている。しばらく休養して、心の整理をしてから第二の人生に向けて出発して欲しい。間違っても、サッカーのヒデ(こと中田英寿)のように"自分探し"などしないように。しかし、それにつけても不思議なのは、巡業サボってモンゴルに帰っていたときにサッカーに興じたのは、親友のヒデの誘いによるものではなかったのか? なぜマスコミはこのことに言及しないのだ??

 この話題を取り上げた理由はいくつかある。私には非常に印象的だったのは、朝青龍が引退の記者会見で、「世間を騒がせて・・」という決まり文句をまったくクチにしなかったことだ。迷惑をかけたとして言及したのは、具体的な対象(相撲協会やファン、マスコミ関係者)についてのみであった。本人もさまざまな迷惑をかけてという自覚はあることがうかがわれるが、「世間」を騒がせたという謝罪の決まり文句がまったくでていない。

 朝青龍は高校生のときから日本にきており、すでに十数年の滞在で日本語はある意味、日本人より流暢である。モンゴル語と日本語は語順が同じなので、単語さえ覚えれば習得はそれほど難しくないのかもしれない。ただし朝青龍の、漢字読み書き能力については私は知らない。

 私が何をいいたいかというと、これほど日本語を流暢に使いこなすな朝青龍が、「世間」を騒がしたという表現をしないということは、「世間」という、つかみどころのない、あいまいな概念を認識していない、という重要な事実なのである。

 「世間」というコトバを耳にすることがあっても、実体として「世間」という概念を把握していないから、自分のコトバとしては出てこないのだろう。


「異文化」のモンゴル人には日本の「世間」は存在しない

 ここで想起されるのは、モンゴル人の特性である。書評『朝青龍はなぜ強いのか?-日本人のためのモンゴル学-』(宮脇淳子、WAC、2008)でも書いたが、著者のモンゴル学者で歴史家の宮脇淳子が、モンゴル人の特性をいくつかピックアップしたなかに、次のような項目がある。

 ・「まわりに合わせる」という考えのないモンゴル文化
 ・モンゴルには「長幼の序」はない

 似たような顔をした同じアジア人とはいっても、モンゴル人は、日本文化とは根本的に異なる「遊牧文化」に属しているのだ。これによって、ある程度まで朝青龍の特性を説明することができる。

 朝青龍自身、「まわりに合わせる」つもりはない、勝負にこだわっていたと述べている。その意味において、朝青龍は日本語はペラペラだが、骨の髄まで100%モンゴル人なわけなのだ。


また、2005年当時の駐日モンゴル大使がこんなタイトルの本を出していたことはご存じだろうか。『日本人のように無作法なモンゴル人』(ザンバ・バトジャルガル、大束 亮訳、万葉舎、2005)

 なんだか失礼な印象も受けなくはないタイトルだが、モンゴル人からみれば、日本人のほうが不作法、と映るらしい。まさに「異文化」ギャップである。「日本人のように不作法な」というフレーズがモンゴル語にあるらしいが、それこそ日本とモンゴルは真逆の世界であるわけなのだ。

 つねに優等生として比較される横綱・白鵬は、日本人と結婚し、日本に帰化することも視野にあるからだろう、かなりの程度まで日本(という他人)に合わせているように思われる。なんといっても配偶者である日本人の影響は少なくないだろう。白鵬は強いし「品格」もあるように見えるが、ややつまらない印象を受けるのは私だけだろうか。

 昨日(2月6日)のNHKの追跡AtoZ 「朝青龍 引退の舞台裏-"強さ"と"品格"のはざまで-」で紹介されていたことだが、朝青龍は日本のお父さんとして慕っていた、髪結いの床山さんに「横綱の品格」とは何だろうか、としつこく聞いていたという。朝青龍なりにそうとう悩んでいたのだろう。

 しかし、「品格」なんていわれても、日本人だってよくわからない。目に見えない「品格」なんていう行動基準を課せられても、答えなんか出しようがないではないか。「品格」もまた「暗黙」の了解事項であるかぎり、「世間」の外部からきた者には、痛い思いをして自ら気づきを得ない限り、まず理解不能といっていいだろう。

 日本人であっても、若い頃は"ヤンキー"(・・アメリカ人のことではないですよ! いわゆるツッパリのこと)やったり、そうとう"ヤンチャ"したが、結婚して家庭をもったら落ち着いた、なんて話はごろごろしている。つまり彼らは、「世間」の暗黙のルールを、肌身をつうじて体得した、ということだ。こういうことを指して、日本人は「オトナになった」と表現する。

 「覇者の奢り」ともいうべきか、朝青龍に聞く耳がなくなっていたことも問題ではある。しかし、同じことをモンゴル人に求めても無理というものだろう。

 モンゴルでは、朝青龍に日本人の記録を破らせないために引退させたのだ、という陰謀論めいた見解もなくはないらしいが、日本的「世間」のもつ、意図せざる、見えざる「排除の論理」が働いていないとは、いいがたいものがあるので、陰謀論もあながち否定はできない。


どんな組織でも「行動基準となる価値観」が重要だ


 しかしながら、どの世界にも行動基準となる「価値観」が存在する。

 米国の文化人類学者エドワード・ホールの表現を使えば、日本のようなコンテクスト(=文脈)依存的な文化(= high context cultureにおいては、価値観も暗黙的なことが多い。「世間」の要求する価値観などまさにそうしたものであろう。

 これは日本的「世間」にどっぷりとつかっている組織は、お役所でも企業組織でもかわらない。ホールの議論については、Edward T. Hall, Beyond Culture, Anchor, 1977 を参照。かつて「日米摩擦」が激化した時代によく読まれた本。日本語訳『文化を超えて』はとうの昔に絶版。

 一方、米国社会や欧州社会のような、コンテクスト依存度の低い文化(= low context society)においては、価値観は明示されて表現されることが多い。たとえば、いまはもう引退したが、かつて米国を代表する世界企業 GE(General Electric:ゼネラル・エレクトリック)の CEO として率いていたジャック・ウェルチは、「価値観に基づく経営」を主張し実行していた。

 ウェルチがいうには、いくら業績がよくても、GE の価値観にあわない人間には辞めてもらう、と。これは「価値観による経営」といってよいだろう。CSR(= Corporate Social Responsibility)を考慮にいれないと、価値観に従わない従業員によってもたらされた不祥事によってブランド価値が毀損(きそん)されることもあるし、何よりも企業価値を重視した経営を行う以上、当然といえば当然なのだ。短期の業績があがっても、中長期の競争力につながっていかなければ意味はない。

 ただし重要なのは、価値観がコトバとして明示され、従業員に徹底して教育を行っていた、といういことだ。GE 以外でも、国際的なホテル・チェーンであるリッツ・カールトンの「クレド」(Credo:信条)など、価値観を明示して行動基準としている企業組織は多い。


 朝青龍の「引退」は、相撲協会の「価値観」にしたがったものであり、そのこと自体には異論はない。所属する組織のトップ経営層の「価値観」に基づく決定である。今回の場合、あらたに外部からの人材が、意志決定に加わったことも大きく左右したようだ。

 ただ問題なのは、相撲協会の価値観の表明が「暗黙的」なものであって、誰にでもわかるような「形式」で明示されたものではないことだ。果たして、企業組織であれば「就業規則」の懲罰規定のような明示された基準が、相撲協会内部に存在するのかどうかも不明である。

 これが、ひとり朝青龍だけでなく、一般ギャラリーにも理解しにくいものであったことは、何かしら釈然としない、後味の悪い思いだけが残ったことにつながっている。


相撲協会はコトバで明確にMVV(=ミッション・ビジョン・バリュー)を示せ

 結論としては、相撲協会は「ミッション」を明確にし、「価値観」も美辞麗句ではなく、誰もが腹の底から納得のいくようなコトバで、明示すべきである、ということである。「価値観」を行動のガイドラインとして設定し、これを相撲協会内部で徹底していけば、あたらしい時代に組織として生き残っていくことを可能とするだろう。

 相撲界は能楽と同様、パトロンであった徳川幕府が明治維新により崩壊したあとは、生き残るのに大きな苦労をしたことは歴史的な事実である。現在の相撲界を取り巻く状況は、それに劣らぬ苦境かもしれない。

 新しい時代に適応するためには、「価値観」を明示的に表現し、徹底していくことが求められるが、この際に必要になってくるのが「言語力」である。「言語力」とは、読み、書き、考え、伝えるチカラのことである。これが現在の日本人には、子供だけでなく大人にも著しく欠けている。日本人は「暗黙知」にどっぷり依存しすぎてきたのである。ロジカル・シンキング(論理的思考能力)以前の状態である。言語力がなければ、数学の試験問題の意味も理解できない。

 したがって、「言語力」を鍛えることは相撲界だけでなく、日本全体の課題であることは、NHKの追跡AtoZ 「問われる日本人の"言語力"」でも具体的に紹介されているとおりである。日本のサッカーを強化するためには、前日本代表監督であったオシムが指摘するように、選手の「言語力」をアップすることが課題となっているようだ。「暗黙知」に頼ったコミュニケーションには明かな限界に突き当たっており「形式知」としての「言語力」をより高める必要性に迫られているのだ。

 相撲取りといえば、かつては「ごっつぁんです」、「そうっすか」、「うっす」ぐらいしか発言しないのが当たり前だったが、朝青龍だけでなく琴欧州や把瑠都などの外国人の若い力士は、日本語で流暢に感想を述べたり、自分の考えを筋道たててしゃべったりもしている。相撲協会は理事も含めて、「言語力」強化が喫緊(きっきん)の課題ではないか?


 以上、朝青龍問題を題材に、日本的「世間」と「異文化」について考え、「価値観」による経営実現のために不可欠な「言語力」の重要性について考えてみた。

 問題は相撲界だけではない。企業組織含めた、日本全体にかかわることである。問題の根は深いが、対策開始は早ければ早いほうがよい。


<参考サイト>

「言語力検定」(読み、書き、考え、伝えるチカラ) 公式サイト

NHKの追跡AtoZ 「問われる日本人の"言語力"」


P.S.  この投稿記事でブログ開設以来250本目となった。次に目指すは通算300本也。

P.S. 2  読みやすくするために改行を増やし、「見出し」を入れた。また<ブログ内関連記事>を追加して、この記事のブログ全体との関連を明確にした。 (2013年11月13日 追記)



<ブログ内関連記事>

モンゴル

書評『朝青龍はなぜ強いのか?-日本人のためのモンゴル学-』(宮脇淳子、WAC、2008)


世間

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
・・「世間」とは持続性のある相互監視の視線であり、「空気」とは持続性はないが濃度の濃い相互監視の視線の集まりと考えてよいのではないだろうか

ネット空間における世論形成と「世間」について少し考えてみた
ネット空間における「世間」について(再び)

書評 『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)-哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ

映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」
・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない

「ゆでガエル症候群」-組織内部にどっぷりと浸かっていると外が見えなくなるだけでなく、そのこと自体にすら気が付かなくなる(!)というホラーストーリー

書評 『私とは何か-「個人」から「分人」へ-』(平野啓一郎、講談社現代新書、2012)-「全人格」ではなく「分割可能な人格」(=分人)で考えればラクになる


価値観

クレド(Credo)とは

書評  『女子社員マネジメントの教科書-スタッフ・部下のやる気と自立を促す45の処方箋-』(田島弓子、ダイヤモンド社、2012)-価値観の異なる人材をいかに戦力化するか

「個人と組織」の関係-「西欧型個人主義」 ではない 「アジア型個人主義」 をまずは理解することが重要!
・・中国人、インド人、タイ人の「個人主義」と西洋人の「個人主義」の違い


言語技術

書評 『ことばを鍛えるイギリスの学校-国語教育で何ができるか-』(山本麻子、岩波書店、2003)-アウトプット重視の英国の教育観とは?

「人生に成功したければ、言葉を勉強したまえ」 (片岡義男)
・・アメリカのエリート教育

書評 『言葉でたたかう技術-日本的美質と雄弁力-』(加藤恭子、文藝春秋社、2010)
・・アメリカのエリート教育

書評 『小泉進次郎の話す力』(佐藤綾子、幻冬舎、2010)
・・スピーチ

書評 『思いが伝わる、心が動くスピーチの教科書-感動をつくる7つのプロセス-』(佐々木繁範、ダイヤモンド社、2012)-よいスピーチは事前の準備がカギ!

書評 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三、光文社新書、2007)

書評 『外国語を身につけるための日本語レッスン』(三森ゆりか、白水社、2003)

書評 『言葉にして伝える技術-ソムリエの表現力-』(田崎真也、祥伝社新書、2010)



 
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(2020年5月28日発売の拙著です)


 
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