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2009年6月30日火曜日

ミャンマー再遊記(8)-熱心な上座仏教徒たち





 ミャンマーは仏教国である。

 しかし、東南アジアのタイ、ラオス、カンボジア、南アジアのスリランカと並んで上座仏教(=テーラヴァーダ仏教)であることは強調しておきたい。
 同じ東南アジアといっても、中華文明の圧倒的影響下にあるベトナムは、南部のカンボジア系住民を除けば基本的に大乗仏教が中心であり(フランスの植民地であったため、もちろんカトリック教徒も少なからずいるが)、その他東南アジアとは大きく異なる。

 統計によればミャンマー国民の85%が仏教徒であるという。この中には華人系ミャンマー人も含まれるが、一般的に華人は大乗仏教の信者であることが多い。これはタイでも同様である。ヤンゴン(仰光)では、チャイナタウン以外にも中国寺院がある。
 中華文明が、儒教・道教・大乗仏教の3点セットで構成されたものであることは、日本・韓国・ベトナムという、いわゆる「儒教圏」に共通している。華僑として東南アジア各地に移民した華人は当然のことながら、上記の3点セットをそのまま持ち込んだ。ミャンマーも例外ではない。
  
 さて、上座仏教の特色は、ひとことでいってしまえば、そもそもの2500年前の釈尊ブッダの教えそのものに忠実なことにある。
 基本的に三宝(=仏・法・僧)に帰依するのは大乗仏教と変わらないが、日本の大乗仏教、とくに鎌倉新仏教以降、釈尊ブッダそのひとではなく、法然・親鸞・日蓮などの祖師を信仰の対象とする傾向が強い。上座仏教ではそのようなことはない。
 大乗仏教の経典はサンスクリット(梵語)で書かれているが、上座仏教はすべてパーリ語である。

 基本的に出家者(=比丘 bikku)と在家者が区分され、出家者は227に及ぶ厳しい戒律を守らねばならない。出家者は生産労働に従事することはできず、食事は基本的に托鉢によって在家信者からお布施してもらったもののみしか食べることはできず、しかも托鉢後と正午前の2回のみである。
 基本的に出家できるのは男性だけだが、一生の間に何度も出家還俗を繰り返すことができる。もちろん一生僧籍にいる出家者もいる。
 ミャンマーの場合はタイと違って、一度子供の時に得度することになる。得度式に望む家族の行列はヤンゴンのシュエダゴン・パヤー(パゴダ)で毎日のように見ることができるが、得度することになる男の子は化粧されて王子様のように肩車され、お付きの人に日傘をさされて練り歩く。得度式は家族にとってはハレの舞台である。
 なお、女性は在家信者としてお布施を通じて出家者の教団(サンガ)を経済的にささえること、あるいは自分の息子を出家させるという迂回ルートのみが許されている。
 ミャンマーやタイで、一般的な日本人が尼僧と思い込んでいるのは実は比丘尼ではなく、尼僧に準ずる存在なのである。
 上座仏教については、かつてNHKスペシャルで放送された『ブッダ 大いなる旅路』が映像資料もDVD化されているのでビジュアル的にも参考になる(・・私は放送のビデオ録画をしてある)。書籍化された第二巻「篤き信仰の風景 南伝仏教」(NHK出版、1998)では、とくにミャンマーとタイが重点的に取り上げられている。
 なお、私のブログに日本テーラヴァーダ協会主催の釈尊祝祭日について書いているので、ご参考まで。

 ミャンマーには住んだことがないので、通り一遍の観察でしかないのだが、出家者、在家者含めて、タイよりも熱心な仏教徒が多いな、という印象を受ける。ラオスのルアンプラバンでは朝の托鉢は観光化してしまっているし、カンボジアではポルポト時代に仏教が徹底的に弾圧されたため、現在は復興中である。
 都市部を離れた農村では、生活様式が古代そのものであり(「ミャンマー再遊記(6)参照)、また雨期・乾季・暑気の三季であること、動植物が北インドに近い---象もコブラも生息しているし、御釈迦様がその下で悟りを開いたという菩提樹はバンヤン(banyan tree)としていたるところに生えている---ことから、仏教の教えが違和感なく、そのまま素直に信者の心に響いてくるのであろう。
 農村だけでなく都市部でも同様である。ヤンゴンからの帰りの飛行機で私の隣に座った女性は、みるからに都会的でカネ持ちそうな格好をしていたが、熱心に読んでいた本にちらりと目をやると、読んでいたのは高僧の写真の入ったビルマ語の文章であった。きっと、仏教の説教集なのであろう。
 高僧の説教集はカセットテープやVCDなどの形で販売されている。

 シュエダゴン・パヤーで祈る熱心な仏教徒の数は男女を問わずきわめて多い。私もマンダレーヒルでもシュエダゴン・パヤーでも賽銭箱に献金して、ガイドさんに教えられたとおりにミャンマー式の三拝を行った。何を祈ったかは秘密だが・・・。なお、写真に写っているのは、恥ずかしながらMr.ロンジーこと私です。
 ミャンマーはパゴダの国といわれるように、いたることろにパゴダがある。古いものだけでなく、最近できたばかりのものも多く、カネ持ちはパゴダを寄進することによって、徳を積むと同時に、見せびらかしの満足感も得ていたわけだ。新首都のネーピードーでも見るからに新しいパゴダが多かった。

 しかしなんといってもシュエダゴン・パヤーである。ミャンマーの仏教徒にとっての最大の聖地である。
 高さ100メートルに近いこの黄金のパゴダは夜はライトアップもされており、中はエスカレーターもエレベーターもあるほど大きい。
 境内は大理石で敷き詰められており、12年前に暑気のときは、裸足の足裏が焼けるように暑かった記憶がある。今回は雨期なので涼しいのだが、むしろ滑らないように気をつけなければならなかった。

 シュエダゴンはミャンマーのディズニーランドである! なんていったら怒られるだろうか? しかし、キリスト教の教会の陰鬱さをまったく欠いた、黄金金箔で飾られ、先端には惜しげもなく宝石が飾られ、いたるところに張り付けられたガラスの小片でキラキラ輝くパゴダは、質素とは対極にある、まさにミャンマーの富の集積場である。
 この国が本当は豊かな国であることの象徴でもあるのだ。

 また、ミャンマーでは瞑想もさかんである。上座仏教ではウィッパサナー瞑想法とよばれ、ミャンマーでは広く普及している。
 この瞑想法を習得すれば、集中力が増すということで、在家信者も熱心に取り組んでいるらしい。
 仏教擁護政策をとっているミャンマー政府は、「瞑想ビザ」(meditation visa)を発給しており、今度行くときには瞑想ビザを申請してみるのも面白いかも・・・なんて不埒なことも考えてみたりして。


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 これでとりあえずミャンマー再遊記を終わります。
 ネタが尽きたわけではなくて、書いているとキリがないから。
 
 足技(あしわざ)中心の「ミャンマー・マッサージ」体験記についても書こうと思ったのだが、これについてはムエタイ(ミャンマーにも同等の武術がある)や、セパタクローなどに代表される東南アジアの「足技文化」についての考察を深めてから、いつか書いてみたいと思っている。

 今回でミャンマーには3回(・・3年前、タイ北部メーサイから陸路で2時間だけタチレイに入ってみた経験を含む)入国したことになるが、なんといまだにインレー湖にいっていないのだ。
 インレー湖でリゾートすること、メコン川上流域のタイ系民族居住地帯であるシャン州のチェントンにいくこと、瞑想センターでウィパッサナー瞑想修行すること・・・などまだまだ懸案事項が山積みである。

 思えば、1970年の大阪万博で、家族で「ビルマ館」に入ったのが、そもそものミャンマー(=ビルマ)とのかかわりの始まりである。家族写真も残っているのだが、ぜんぜん人気がなくてガラガラのソビエト館と同様、残念ながらあまり人が入っていなかったような記憶がある。だから並ぶことなく簡単に入れたのであったが・・・

 さて、次はいつミャンマーにいくことになるのかな? 仕事で? 観光で? 瞑想で?・・・意外とすぐだったりして、な~んてことはなさそうか。

            


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「ミャンマー再遊記」(2009年6月) 総目次

「三度目のミャンマー、三度目の正直」 総目次 および ミャンマー関連の参考文献案内(2010年3月)

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2009年6月29日月曜日

ミャンマー再遊記(7)-新首都ネーピードーと中央縦貫高速道路建設





ネーピード訪問こそ、今回のミッションでひそかに私がもっとも期待していたことであった。

 決して「閉鎖都市」ではないのだが、一般のミャンマー人や外国人観光客は立ち入ることができない。政府の役人と、外交官や特定の訪問目的をもったビジネス関係者しか原則入ることができない。だから、『地球の歩き方』にはネーピードーの紹介記事はない。

 ミッション参加メンバーはネーピード入りはミッションの後半でくたびれが出だした頃でもあり、特にあまり関心はないようだったが、ミャンマー再訪の私にとっては、この12年間で最大の変化が首都移転であったこともあり、実は最大の関心事だったのだ。

 2003年に首都が突然ピインマナに移転というニュースを知ってからしばらく、今度はいきなり名称がネーピードーになり・・・断片的にしか入ってこない情報は、なにやら秘密めいた匂いさえかもし出してしていた。


 人工都市といえば、2008年のリーマンショックという世界金融危機までは、もっぱら中近東のドバイが話題となっていたが、ネーピードーも人工都市であることには変わりはない。しかしながら、ファンタジー性にはまったく欠ける。
 
 実際に体験したネーピードーは、日本でいえばできた頃のつくば学園都市、幕張新都心のような、人間の気配のあまりない、無味乾燥な人工都市であった。

 こういう印象をもったのは、とにかく道路インフラだけは三車線以上もある立派なものなのだが、すれ違うクルマもたまにしかなく、暑いということもあるが人間もあまり見かけなかったからだ。

 まったくのゼロから森林を切り開いて開発されたネーピードーは、削り取られたラテライトの赤茶けた大地が痛々しい印象を受ける。これは以前マレーシアを上空からみたときの印象と同じである。

 首都機能が定着し、定住する人間も増えてくれば、都市として成熟もしてくるのだろうが、現状ではまだまだ「普請中」といった風情である。ただし、一般人の居住地域とは完全に分離されており、ネーピードー市内にあるショッピングセンター、レストランは都市内居住者や来訪者のみが対象となっている。また外国人が宿泊できるホテルはバンガロータイプのリゾートホテルだが、これ一つしかない。

 理由はわからないが道路標識がほとんどなく、またミャンマーが英国の植民地であった名残だろう、全般的に信号機を使わずロータリーで交通整理を行うことが多いのだが、そのロータリーもまたネーピードーでは建設中のものが多々あった。
 現在のところ、中継局がないので携帯電話の通話もできない、ということである。まあ20年前は世界中どこでもそうだったわけであるが。


 移転先の新首都が人工都市であるということにかんしては、ブラジルのブラジリアという例もあるし、政治的な首都と経済的な首都が別々になっているケースは米国のワシントンとニューヨークのような例もある。、古代日本では平城京から長岡京、平安京と、そのつど人工都市に移転したという例もある。

 直近では東京から那須に首都移転(?)なんて話もあったが、首都移転議論はいつの間にか立ち消えになっている。 

 ミャンマーの場合はいきなりの抜き打ち的決定だったようだから、不動産価格高騰などの副作用は発生しなかったであろう。このことは幸いであったといえようか。


 もちろん、移転理由が憶測で語られるだけで明確な説明はなく、意思決定プロセスも不透明であったことは、外国人投資家にはやや不安を抱かせないとはいえない。いついかなる形で法律が変わり、また運用が変わるのではないか、という不安の象徴的存在でもあるからだ。

 もちろんヤンゴン自体が植民地支配者である英国が建設したラングーンであり、それ以前の都はマンダレーであった。

 ヤンゴンとマンダレーのちょうどほぼ中間地点に立地するネーピードーは国土開発という観点からは、同時に建設が進む中央縦貫高速道路とあいまって、10年先、20年先を考えれば決して無意味なインフラ投資ではない。建設開始から6年たったいま、もはや後戻りすることはないだろう、という印象をもった。


 ネーピードーでは、国家経済計画省との3時間のディスカションに臨んだ。局長は女性で、タイと同様、かなりのポジションに有能な女性がいることは印象的だった。プレゼンとそれに対する質疑応答が行われたが、内容は省略する。


 聞くところによると、役人の多くは家族をヤンゴンに残しての単身赴任であり、毎週ヤンゴンとネーピードーを往復している者が少なからずいるという。実際にわれわれも日本製中古バスでネーピードから高速道路を利用してヤンゴンまで戻ったのだが、片道6時間近くかけて毎週ヤンゴンと行き来するのは、正直ってくたびれてしまう。ミャンマー政府の役人はお気の毒・・・京都と東京なら新幹線で2時間強だから大したことはないのだが。

 これだけが原因ではないとはいえ、現在でも会社設立の許認可に最低半年もかかっているとある人から聞いた。あまりにも悠長すぎるのではないか? そもそもの非効率のなせるわざだろうが、役人の処理能力にも問題があるのではないか、という気もしなくはない。

 予定通り2010年に総選挙が実施され、想定されているような米国の主導による「投資ブーム」が起きたとしたら、役所の事務処理能力は簡単にパンクしてしまうだろう。おそらく資源開発などの大型案件は優先されても、中堅中小企業による直接投資案件は、かなり強力なコネクションがない限り、間違いなく後回しにされるのではないか?

 東南アジア各国ににある投資誘致機関、たとえばシンガポールのEDB(Economic Development Board)、タイのBOI(Board of Investment)のような、超優秀な経済官僚を集めた特別な組織がミャンマーにも必要だろう。
 ミャンマーにもMIC(Myanmar Investment Commission)があるらしいが、中身については接触していないので私にはわからない。


 現在のところ、高速道路はヤンゴンとネーピードーの間が新規に建設されている(写真参照)。今後、ネーピードとマンダレーがつながることになるという。

 ネーピードーとヤンゴン間の高速道路についてリポートしておこう。もちろん新首都への移転が始まるまで高速道路は存在しなかった。12年前はヤンゴンに戻る際にひどい交通渋滞に巻き込まれた記憶がある。

 新しく建設された高速道路は片道二車線で、舗装はアスファルトではなくすべてコンクリートである。建設時間もコストもかかっているはずだ。

 ただ問題は、ミャンマーを走る大半の自動車は日本の中古車で、時速制限いっぱいどころか、せいぜい時速70~80kmがいいところである。われわれの日本製中古観光バスを一台のベンツが追い抜いていったが、金持ちや高級官僚(?)には高速道路の使い勝手はかなりよかろう。
 また、なんせ途中の休憩所が現在のところ一か所しかないので給油もできないし、エンジントラブルでも起こしたらまったくのお手上げだ。現時点では高速道路を利用するクルマも非常に少ない。

 
 しかしすでに書いたように、道路インフラが整備されれば、たとえ経済発展が10年後になったとしても、20年後に遅れたとしても、発展の基礎ができたことにはなる。国家百年の計といっては言い過ぎかもしれないが、決して援助資金や国家財政の無駄遣いとは言い切れない。

 だれが援助したとしても(・・それが中国だろうが、日本だろうが)、道路は公共財であるから、援助国が受益者という考えはなじまない。


 むしろ問題はインフラというハード面ではなく、経済運営というソフト面にあるのではないだろうか? おそらくミャンマー投資の問題点は、発展途上国における「開発独裁」にとって不可欠な要素である経済テクノクラートが不足していることではないか、と考えられる。

 これは、韓国、台湾、インドネシア、タイ、マレーシアなどとは根本的に異なる弱点である。2006年クーデター後のタイでも露呈したように、一般的に軍人は経済というものを理論的にも現場感覚としても理解しておらず、ましてや複雑なグローバル資本主義のなかでいかに国を発展させていくかという課題に対応できるプレイヤーではない。

 経済テクノクラートに権限委譲して国民の経済生活を向上させる、そういった経済計画策定と実行を、2010年の総選挙に向けて目指してほしいものだ。


ミャンマー再遊記(8)に続く


PS 読みやすくするために改行を増やした。内容にはいっさい手は加えていない。(2015年10月4日)



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「三度目のミャンマー、三度目の正直」 総目次 および ミャンマー関連の参考文献案内(2010年3月)

東南アジアでも普及している「ラウンドアバウト交差点」は、ぜひ日本にも導入すべきだ!
・・新首都ネーピードのラウンドアバウト交差点についても写真入りで紹介

(2015年10月4日 項目新設)





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2009年6月28日日曜日

ミャンマー再遊記(6)-古代そのものの農村・・本日も牛で耕作!




 マンダレーから南下する一般道をクルマで走ると、基本的にミャンマーが農業国であることを確認することができる。そして農村がまさに「古代」そのものであることも。

 古代というのは言い過ぎじゃないか? ミャンマーにも中世があり近世があるはずだ、という声もあるだろう。
 もちろん、私自身はビルマ史に精通しているわけではない。しかし、実際の農耕作業を自分の目でみている限り、古代そのものとしかいいようがないのである。事の当否は別にして、農業の近代化は一部の農園を除けばほとんど進んでいない。

 具体的にいうと、いまだに水牛やコブ牛に鋤を引かせて畑を耕している(写真参照)。機械化農業の進んだタイとは異なり、いまだトラクターなどの農業機械はほとんど普及していない。効率化農業はほとんどないに等しい。馬車(観光用ではない!)、二頭立ての牛車(!)が現役の交通運輸手段として農村では活躍している。
 大半は有機農業ではあるが、進歩的な意識から取り組んでいるのではなく、化学肥料を導入する資金を欠いた小規模零細農家が大半なためである。
 今回のミッションで見学できた農園は比較的規模の大きなもので、こういった農園では中国産の袋詰めの尿素(・・これは重慶で生産されていたことを確認・・・まさに21世紀の「ビルマルート」は大戦中とは逆方向に、重慶から雲南を南下して仰光(ヤンゴン)に向かう!)や、タイのCP社の化学肥料などが使用されているのを見たが、それらは例外で、小規模農家では戦前の日本と同じく堆肥を使用しているようだ。
 また、農薬すら使用していない農場もある。意図せざる有機農業、周回遅れの有機農業である。
 しかし、だからこそミャンマーの農産物はうまいのだ。完全な手作り、自然の恵みそのもの、だからだ。

 タイでは、すでに農村もグローバル資本主義に飲み込まれており、Kubota のトラクターや、Isuzu のピックアップトラックが大人気であり、かなりの程度普及している。1970年代から始まった近代化農業によって、農村から水牛が消えていった。
 フランス現代思想に精通した社会哲学者の今村仁司は『タイで考える』(青土社、1993)の中で、この状況をさして「古代経済から近代経済へのジャンプ」と表現している。古代的な生産様式と生活様式を保ってきたタイ東北部(イーサーン)の農村を、友人の社会人類学者の案内で訪ねたときの観察結果に基づいた発言である。 
 この本は、ミャンマー再訪する前にバンコクに立ち寄った際、行きの飛行機の中で12年ぶりに再読してみたが、グローバル資本主義という形の近代主義に巻き込まれると、単に経済だけではなく、政治、宗教、イデオロギーが複合的にからまって人々の意識をいやおうなく変容させてゆくことがアジアで観察できることを強調しており、おそらく読んだ人はほとんどいないだろうが、私は東南アジアの現状を見る上で貴重な指針と捉えている。
 タイと比較すると、ミャンマーの状況を非常に理解しやすい。

 コブ牛に鍬を引かせる耕作方法は、私が1995年に訪問した北インドとまったく同じである。釈尊ブッダが生きていた2500年前と変わらない。
 ミャンマーに限らず、東南アジアのタイ、カンボジア、ラオス、そしてまた南アジアのスリランカの人々の思考や心性を内在的に把握するためには、上座仏教(テーラヴァーダ仏教)の理解がかかせないが、タイと比較した場合、ミャンマーのほうがより仏教徒としての生き方が自然に身についたものとなっていることが容易に観察される。
 生活様式がいまだ資本主義化=近代化に巻き込まれていないためだろう。これがミャンマー農民にとっていいことなのか、悪いことなのかは一概にはいえない。
 しかしながら、たとえばお茶栽培農家が新しい原木を導入するなどの更新投資を行う際には、資金不足が妨げになっていることは否定できない。ファイナンス機能をもった健全な中間流通業者が不在なこともその原因の一つであると考えられる。

 農業国としての強みを活かした、サステイナブルな形での経済発展がいかにしてミャンマーで可能であるか、今のうちから考えておく必要がある。

 
ミャンマー再遊記(7)に続く



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2009年6月27日土曜日

ミャンマー再遊記(5)- NISSAN DIESEL(日産ディーゼル)






とにかく日産ディーゼルのトラックがこの国では大人気だ。もちろん右ハンドルの日本製中古車である。

 マンダレーからは12年ぶりにほぼ同じルートでヤンゴンに向けて貸切バスで南下した。ただ、今回は新首都ネーピードーに入ることになっているので、一般道を走るのは半分だけだったが、実に多くの日産ディーゼル車が走っているのを見た。  
 
 トラックやオートバイでは中国製もちらほら見かけるようになったものの、圧倒的多数は右ハンドルの日本の中古車である。右側通行のミャンマーでは、右ハンドルの日本車は運転しにくいのではないかと思うのだが・・・
 同じく右側通行のカンボジアでも、走っている自動車の大半は中古車であることは同じだが、大半は韓国製である。右側通行だから左ハンドルの韓国車のほうが理にかなっているとはいえ、日本人にとっては残念至極なのだが。ちなみにミャンマーと同じく英国の植民地だったスリランカでは左側通行で、日本の中古車が多い。
 ではミャンマーではなぜ日本車なのか?

 帰国後、ベルギー人ジャーナリストによる『銃とジャスミン-アウンサンスーチー7000日の戦い-』(ティエリー・ファリーズ、山口隆子/竹林 卓訳、ランダムハウス講談社、2008)という本を読んでいると、もともとは左側通行だったらしいことがわかった。アウンサンスーチーを悪くいう日本の経済人は多いが、公平性の観点からも、こういう本を読む必要はある。
 1970年代後半、当時の独裁者ネ・ウィン将軍は、「・・・ある日、一人の占星術師が、ビルマ人が左側通行を続ければ国内で災いが起きると警告したため、道路交通法を右側に変えた。当時、ほとんどの車両がイギリスからの輸入車で、右ハンドルだったことなどはおかまいなしの決定だった」(p.59)とある。
 この記述が正しいのかどうか私には判断するすべはないが、いかにもありそうな話である。

 しかしこれだけでは、なぜ日本車なのか、の理由はわからない。
 基本的には、日本の自動車メーカーは欧米にくらべて次のモデルチェンジまでの期間が短かいこと、日本の車検制度が期間が短くかつ厳格なため、走行距離の限界までクルマを使うよりも買換えたほうが得だと消費者に思わせる仕組みができあがっていること、こういった理由で比較的あたらしくて性能のよい中古車が日本国内に大量に発生し、これを発展途上国に転売する外国人ブローカーがビジネスとして存在していることがある。
 東南アジアだけでなく、ロシアでもそうだった。ロシアでは最近外国車の輸入税が大幅に上げられて日本製中古車市場が壊滅的ではあるが。
 ミャンマーの場合、このビジネスの担い手が誰かはよくわからないが、活発になったのは1980年代以降だろう。
 ただし、ミャンマーでは自動車輸入の許認可がなかなか下りないので、輸入ライセンスが非常に高く釣りあげられており、結果として耐用年数過ぎた中古車が走り続けておりエンジントラブルなど事故発生の原因になっているという問題もあるらしい。

 ミャンマーでは車体に書かれた日本語の文字はあえて消さないらしい。理由は、ミャンマーは日本製品大好きだから、日本語が一種のブランドになっているのだ。最近の日本でいえば、Dean & Delucca のロゴのついたトートバックのようなものか。
 日産ディーゼル車の場合、ちょっと何かが違うことに気ががついただろうか(写真参照)。
 なんとミャンマー風のデザインになっているのだ。風呂屋の背景画みたいな風情で、ミャンマー最大の観光資源であるインレー湖の足こぎ舟がペンキで車体に描かれている。これは驚きの発見である。一般道を走っているトラックはだいたいこれであった。
 日産ディーゼルがそうさせたのか、ミャンマー人の意思でそうしているのかまったくわからないが、ミャンマーの主体性を静かに主張しながら、かつ日本製品大好きも表現しているこのトラックには、なんだか妙に感動さえ覚えるのである。ローカリゼーションの鑑(かがみ)として表彰してあげたいくらいだ。

 いっそのこと、国産車の「ミャンマー・ディーゼル」でも立ちあげたらどうだろうか?日本では類似商標として登録拒否される可能性もありそうだが・・・もちろん冗談です、はい。


ミャンマー再遊記-(6) に続く



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2009年6月26日金曜日

追悼 マイケル・ジャクソン




 マイケル・ジャクソンがまたまた驚かせてくれた。今度は急死だ。これで活動も永遠に休止だ。 
 6月25日、心臓停止状態で病院に担ぎ込まれた、と報道されている。
 スーパースターの突然死、死因はまだわかっていないというが、こんな驚かせ方は期待してなかったのに・・・。享年50歳、もうそんな歳だったのか・・・

 中学時代、同じクラスの「サル」というあだ名の級友が、見事にムーンウォークをやってみせたのを思い出す。
 日本全国、どこのクラスでも必ず最低一人や二人はこういうヤツがいたはずだ。
 それだけ日本でも、マイケル・ジャクソンの存在は大きかったのだ。TIME誌の記事で、日本では Michael でなく、Maikeru と呼ばれていると書かれていたのを覚えている。
 本当の発音は、マイコー・ジャクスンに近いが、ある世代の日本人なら、間違いなくマイケルといえばマイケル・ジャクソンのことを連想するだろう。

 久々にミュージック・ビデオを通しで見た(写真)。
 彼の真骨頂はダンスにある。若い頃の、まだ鈴木その子みたいに白くない頃の、マイケルの身のこなしは実にしなやかだ。
 マイケルの前にマイケルなし、マイケルのあとにマイケルなし、まさに不世出の天才であったとしかいいようがない。

 そしてまた思い出した。
 1986年の「つくば万博」では、マイケル・ジャクソン主演、ジョージ・ルーカス監督の短編映像 「キャプテンEO」 を見た。
 赤色と青色の3Dグラスをかけてみる、いわゆる飛び出す映像というやつだ。
  YouTube の画像はあまりよくないが参考まで。

 数年前だろうか、SMAPの番組に生出演したマイケルをみたのが映像としては最後だったが、本当に最後の最後までビッグでかつ、エキセントリック、かつ謙虚で繊細な人であった。もちろん実際の会ったことはないので本当のことはしらないが・・・
 
 2002年には私は自分のウェブサイトに Beat it ! というコトバを紹介した。私は、このコトバはマイケルからのメッセージだと受け止めてきた。
 
 Michael, rest in peace. 合掌

<追記>
中学時代の話と書きましたが、考えてみればそれはありえない話です。記憶がごっちゃになっているようで・・・(6月27日)

   


                 

2009年6月25日木曜日

ミャンマー再遊記 (4) ミャンマー・ビアとトロピカルフルーツなどなど





そうそう、ビールについても書いておかねばならない。

 いまミャンマーでは圧倒的に「ミャンマー・ビア」(Myanmar Beer)の天下になっており、古都マンダレーですら、あえて注文しないとミャンマービールをもってくる。

 夕食の際、「せっかくマンダレーにきているんだから、マンダレービールが飲みたい!」という声がどこからともなくわきあがってきたのも当然だ。さっそく追加注文してもらったマンダレービールは二種類あり、青ラベルがラガー、赤ラベルがストロング・エール、青はすっきり味、赤は濃いい味だ。

 マンダレーでマンダレービールを飲む、こんな当たり前のことが当たり前でなくなったのも12年前との違いである。

 ミャンマービールが市場に初めて出たのは1997年らしい。なるほど、前回ミャンマービールを飲んだことがなかったわけだ。毎日、昼も夜もミャンマービール飲み続けていたが、ビール市場の勢力地図交代というのは、実は大きな変化なのかもしれない。

 いまではミャンマービールがミャンマーではトップシェアで、いたる所で看板を見ることになる。また、シンガポールのタイガービールも健闘している。

 ビールのほかには、ミャンマーのウイスキーやラム酒があるが、今回は一回も試してみなかった。

 前回ラム酒は飲んだがあまりうまかったという記憶がなかったことと、タイのウイスキーがうまくないのでミャンマーも同じだろうと思ったのがその理由である。

 ちなみにタイのメコン・ウイスキーが好きだと公言しているのは秋篠宮殿下だが、この嗜好傾向には正直いって同意しかねる。


 ついでだから一般消費財についても触れておくと、中国の影響が大きいなどといわれるわりには、中国製品によって席捲されているわけではない。中国製品ははきりいって低価格のブランド力のない商品ばかりである。

 ヤンゴンのショッピングセンター--12年前に比べると驚くほど増えている--にいくと、棚に並んでいる商品は圧倒的に隣国のタイ製品が多い。比較的豊かな消費者が対象だからだろうか。
 "なんちゃって日本食品"の OISHI や インスタント麺の MAMA などのタイ・ブランドが幅をきかせており、なんだかほっとしたりもする。

 ちなみに OISHI は東南アジア各国や中国でも事業展開しているが、ミャンマーでライセンス生産しているとは知らなかった。自腹切ってでも現地は踏んでみるものである。
 また、ミャンマービールの写真を拡大していただけるとわかると思うが、ビアグラスはタイからの輸入品であることにも注目されたい。


 食品産業といえば、トロピカル・フルーツについても書いておかなくてはならない。今回の投資ミッションのテーマそのものだから。

 雨期はフルーツの最盛期であり、東南アジアでみかけるトロピカルフルーツは、もちろんもれなくミャンマーにもある。パイナップル、スイカ、パパイヤ、バナナは一年中、またこの時期ではマンゴー、マンゴスチン、ランブータン、ザボンなど。

 今回、マンダレー近郊のマンゴー農園を訪問した。マンダレーはマンゴーの産地らしい。最盛期はすぎていたのだが特別にマンゴーを食べさせていただいたが、実にうまかった。3種類のマンゴーの食べ比べをしたが、個別の銘柄名を忘れてしまったのと、ビルマ語の名称では記憶に残りにくいのも仕方がない。

農園では、マンゴの栽培方法、果実の収穫方法も実際に見せていただき、たいへん興味深いものがあった。ロンジーはいた若者がするするとマンゴーの木に登って果実をとる。慣れたものである。


 中国のミャンマー投資は基本的にエネルギー資源、鉱物資源といわれており、また最大の輸出アイテムはパイプラインによるタイ向けの天然ガスであるが、実際に現地にいってみてわかるのは、ミャンマーは農業国である、という事実である。

 豊富な農産品はコメやフルーツだけでなく、ごま、お茶、グリーン・アスパラガス、こんにゃく、しょうが、ターメリック(=ウコン)、などなど多数に及ぶ。沖縄産のウコン茶の材料は実はミャンマーから輸入したものも一部ある、と聞いたことがあるが、意外と日本人はすでに口にしているのかもしれない。

 しかしながら、ミャンマーという「国家ブランド」(state brand)には、現在の日本ではポジティブな響きとイメージがないのが、ビジネスの観点から見るとると残念といわざるをえない。

 また、マンゴーについていえば、フィリピンのセブ島のマンゴーといい勝負しているのだが、ロジスティクスの観点からいうと、フィリピンにくらべてミャンマーは日本から距離的に遠いのもデメリットの一つなのだ。

 とはいえ、農業という切り口からミャンマーや東南アジアをみる。これは重要なポイントだ。


ミャンマー再遊記 (5)につづく

                   


<ブログ内関連記事>

「ミャンマー再遊記」(2009年6月) 総目次

「三度目のミャンマー、三度目の正直」 総目次 および ミャンマー関連の参考文献案内(2010年3月)

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2009年6月24日水曜日

ミャンマー再遊記 (3) ミャンマー料理あれこれ・・・「油ギチギチ」にはワケがあった!




(油ギチギギチのカレーはうまい。だが・・・)

 ミャンマー料理はうまい、しかし食べすぎには注意! というのが、いきなりの結論である。

 ミャンマー料理といっても、多民族国家ミャンマー連邦のことであるから、料理のバラエティは実は思ったよりも広い。
 しかしなんといっても、ミャンマー料理を代表するものは、さまざまな種類のカレーだろう。
 いわゆる「油ギチギチのカレー」である。やっと久々に本場のミャンマー料理を食べることができて本当に幸せだ(*ブログの5月13日の記述を参照)。

 12年前にミャンマーに初めていった際は、ヤンゴンでクルマと運転手をチャーターして1週間かけて、ヤンゴンからマンダレーとの往復を行い、その間バゴー、ゴールデンロックで有名なチャイティーヨー、バガンなどを回ったのだが、ミャンマー人の運転手はなぜか外国人はミャンマー料理を食べないものと頭からきめてかかっていたようで、連れて行ってくれたのは中華料理だけだった。
 せっかくミャンマーにきているのだから「ミャンマー料理を食べてみたい」というと、運転手は喜んでミャンマー料理店に連れて行ってくれるようになった。
 その時初めて食べたのが、魚のカレーであった。そしてお茶の葉のラッペットウなどなど。
 しかし毎日食べていては胃腸がくたびれてしまうものだ。

 今回の投資ミッションのテーマが「食品産業」であったこともあり、また団長が無類の東南アジア好きでミャンマーには毎年必ず最低1回は行くという人であることもあずかってか、昼・夜二回の食事はほぼすべてがミャンマー料理という、参加者が日本人にしてはたいへん珍しい配慮を示してもらったのは本当に幸いだった。

 おかげでかなりの種類のミャンマー料理を実際に食べてみることができた。そしてまた参加メンバーがみな健啖ぶりを示してくれたのもありがたいことだった。うまい料理は、うまい、うまいといいいながら食べるにしくはないからだ。そしてまた多くの種類を試してみることもできる。
 各種の肉(チキン、ポーク、マトン)や魚、エビのカレー、モヒンガー(ミャンマー版にゅう麺)、シャン・カオスエ(シャン族の麺料理)、スープ、レモンの葉のサラダ・・・などなど。
 こうやって書いているだけでまた食べたくなってくるなあ。

 さてカレーに話をもどすが、一般にミャンマー・カレーといっているが、本当はカレーではないらしい。
 タイ料理のカレーとは根本的に異なり、唐辛子などのスパイスは使っていないマイルドな味である。また、タイ・カレーのような「ぶっかけ飯」スタイルではなく、カレーは器に入れて、ご飯とは別々に給仕される。
 ミャンマー・カレーの「調理手順は、まず肉や野菜、魚を鍋に入れて油と一緒に煮込み、調味料や香辛料を入れる。水分がなくなるまで煮詰めていくと、やがて油が煮物の表面を覆うように、浮きあがってくる。これを油戻し(シャービン)と邦訳している」(『ミャンマー情報事典』、アジアネットワーク編、ゑゐ文社、1997より引用)、という。
 「油ギチギチ」には理由があったのだ。

 なるほど、ミャンマー料理と油がきってもきれない関係にあることがわかる。ふつうのミャンマー人は、料理が油でギチギチしてないと食べた気がしないらしい。油に素材の味が滲み込んでいるのだから当然だろう。
 国産の良質なゴマ油なら健康に問題がないというが、マレーシアなどから輸入するパーム油の摂りすぎはカラダにはよくないらしい。これはタイでも問題になっていることだ。油の使いまわしがとくによくない。
 ミャンマー政府の輸出禁止リストに「ゴマ油」があることを今回はじめて知ったが、理由はここらへんにありそうだ。

 コメと食用油はミャンマー人にとっての、いわば生命線(ライフライン)であり、これらが十分かつ安価に供給されなくなったとき、いつ暴動になってもおかしくないというわけなのだ。だから、国内需要を上回る生産量がある場合しか、輸出が許可されないらしい。
 そしてまたコメの価格は、タイ米が形成する国際コメ相場価格よりも低く設定されていることも政権の安定に寄与しているという。どこの国でも「米騒動」だけは避けたいのが、政権担当者に一致したマインドセットであろう。

 ミャンマー料理をネタに書いてみたが、ふつうの日本人にとってはミャンマー料理の食べすぎは、食べ慣れないだけにカラダに悪いのはいうまでもない。
 実際、うまいから食べすぎているうちに案の定、私も旅の後半からお腹の調子が少し悪くなってきた。自分だけは例外だ、というのは思い上がりもはなはだしい、というわけだ。

 過ぎたるは及ばざるが如し。どう考えてもカラダにいいわけがない、しかしうまい・・
 う~ん、まさにハムレットの心境である。


ミャンマー再遊記 (4)につづく

                  


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2009年6月23日火曜日

ミャンマー再遊記 (2)-12年ぶりのヤンゴン国際空港は・・・




 2009年6月14日(日) 
 ◆バンコク国際空港からタイ航空にてヤンゴン国際空港へ(日記より)

 12年前は、関空からいきなりヤンゴン空港に降り立ったので、その落差には非常に驚くとともに、強く印象づけられたのであったが、今回は日本からの直行便はとうの昔に廃線になっていたおかげで、バンコク経由でTG303便(タイ航空)を利用、1時間強の早朝フライトでヤンゴンにやってきた。
 今回はマイレージ利用のため、ミッションの他のメンバーとは別行動になっている。マイレージの利用制限のためであろう、午後のバンコク発便がとれないので仕方なく早朝の便でくることになった。

 エコノミー席に座ったが、なぜか回りはやたらにお坊さんとインド人ばかりだった。オレンジ色の衣で、眉毛そっているからタイ人仏教僧が大半だが、タイとビルマの間ではお坊さんは頻繁に移動しているようだ。インド人と思ったのは、もしかしたらインド系ミャンマー人のビジネスマンたちであったかもしれない。
 バンコクからヤンゴンに入るとワンクッションあるので、カルチャーショック(?)は小さなものになる。

 ヤンゴン到着はタイ時間の午前9時(日本時間は11時)過ぎ、ミャンマーはタイよりもさらに30分早い時間帯なので、8時30分過ぎということになる。つまり日本との時差は2時間半。こういった微妙な差異も現地にいってみないとわからないものである。
 
 とにかく驚いたのは、空港ターミナルがまったく近代化された新しいものになっていることだ!
 空港の写真は絶対に撮影するなと、きつくいわれていたので、無用なトラブルを避けるために撮影はしていないが、新しいプノンペン空港(カンボジア)、ヴィエンチャン空港(ラオス)並みに整備されている。
 12年前の「木造平屋建て」のイメージを持っていた私には、いい意味での驚き以外の何者でもない。しかもイミグレーションはすべて女性職員になり、かなりスムーズに入国手続きが完了した。パソコンも装備されており、1997年とはまったく異なる状況になっていたのだ。国際的な玄関口である国際空港がキレイになったことは、たいへん喜ばしい。
 あとで聞いたところによると、新しいターミナルは2007年にオープン、最初は日本のODA援助で建設していたが、援助が凍結されたあとは自力で建設完了したという。ミャンマーもやるねー、と思わされたものである。
 なお、旧ターミナルには、マンダレーに移動する際、国内線のターミナルとしてはまだ現役であったことを知る。懐かしい思いをさせられたが、とにかく古色蒼然、失礼な話だが、ひとことでいえば後進国のものである・・・

 空港からホテルまではタクシーで移動することになるが、だいたいの相場はわかっているので、US$7でOKし、さっそくタクシーに乗る。ミャンマーは英国の植民地であったのにかかわらず、道路は右側通行である。にもかかわらず、タクシーだけでなく走っているクルマはほとんどが右ハンドルの日本車の中古だ(写真参照)。
 日本円はほとんど流通していないので、あらかじめ成田空港で1ドル札を大量に仕入れてからミャンマーにやってきた。米ドルが幅を利かせているのはベトナムと同じである。経済制裁されていても貿易の決済通貨は米ドル、これが国際経済の現実なんですな。
 ちなみに実勢レートは、US$1が1,000 kyat(チャット)である。また触れることもあると思うが、公定の為替レートと実勢レートが200倍ほども違い(*公定レートは US$1が 6 kyat)、歪みが大きい。ただし日常使うのは実勢レートなので問題はない。

 運転手はロンジー姿、ロンジーとはミャンマー独自の、筒状の巻スカートのことで、男性の場合はくるりと巻いて腰の前でしばる。東南アジアではミャンマー人しか着なくなっている。
 もう一人ミャンマー人のロンジー姿の同乗者が助手席に乗り込んできたが、東南アジアでは同乗者が何事もなく乗り込んでくることはよくあることなので、気にすることはない。
 その同乗者がやたらと英語で話しかけてくるので適当に会話するが、「景気が悪いねー」といいながらもニコニコしているのは、さすがミャンマー人である。「微笑みの国」というキャッチフレーズで有名になったタイ人よりも、ミャンマー人の方が微笑み度は高いような気がする。

 空港から市内までは約30分、景色は以前と同じだが、気持ち的に高層ビルが増えたような気がする。また、商品宣伝の看板がえらく増えたような気もする。
 しかしながら、クルマから見る限りまだまだロンジー姿の男性が圧倒的多数である。ジーパン姿もいるが思ったより少ない。市内散歩したらまた別の感想をもつだろう(*市内でもロンジー比率は9割以上にのぼることが、街歩きをしてみてわかった)。
 ヤンゴン市内でも、2008年春のサイクロン・ナルギスの被害が甚大であったことは報道で見ていたが、ヤンゴン市内ではもうその痕跡はほとんどないようであった(*のちほど、倒壊した巨木の捨て場を見ることができた)。

 朝の9時過ぎでもう炎天下ではあるが、托鉢するお坊さんを車中から多数見た。バンコクより托鉢の時間帯が長いのだろうか?炎天下を無帽、しかも裸足(!)で歩くのは戒律によるものとはいえ、かなりたいへんそうだ。
 9時半にはホテルに到着、シャングリラ系列の Traders Hotel Yangon は、さすが高級ホテルである。ミャンマーにいるという感じではない。従業員もよく教育されており、安心して滞在できそうだ。このホテルは12年前にはなかった。この12年間、停滞していたと言われていたわりには意外と発展していた。

 しかも朝早いからか(事前に旅行代理店の現地事務所から早く着くことは連絡してもらってあった)、実にいい部屋を割り当ててもらった!スーレー・パゴダを部屋から見れるナイスビューである!(*これを現地では「パゴダ・ビュー」(pagoda view)というらしい)。ここに二日間滞在できるのは実にラッキーである。
 
 昼食を兼ねて、12時前にホテルをでて市内を歩き回ってみることにした。前回12年前も市内は歩いているのだが、あまり記憶に残っていないようで、見るものすべてが興味深い。
 スーレーパゴダ前(*写真にある黄金のパゴダ。ヤンゴン市内のランドマークである)では、道案内したがる現地人が現れてやたら英語で話しかけてきて閉口する。適当にあしらって、巻くこととする。
 歩いていると今度はインド系のミャンマー人から声をかけられた。こいつも適当にいなして巻こうと思ったのだが、話していると日本語がえらく流暢なので、ミャンマー料理店「203」に案内してもらうこととした。
 この店は有名店らしいが、路地裏で看板も出してないので見つけづらい。まあそういう意味ではガイドとして働いてもらうこととしよう。なんせまったく地理がわからないのだから(*ビルマ語は日本語と語順が同じなので、ミャンマー人にとって日本語は理解しやすいらしい)

 すごく狭い店構えなので二階にいく。私は魚のカレー、彼は小エビのカレーを注文、二人分でUS$4弱であった。USドルベースでみたヤンゴンの物価は正直言ってバンコクと比べて安くない。バンコクならフードコートで、一人US$1~1.5で納まるはずである。
 まあどうせただ働きのつもりはないのだろう、口利き料とるのだろうと知りつつ、勧められるままロンジーを買いにアウンサン・ボージョー・マーケットへ。戦前からあるという市場(いちば)である。雨期で高温多湿のミャンマーでは、ジーパンではあまりにも暑すぎるのでロンジーは一着くらいほしいものだ。
 結局、グリーンのチェック柄のロンジー既製品を、US$8で購入。高いのか安いのか相場をしらないのでよくわからない。どうせ日本では使用しないのだから、安くいので使い捨てでかまわないのだが・・(*その後、一回手洗いしてみたが色落ちはまったくなかったので、粗悪品ではなさそうだった。しかし値段はもう少し安いかもしれない)。
 ミャンマー人の彼がいうには、最近ミャンマーではサッカーのプロリーグができて、日曜日の午後4時からヤンゴン中央駅前のスタジアムで試合があるから一緒に行こう、という。しかし、これ以上一緒に行動していては、どこでまたぼられるかもわからないので、適当なところで別れることとにしてホテルに戻る。

 ホテルに戻ってプールで30分くらい泳いだらくたびれた。
 部屋に戻ってインターネット、そうこうしているうちに夕立となって大雨(=シャワー)。
 雨季はバンコクもヤンゴンも変わりはない・・・

 そしてこの日から1週間、私は最初から最後までロンジーで過ごすことにした。「郷に入りては郷に従え」、とにかく快適、の一語に尽きるのだ。Mr.ロンジーの1週間である。

////////////////////////////////////////////////////////////

 以上が、6月14日(日)のヤンゴン到着その日の日記を加筆修正したものである。
 新鮮な驚きを記録しておきたいので、またライブ感を出したいので、あえて日記を再録することとした。

 しかし、いろいろ話をきいて知識が増すとともに、いろんなことがわかってきた。

 経済発展は、実のところ経済格差の表れともいえるのだ。ヤンゴンの人口の数パーセントの富裕層むけのビジネスと、一般庶民レベルの生活レベルの大きな格差が存在し、格差が以前より拡大しているらしい。
 しかし、餓死者はでない国ではある。2008年のサイクロン・ナルギスの大被害でデルタ地帯の穀倉地帯が大打撃を受けたにもかかわらず、その年のコメの収穫は豊作であったという事実もあり、主食のコメと油が安価で供給さえれている限り、民衆暴動にはつながらない、という・・・・
 詳しくはまた追い追い触れてゆくこととしたい。


ミャンマー再遊記(3)に続く



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2009年6月22日月曜日

ミャンマー再遊記(1)-通信事情 など




 これから「ミャンマー再遊記」と題して、12年ぶりの本格的訪問での見聞と考察をトピック形式で記していきたいと思う。
 「再遊」記などと題したが、今回は物見遊山の旅ではない。国際機関 日本アセアンセンター(東南アジア諸国連合貿易投資観光促進センター)主催の「投資ミッション」のメンバーとしてミャンマーを訪れたのである。

 期間は、2009年6月14日から20日までの6日間だったが、私はバンコク立ち寄りのため、また溜まりに溜まっているマイレージ消化のためもあり、ミッションのメンバーとは別行動で、ミャンマーには早く入り、一日遅く帰国することとなった。マイレージ利用にともなうさまざまな制限のためである。

 なお、ミャンマーは2006年に日本アセアンセンターに加盟し、投資ミッション派遣は今回が3回目だという。投資ミッションだと入国ビザが比較的簡単におりるのはありがたい。ただし入国日から2週間のみ。
 今回は、「農業・食品産業関連」がテーマということであったが、たしかにミャンマーは基本的に農業国であり、非常にターゲットがよく絞り込まれたミッションであった。
 私自身は、だいぶ昔の経営コンサルタント時代に、食品加工業、飲食業には若干タッチしたことがある程度で、とても専門家とはいえないのだが、まあ「コンサルタント」という肩書での参加が許されたのは、豚インフルエンザのため海外出張禁止にしている大企業が多く、参加者が比較的少なかったためかもしれない。
 ミッションは、ヤンゴンからマンダレーへは国内航空の Air Bagan で、マンダレーからヤンゴンまでは途中新首都ネーピードーに立ち寄るため、陸路をバスで戻るという、かなりの強行軍であった。これに加えて、旨いので食べ過ぎたミャンマー料理の油がたたって、帰国前からすでに消耗、帰国したらこれがまた梅雨まっただ中の高温多湿の日本でさらに疲弊、というのが実態なのだった・・・

 このブログに書いた文責はすべて私にあり、とくにミャンマー現地のミャンマー人の方々に無用な迷惑をかけないために、情報源についてはいっさい特定しないこととする。もちろん、人の話を鵜呑みにするわけにはいかないので、あくまでの私というフィルターを濾過した情報のみ記す。
 世の中のすべてについてあてはまるが、ミャンマーについても百人百様の見方があり、あくまでも「私の、私による、私のための」情報整理であることは、特に断っておきたい。

 ミャンマーとビルマの関係については以下の考え方に従う。国名についてはミャンマー連邦、多民族国家である国民はミャンマー人、料理も広義のミャンマー料理、ただしビルマ語については言語学的には「ビルマ・チベット語族」の一つであり、事実上の公用語であるからミャンマー語とはせず、ビルマ語と表記する。

 ではまず何よりも、滞在期間中まったくブログを更新アップロードできなかった理由から始めるのが一番だと思うので、ミャンマーの通信事情について、自分が体験した範囲内で記しておきたい。
 ミャンマー最新情報については、乞うご期待!?、なんてブログに書いたが、すいません、それが不可能であったことは身をもって体験いたしました。しかし、転んでもたたでは起きませんよ!


(1) 通信状況 

 ヤンゴンのホテルではインターネット接続可能だということなので、できればヤンゴンからブログにアップしてみたいと思ったが、残念ながらブログはアクセス拒否されて、何度試みても表示できない。Gmail 自体はアクセス可能なのだが、なぜ Google blog はダメなのか・・・
 ヤンゴンで宿泊していたのは、Traders Hotel Yangon というシャングリラホテル(シンガポール)系列のヤンゴンでは高級ホテルで、インターネットは部屋で Wi-Fi(無線LAN)が無料というのは大変ありがたいのだが、アクセス制限は免れ得ないようだ。
 首都は人工都市ネーピードーだが、もちろん現在でもヤンゴンが実質的な中心都市である。ちなみに現在は雨期なので、観光はオフシーズン、ホテルも比較的安いようだ。
 
 国際ローミングは不可能なので、国際対応電話であっても日本からの通話や携帯メールは使えないとのことだ、という話を事前にきいていたが、やはり「圏外」表示が出て、通話不可能だった。
 困ったことだな。これで国際ビジネスやれ、というのは無理があるのではないかな?
 もちろん、現地でミャンマー国内でのみ使用可能なSIMカードを購入し、ミャンマー国内のみで使用可能な携帯番号をもらえば、国内でのみ通話可能であるとのことだ。
 絶対に信頼できる担当者に権限委譲して、現地において完全にまかせる、これ以外の方法はムリだろう。国際ローミングが不可能な以上、バンコクや東京から遠隔操作することはできないと考えておいたほうがよい。輸出入でも、現地法人つくってのビジネスでも、通信に制限があるようでは、ビジネスインフラに不備があるといっても過言ではない。

 インターネットについては先に述べたとおりだが、なぜか Google mail は、回線さえつながっていれば、ほぼリアルタイムでの通信が可能である。日本やバンコクとの通信に使用した。メールでやり取りした方々は気が付いていないだろうが・・・
 通信がつながる、ということがどれほどありがたいことか、改めて気がつかされた。
 なぜなら回線が切れることもまた多いからだ。
 原因は主に停電の多さである。頻繁に停電するのである。高級ホテルなどは自家発電装置を備えているから、比較的早期に復旧するが、そうでないと停電は長く続くようである。
 とくに雨期の夕方に降る豪雨の際、また落雷などあると簡単に停電する。じっさいに、ヤンゴンの高級ホテル滞在中も何度も停電があり、インターネットもつながらないことが多く、本当に困らされた。ものの本によると、40年前のバンコクもそうだったらしいが・・
 今回は久々に旅行用変圧器を持参したのは正解だった。これとパソコン専用のタップコードがあれば、停電があろうと落雷があろうと大丈夫(なハズ)である。

 アクセス不能なウェブサイトも多数ある。 "Access has been denied" という表示がでてなんどやってもつながらない。私のブログはなぜかだめであった(写真参照)。
 これは書いた内容のためというより、Google側の事情あるいは政権がブロックしているのであろう。Irraawaddy News など政権にとって不都合な内容のウェブサイトも、当然のことながらアクセス不能であった。
 何らかのキーワードが”有害ウェブサイト”排除のための自動フィルタリング・ソフトウェアに引っ掛かっていることも考えられる。これは2006年9月無血クーデタ後の戒厳令下タイ王国の軍事政権下でも体験しているので不思議でもなんでもない。肯定するわけではないが、シンガポールでも、中国でもやっていることである。
 しかし不思議なことに、BBCやYahoo! News などはパソコンからアクセス可能であったし、ホテルのTVではBBCもCNNも視聴可能であった。金持ちや権力者は情報にアクセスできるということだろう。イラン情勢はBBCとCNNでみれたので手に取るように把握していたが、ミャンマーのニュースの場合は、実際に遭遇してないのいでわからない。

 とまあ、長らくブログをアップできなかった事情について説明した。臨場感がなくなったのは仕方がないが、あらためて頭の中を整理しながら、これからいくつかのトピックによってミャンマー最新事情についてまとめていきたいと思う。今度こそ本当に、乞うご期待!?


ミャンマー再遊記-(2)につづく
                                
         

<ブログ内関連記事>

「ミャンマー再遊記」(2009年6月) 総目次

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2009年6月14日日曜日

タイのあれこれ (2)-オースアン(タイ料理のひとつ)





 タイ料理は実に旨い。

 日本人のあいだでは、とくにパクチー(香菜、コリアンダー)にかんする好き嫌いが大きいようだが、タイ料理は、世界の美味の中でも指折りのものだと思う。

 なぜなら、タイ料理は、辛い・すっぱい・甘いの味の三要素を両立、いや三立させなければならないので、思っている以上に奥が深いのである。宮廷料理が一般大衆化したということが理由の一つとされている。


 よく知られているものではなんといってもトム・ヤム・クーンであろう。クーンとはタイ語でエビのこと、エビの激辛スープのことである。唐辛子で真っ赤になった色彩と激辛の文字通りのホット(!)スープであり、疲れたときに汗かきながら食べると、不思議にパワーがわいてくる。しょうがやキノコなど多数の野菜から抽出したスープであり、カラダにいいのは当然なのだ。

 しかし私の一押しのスープは、トム・カー・ガイである。これは同じく野菜スープだが、エビではなくチキン(タイ語でガイ)を使い、ココナッツミルクでまとめたクリーミーな白いスープで上品な味わいがある。こちらはそれほど辛くないので、素材の味をよく味わうことができる。タイ料理があまり好きでない人にもおすすめである。

 サラダでは、春雨系の激辛サラダであるヤム・ウンセンイカのピリ辛サラダ生エビのピリ辛サラダなど、海鮮系サラダが旨い。

 また、野菜中心でいくなら、なんといってっもタイの東北地方であるイサーン料理のソムタムである。これは青いパパイヤのサラダで、味付けはやはり辛い。熟れたパパイヤはオレンジ色になるが、熟れる前は硬くて瓜のようなもので、これを細切りにして調味料と和えたものである。

 イーサーン料理はいまバンコクでは人気で、あちこちに店ができている。なんといっても旨いのがガイヤーン、これは独特のタレをつけて炭火で焼いた焼き鳥である。手羽のまま焼いたものを切り分けて食べる。これは実に旨い。ビールにも実によく合う。

 さて、私がもっとも好きなタイ料理は、表題にもあげたオースアンである(写真参照)。

 オースアンとは、カキ(=オイスター)の卵とじのこと。火を通した小粒のカキを卵とじにして、とろみをつけてから、炒めたもやしの上に乗せて、鉄板にのせたまま給仕してくる。できたけのほやほやの湯気がでているオースアンをビール飲みながら食べるのは、実に至福の瞬間である。

 日本のカキは大粒のものが多いので、日本で再現して調理するのは断念している。バンコクに来てこれを食べるのが何よりの楽しみである。

 とまあ、書き始めると切りがないので、ここらへんでいったんやめます。

 料理は食べてよし、作ってよし。されど、タイ料理にかんしては、自分で作るより、評判の店でうまいものを食べることに徹したい。しかも日本ではなくタイにおいて。


(3)に続く(配信未定)







PS 写真を大判に変えたほか、<ブログ内関連記事>をあらたに加えた。 (2014年1月28日)



<ブログ内関連記事>

「タイのあれこれ」 全26回+番外編 (随時増補中)                   
     

タイのあれこれ (12) カオ・マン・ガイ(タイ料理) vs. 海南鶏飯(シンガポール料理)・・・

タイのあれこれ(5)-ドイツ風ビアガーデン

タイのあれこれ(9)-華人系タイ人の"キンジェー"(齋)について

イサーン料理について-タイのあれこれ(番外編)

仏歴2553年、「ラオス新年会」に参加してきた(2010年4月10日)-ビア・ラオとラオス料理を堪能

『タイ食材図鑑』(アライドコーポレーション、2012)-タイ料理をつくって食べる人は必携の図鑑。もちろん、食べるだけの人も見て読んで楽しい図鑑





end

タイのあれこれ (1)-タイマッサージ





             
 タイのあれこれについて随想風に記しておきたいと思う。

 いまこれをやっておかないとタイにかんするあれこれが、記憶の底に沈んでしまう恐れがあるからね。 バンコクからの配信です。

 まず皮切りは、タイマッサージから。

 世界中のマッサージはいろいろ試してみた。日本の指圧はもとより、インドではアーユルヴェーダのオイルマッサージ、中国系の経絡マッサージ、スウェーデン・マッサージ、韓国のあかすりマッサージ、トルコ風呂ハンマームのあかすりマッサージ、ハンガリーの温泉マッサージなどなど。

 しかしなんといっても、自分にとってはタイマッサージが世界最高である! これが結論だ。

 バンコクに住んでいた頃は、週一回は必ずタイマッサージに通っていた。いきつけの店で、いつも同じおばちゃんを指名してマッサージを頼んでいる。

 今回2ヶ月半ぶりにいったら、「最近こないねー」と小言をいわれる。タイ経済が低迷しており、とくにイメージ悪化で観光客が減っているのが観光サービス業にはダメージになっているようだ。

 タイマッサージは2時間が基本である。時間がないから1時間、というのも可能だが、マッサージをする側からはあまり喜ばれない。タイマッサージにはきちんとした理論体系があり、できるだけ心臓から遠い足先かからマッサージをはじめるというセオリーになっているからだ。これがワット・ポー・スタイルである。タイマッサージはワット(=お寺)で始まった仏教系だ。

 タイマッサージは「二人ヨーガ」といわれることもある。かなりアクロバティックな体位をとらされるので、初めて体験する人はかなり怖がっているようだが、慣れればこれが快感になる。

 しかし、「二人ヨーガ」といわれるごとく、マッサージを受ける側とマッサージをする側の呼吸が合っていないと、マッサージの効果は最高度に発揮されない。いわば相性といってよい。だから、いきつけの店でマッサージ担当者を指名することが大事なのだ。

 料金は現在の相場はだいたいB500(1バーツは3.3円で計算すればよい)、日本で2時間のタイマッサージを受けると、なんと1万円もとられるので、それにくらべるとチップ入れても2,000円以下というのはめちゃくちゃ安い。

 日本ではなかなかタイマッサージ受けに行く気にならないのだが、それはサービス価格の面も大きい。

 タイではスパ(SPA)もすばらしい。日本ではいわゆる女性向けのエステであるが、別に男性がスパにいっても何の問題もない。マッサージだけなら、専門のタイマッサージ店も問題ないが、ボディ・スクラブ(Body scrub)にかんしては、トロピカルフルーツをカラダに摺りこんでもらえるので、これはタイのみならず、東南アジアならではの贅沢な楽しみである。 

 価格ももちろん日本よりははるかに安く、セットでも1万円から2万円のオーダーで十二分に堪能できるのである。

 こういう楽しみがあるから、タイで仕事するのは困難も多いが、楽しみも多い。仕事がなければなおさら、だ。


(2)に続く








PS 改行を増やし読みやすくした。一部加筆した。あらたに<ブログ内関連記事>を付け加えた。 (2014年1月28日)


<ブログ内関連記事>

「タイのあれこれ」 全26回+番外編 (随時増補中)                   
     

タイのスパ(spa) へご案内-タイのヒーリング・ミュージックを BGM に

タイのあれこれ (16) ワットはアミューズメントパーク

タイのあれこれ (26) タイ好きなら絶対に必携のサブカル写真集 Very Thai (とってもタイ)

タイのあれこれ (20) BITECという展示会場-タイ人の行動パターンと仕事ぶりについて ・・展示会場にマッサージのサービスがあるのはありがたい!






end

2009年6月13日土曜日

雨季のバンコクより




 昨日からバンコクである。
 バンコクにいくのも、海外に出るのも、飛行機にのるのも、2ヵ月半ぶりだ。

 2か月半ぶりのバンコクだが、すでに暑期は終わり、季節は雨期に入っている。3月の終わりから4月の前半までがものすごく暑いのだ。日本も梅雨入りしているが、この期間だけは日本もタイも Rainy Season となる。
 しかし、タイをはじめ東南アジアの雨季は、日本とは大きく違う。だいたい夕方が多いが、みるみるうちに黒雲が立ち上がってきて、ものすごい勢いで雨を降らせる。英語だと rain ではなく shower である。
 降り方は半端ではないが、降り終わった後は放射冷却現象のおかげで、冷房がなくてもひんやりとした状態になるのはありがたい。ただし降り方が半端だとジメジメしたいやなかんじになのは悩ましい。

 昨日も空港から市内に入る際、一人だと高速バスのほうがB150と安いので(タクシーだとだいたいB250~300)利用したが、市街に入るころには空が真っ暗になり、雨になる前に着きますようにと願ったがダメだった。
 ISETAN前で交通渋滞につかまり(写真参照)--なんせ金曜日の夕方である!--今回の宿泊先のあるナーナーにつくまでにそれから30分もかかったのでった。

 仕事なしでバンコクにいるのは最高、とまではいわないが、気楽ではある。
 今回は、日曜日から投資ミッションでミャンマー入りすることにしているので、中継地点であるバンコクに立ち寄ったという次第。単なる息抜きの滞在である。
 12年前にミャンマーいったときは、関空⇔ヤンゴンのANAの直行便があった(!)のだが、その路線はとうの昔に廃線になっている。その当時でさえ、いわゆる「ビルキチ」のおじいさんたちが少数搭乗していただけだったから、不採算路線の最たるものである。
 もはや「ビルキチ」といっても死語と化していよう。ビルキチとはビルマ・キチガイの略、大東亜戦争のビルマ戦線で生き残った皇軍兵士たちが、戦場となりながらもやさしく受け止めてくれたビルマとビルマ人に対して限りない愛を注いできた、という昔話である。
 今回はバンコクから1時間程度のフライトでヤンゴンに向かう。

 まあバンコクにかんしては、特に書くことないんですねー。昨日は、現地に長期滞在している東南アジア経済専門の、日本の大学の先生と食事しながら情報交換もしたが、しいていえば、今年の3月に大量に日本人駐在者とその家族が帰国を余儀なくされたので、日本人相手のビジネス、とくにエステなどの、いわゆる「駐妻」(=駐在員の妻の略語スラング)相手のビジネスがかなり厳しいものとなっている、といったくらいだろうか。

 基本的にバンコクは資本主義化された大都市なので、表面的にみるだけなら日本の大都市とあまり変わるところはない。
 とはいえ、ありとあらゆるものを飲み込んでゆくブラックホールのような都市である。ありとあらゆる人種、民族のごった煮のようなバンコクという都市は、知れば知るほどよくわからなくなってゆく。
 東と西の中間地点にあるバンコクは、かつては欧州便の中継給油地であった。現在でも、東アジアと南アジア、西アジアを人的に結ぶ中間地帯である。
 今回滞在しているナーナーはアラブ人街のど真ん中にあり、アラビア文字が幅をきかせている面白いエリアである。窓を開けておくと、イスラームのお祈りであるアザーン朗誦が聞こえてくる。
 また、いながらにして各種エスニック料理を食べられるエリアである。エジプト料理、レバノン料理を食べたのは、以前のことではあるが、ここバンコクがはじめてであった。

 再来週に「赤組」による大規模な祭りが予定されているらしい。「赤組」とはクーデタで亡命を余儀なくされた元首相タクシン派のことである。今回の滞在は明日朝までなので、そのイベントには遭遇できないのは幸か不幸か。昨年秋の「黄色組」による空港封鎖にはえらい苦労をさせられたので、なんともいえない。
 ブタ・インフルエンザ患者が増えてきたバンコクだが、本当にこわいのは東南アジアが発生地となると予想されている鳥インフルエンザのほうである。狂犬病や、デング熱などの旧来からある伝染病のほうを気にかけなくてはならない。日本での騒ぎぶりは理解不能である。
 
 ヤンゴンのホテルではインターネット接続可能だということなので、できればヤンゴンからブログにアップしてみたい。
 なお、国際ローミングは不可能なので、国際対応電話であっても日本からの通話や携帯メールは使えないとのことだ。
 ミャンマー最新情報については、乞うご期待!?

        


              

2009年6月11日木曜日

連続ドラマ『夜光の階段』-松本清張生誕100年


           
 テレビ朝日系列の連続ドラマでいま松本清張原作の『夜光の階段』(木曜午後9時)をやっている。
 ドラマはすでに次回が最終回だが、主人公の野心家の美容師を演じる藤木直人が、じりじりと追い詰められていくサスペンスドラマである。相手役の女優陣が豪華キャストなので、なかなか楽しめる。

 人間存在の暗い側面、悪の側面から目をそらすことなく、徹底的に見つめ、書きつづけてきた松本清張は、死後16年たっても、まったく古びていない。設定さえ少し変更すれば、いままさにそこで起こってもおかしくない話が、いくらでも掘り起こすことができる。実際、今回のドラマ化も3回目らしい。
 視聴率の面からいえば、毎週10%前後と苦戦しているようだが、原因の一つは原作を読まなくても最初から結論がほぼ見えてしまっていることにあるだろう。つまり主人公が頂点に向けて昇りつつある階段は、同時に破滅への階段でもあるからだ。先読みができてしまう人は、途中で見るのをやめてしまう可能性が大きい。

 あとは役者の演技次第だが、同じく松本清張原作の『黒皮の手帖』の米倉涼子とまではいかないが、藤木直人はかなりはまり役だし、女優陣ではベテランの室井滋はいうまでもなく、木村佳乃の意外に(!)高い演技力は、男としては息苦しさを感じさせるほどのもので、男性主人公への感情移入さえ呼び起こすものがあった。

 ドラマの質の高さと視聴率は残念ながら、必ずしも相関関係にはない。視聴率は、あくまでも同じ時間帯の他局の番組との視聴者争奪戦であるため相対評価でしかないのだが、同時進行中の他の連続ドラマとは視聴率が絶対評価として比較対象となるという性格をもつ。限られたパイ(=視聴者)をめぐる競争である以上仕方がない。DVD化したら売れるだろう。

 いわゆる辛口評論家の佐高信は、松本清張(1909-1992)と司馬遼太郎(1923-1996)をいつも対比してきた。

 「司馬遼太郎など愛読書にしている経営者はダメだ、清張を読むようない経営者でないと信用するな」なんてことを、以前読んだ記憶がある(・・記憶不鮮明ゆえ正確さに欠く恐れあり、悪しからず)。佐高信は、10年前の金融危機の頃はいろいろ読んだが、いまでも評論家として健在かどうか。

 たしかに司馬遼太郎は、一般読者向けの新聞連載が多く、ひたすら人間性の善なる面のみ描こうとしていたキライがある。たしかに、司馬遼太郎との比較との比較は意味がある。

 松本清張は共産党寄りであったことも経営者が忌み嫌った理由の一つかもしれない。

 以前、仕事でロシアにいったとき、通訳を介して行動をともにしたロシア人と話したとき、ロシア文学の話になって、私の発言に対しそのロシア人は、松本清張を愛読している、という答えが返ってきた。 え、ロシアで松本清張!? 同行したベテラン通訳の方に聞くと、松本清張はかなり以前、ソ連時代からからロシア語に翻訳されているようである。松本清張は人間性に関する普遍性のあるテーマを描き続けた作家だといえる一つの例証だろう。

 松本清張は、人間が逃れることのできない悪の面を徹底的に追及して描いてきたといえる。どろどろとした人間の情念、自らの野心につぶされてゆく人間、国際的な大規模な陰謀に巻き込まれる人間などなど・・・現代ものも、歴史ものも、エンターテインメントとして一級品である。

 あえて極端な比較をすれば、ロシア文学でいえば、司馬遼太郎がトルストイだとすれば、松本清張はドストエフスキーであろうか。
  

 ともに先の大戦においては陸軍に徴兵され苦労しているとはいえ、松本清張は学歴的には小学校卒業、印刷工としてかなりの辛酸をなめてきた人生は、東京外語(現 東京外国語大学)の蒙古語科(モンゴル語科)を卒業して、戦後産経新聞の文化部記者となった司馬遼太郎とは根本的に異なる。

 松本清張には、世の中に対する怨念、ルサンチマンのようなものを感じるのは私だけではあるまい。

 司馬遼太郎はたしかに「昭和の語り部」とはいえるだろう。しかしあくまでも歴史小説作家であって、歴史家ではない。「司馬史観」などと無批判に称揚する人たちが多いが、私は賛成しかねる。ただし、『街道をゆく』シリーズなどの各種歴史エッセイはたいへん読みごたえのあるものが多いので愛読してきた。徹底的に取材し、徹底的に文献調査もやる人だっただけに、小説化する以前の素材は信頼性が高いのである。

 いずれにせよ、高度成長期日本にはもっともフィットした歴史家であった。「昇り坂」だけを描いた人だった、といえよう。


 司馬遼太郎の代表作の一つである『坂の上の雲』(文春文庫)は現在NHKでドラマ化をすすめており、私もかなり以前に読んで好きな作品だが、批判もまた多いのは当然である。

 「坂の上の雲」をつかもうとひたすら登ったら、そこが絶頂で、あとは下りあるのみ、これが日露戦争後の日本であった、と司馬遼太郎は暗示しているのだが、結局彼は「下り坂」の歴史からはひたすら逃げて逃げて、最後まで逃げまくった。ノモンハン事件は徹底的に取材しながら、結局小説化できなかった。

 今後まちがいなく「下り坂」をゆく衰退する日本で、いわゆる「司馬史観」に基づいて説教を垂れるオヤジ連中は正直言って美しくない。すでに「下り坂」なのだから、衰退しているという事実を、無理せず受け止めなければならないのだ。

 むしろ、いかにきれいに老いていくか、といった女性論のほうが私には面白く感じられる。つまり「衰退の作法」こそ、これから重要になるのだ。

 大英帝国のようにうまく衰退していきたい。
                      
         




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2009年6月10日水曜日

イエズス会士ヴァリニャーノの布教戦略-異文化への「創造的適応」




 ビジネスマンとして日本で30年以上を過ごしたイタリア人ヴィットリオ・ヴォルピ(Vittorio Volpi)の、イタリア人向け著書2冊を続けて読了した。  
 
 『巡察師ヴァリニャーノと日本』(原田和夫訳、一藝社、2008) 『賢者の「営業力」-日本進出の成功例ヴァリニャーノの教え-』(大上順一訳、PHP研究所、2006)である。それぞれオリジナルのタイトルは、『IL VISITATORE』(2004)、『MARKETING MANAGEMENT: Come conquistare un mercato internazionale. Le straordinarie lezioni di Alessandro Valignano, gesuita italiano del Cinquecento』(2005)。  

 前者の『巡察師』は、巡察師ヴァリニャーノの生涯を、主に日本布教にかかわることに絞って、イタリア人読者に紹介した本。  

 後者の『賢者』は、ヴォルピ氏のビジネス経験をもとに、ヴァリニャーノの手法を異文化ビジネスの方法論として、いかにすぐれたものであるかを、イタリアの一般読者向けに書いた本。  
 
 前者の内容は、先に紹介した若桑みどりの『クアトロ・ラガッツィ』の叙述のほうが、ヴァリニャーノの存在を生き生きと紹介しているので、正直言ってあまり新鮮味がなかったが、もともとの執筆意図がイタリア人向けの日本紹介という性格の本であるので、その点は割り引いて読む必要があろう。  


著者のヴォルピ氏は日本通のイタリア人ビジネスマン

 日本通のヨーロッパ人ビジネスマンの日本知識の確かさは、かなりのものがある。友人にフォスコ・マライーニがいたことでも大きな力となったことだろう。むしろ翻訳者の日本史にかんする知識不足がやや散見されたが、ささいな間違いを訂正しない編集者にも責任がある。   

 Wikipedia でみると、ヴァリニャーノの記述は日本語版の方がイタリア語版より長いのは、イタリアでの認知度がやや低いことを意味しているのだろうか。  

 海外で活躍しながら日本では知られていない日本人がいるが、ヴァリニャーノはこの反対のケースのようだ。著者の問題意識は、この知られざるイタリア人をイタリアにあらためて紹介したいということにあった。  


ヴァリリャーノ布教方針はローカリゼーション(現地化)のさきがけ

 イエズス会本部から34歳にして全権委譲されたヴァリニャーノは、アフリカから日本に至るまでの地域を「巡察」する責任権限を与えられていた。

 もともとザビエルのこlとを知って日本で布教したいという熱烈な思いから出発したヴァリニャーノは、結局日本には3度にわたり滞在し、日本布教の黄金期から黄昏の予感を感じる時期までを日本にかかわったことになる。  

 ナポリ近郊に生まれたヴァリニャーノは、日本にくるまでにすでに、パドヴァ、ヴェネツィア、ローマ、スペイン、ポルトガル、モザンピーク、インド、マラッカ、マカオと異文化を豊富に体験していた。この経験の上にたったヴァリニャーノのアプローチが画期的だったことは、著者自身のコトバを借りれば以下のようになる。

原始キリスト教のモデルに倣い、布教しようとする土地の文化を尊重するという健全な教理に基づいたメソッドは、すぐさま予想もしなかった成功を得た。しかし同時に、イエズス会の内外の多くの人によって反対され、アジアでまたとない布教の機会を逃す原因となった。有効で正統(オーソドックス)なアプローチとして認められ、公式に承認を受けるために、この彼の教えは、20世紀の後半の第二バチカン公会議まで、実に400年近い歳月を待たねばならなかったのである」 (『巡察師』P.68~69)。

 ヨーロッパで発展したキリスト教であるが、ヨーロッパ的要素をそぎ落とした原始キリスト教の精神を、ユダヤキリスト教的な伝統がまったくない日本や中国といった高度文明の異文化に移植するには、キリスト教の原理原則を曲げることなく、その土地の文化を内在的に理解し、自らを適応させ、その上で教えを無理なく伝えるべきだ、とということでえある。

 いわば、「現場発の方法論」であるといえよう。ヴァリニャーノの意義は、現場で苦労してきた宣教師たちの実践に「理論づけ」をし、布教の「方法論として体系化」したことに意義がある、といえる。    

 ヴァリニャーノが体系化した方法論のエッセンスは、以下のとおりである。

現地語に習熟、現地の文化と風習を学んで適応することから始める
現地に大幅な権限委譲を行い、かつ現地人の担当者を育成する
●将来、現地の統轄をまかせることのできる現地人責任者を育成する教育を現地で行う

 海外現地進出にあたっての心得そのものではないか。そのままビジネスに応用できるメソッドである。これを400年前に実践から導き出したのは、すぐれた頭脳による知的財産であるといえよう。 

 中国では、ヴァリニャーノの弟子であるマッテーオ・リッチが、徹底的に中国語をマスターし、文人たちと幅広く交友することから始めたのは、メソッドの忠実な実行者であったことを示している。
 
 しかしながら、現在では「インカルチュレーション」(inculturation)として公認されているこのメソッド最終的にローマ教皇庁では否定され、中国布教も失敗に終わることとなった。    

 日本の布教が結局失敗に終わった原因の一つが、スペインのフランシスコ会士たちが、日本の現状を無視して、自分たちのやり方をダイレクトに押しつけようとしたこともあったようだ。
 
 若桑みどりの前掲書によれば、秀吉はフランシスコ会士のことを「蓑虫(みのむし)」といって軽蔑したらしいが、たしかに言い得て妙である。

 清貧も文化を異にすると、まったく理解されない、という好例である。もちろん信長・秀吉の時代は、いわば日本版バロックのような豪華絢爛な時代であったから、裸足できたない修道服をまとったフランシスカンがあの時代の日本にいたということ自体、なかなか想像しにくい。

 南蛮屏風に描かれたのはイエズス会士のみなので、フランシスコ会士の画像は見たことがない。 もしあれば面白いのだが。 


異文化でビジネスをするという実践(プラクティス)

 異文化でビジネスをするには、まずその現地の文化をよく理解して、できれば現地語も学んで、というのは現在の日本でも常識になっているはずだが、必ずしもそうでないことは、アメリカでもタイでも多数目撃してきた。  
 
 海外の現地企業では、日本人が日本人だけで固まり、日本語のできる人間に「おんぶにだっこ」の状態になる。
 
 日本にある外資系企業もまた、バナナと呼ばれる日本人が幅をきかしている。その心は、見た目は黄色いが、中身は白い、ということ。 英語はできても実務はうとい。これではいつまでたっても、本当の成果は上がらないわけである

 理論というものは、言うは易く行うは難し。実行するに当たっては、それなりのノウハウが必要になるが、これは教科書だけで学ぶことは不可能である。実践の場で鍛えられて初めて自分のもののなるという性格をもつもののなのだ。






PS 読みやすくするために改行を増やし、小見出しをあらたに加えた。「インカルチュレーション」(inculturation)にかんする加筆と<関連サイト>における説明を加えた。 (2014年2月5日)


<関連サイト>

「インカルチュレーション」(inculturation) wikipedia英語版(日本語版はない)
・・以下のように定義がされている。 "Inculturation is a term used in Christianity, especially in the Roman Catholic Church, referring to the adaptation of the way Church teachings are presented to non-Christian cultures, and to the influence of those cultures on the evolution of these teachings." (「インカルチュレーション」とはキリスト教、とくにカトリックで使用される用語で、教会の教えを非キリスト教文化に適応させキリスト教の教えの進化に非キリスト教文化の影響させる方法を指している)。 マッテーオ・リッチの中国布教において「中国化」が角であるとして、のちに「典礼問題」としてバチカンで大問題になったことが説明されている。なお、日本のカトリック作家・遠藤周作の生涯のテーマは「インカルチュレーション」であったといえるかもしれない





<ブログ内関連記事>

異文化マーケティングと布教

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)
・・日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに

書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)-新しい考え方を普及させるためには必要なことは何だろうか
・・「新しい思想を受容するに際しては、受容する側にその思想を理解するための回路を作らなければならないのだが、その際には従来からの思考の枠組みとコトバが多く利用される」

書評 『新月の夜も十字架は輝く-中東のキリスト教徒-』(菅瀬晶子、NIHUプログラムイスラーム地域研究=監修、山川出版社、2010) 
・・アラブ・ナショナリズムにつながるアラビア語復興運動は、聖書をアラビア語に翻訳する事業に携わったアラブ人キリスト教徒が指導的役割を果たした事実は、ルターによる聖書のドイツ語訳とのアナロジーを思わせるものがある


■ローカリゼーション(現地化)

書評 『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか-世界で売れる商品の異文化対応力-』(安西洋之、中林鉄太郎、日経BP社、2011)-日本製品とサービスを海外市場で売るために必要な考え方とは?

なぜ「経営現地化」が必要か?-欧米の多国籍企業の歴史に学ぶ




イエズス会とカトリック

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
・・「クアトロ・ラガッツィ」とはイタリア語で「遣欧少年使節」の4人のこと。第一次グローバリゼーション時代の異文化との出会いと葛藤を描いた大作

「泥酔文化圏」日本!-ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』で知る、昔から変わらぬ日本人
・・イエズス会士のフロイスは日本布教の記録である『日本誌』を編纂

カラダで覚えるということ-「型」の習得は創造プロセスの第一フェーズである
・・イエズス会の創始者・聖イグナティウス・ロヨラの『霊操』(スピリチュアル・エクササイズ)についても触れている

「マリーアントワネットと東洋の貴婦人-キリスト教文化をつうじた東西の出会い-」(東洋文庫ミュージアム)にいってきた-カトリック殉教劇における細川ガラシャ

書評 『神父と頭蓋骨-北京原人を発見した「異端者」と進化論の発展-』(アミール・アクゼル、林 大訳、早川書房、2010)-科学と信仰の両立をを生涯かけて追求した、科学者でかつイエズス会士の生涯

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5) ・・フランシスコ会の始祖フランチェスコ

書評 『バチカン近現代史-ローマ教皇たちの「近代」との格闘-』(松本佐保、中公新書、2013)-「近代」がすでに終わっている現在、あらためてバチカン生き残りの意味を考える

(2014年2月5日 情報追加)




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2009年6月9日火曜日

台湾メーカーのミニノート購入



 本日、秋葉原でミニノートを購入した。

 以前使っていたノートブックコンピュータは Panasonic の Let's Note だったが、会社からの貸与品だったので退社と同時に返却、現在はデスクトップのみ使用している。
 モバイル使用を考えるとノートは必要だ。 Let's Note は実に使い勝手の良いノートでたいへん気に入っていたが、個人で購入するには正直言って安くはない。
 そこで、いまはやりのミニノートを考えてみた、というわけだ。
 通信とインターネットさえできれば、それで十分なので。

 日本メーカも各種製品出している。たとえば、ソニーの Vaio はモニターが小さすぎる、東芝の Dynabook のミニノートがよさそうだが値段がやや高い、など難点がやや多い。
 そこで台湾メーカーを考えてみることにした。同じスペックなら、ブランドにカネをかけてないだけ、コストパフォーマンスはよい。
 Acer の Aspire One を考えていたが、キーボードの使いやすさを考えて、最終的に同じ台湾メーカーの ASUStek社の eee PC に最終決定した。
 モデルは、N10Jc 、色は3色から選んでシルバー、デザイン的にもなかなかよい。OSは Windows XP、メモリーは1GB、スペック的には、これだけあれば問題ない。

 MS Office 付きで、定価 57,800円を、無線プロバイダーを docomo で契約すると3万円引きになるというので、FOMAカード入れても、ハードそのものは3万円以下に抑えることができた。
 なんだか初期の携帯電話の販売モデルのようだが・・・まあ、いずれにせよ無線プロバイダーの設定をしないといけないので、docomo のしばりが2年間あるが損にはならないだろう。
 MS Office のライセンス期間も2年限定だが、どうせHDDが2年もたないので、パソコン本体も2年使うことはないだろう。
 今後、出先でブログ更新も考えてみたい。

 なお、製造は Made in China (上海)である。台湾メーカーの中国製造というパターンは、思ったより結構多そうだ。台湾も中国抜きではビジネスが成り立たないのだ。中国投資で抜き差しならない状況になってしまっている。
 製品ブランド力からいえば日本製のほうが上だが、機能さえ満足であれば台湾メーカーであってもまったく問題ない。

 パソコンはすでに完全にコモデティ製品と化している。
 世の中の大半の製品は、部品さえ集めればモジュールとしてそれを組み立てることが可能である。あとはデザインやサービス、ブランドなどの非製造的要素だが、これだけではもはや差別化は難しくなってきている。
 『ガラパゴス化する日本の製造業-産業構造を破壊するアジア企業の脅威-』(宮崎智彦、東洋経済新報社、2008)というビジネス書があるが、とくにエレクトロニクス分野では、いわゆる「モジュール化」が完全に浸透しており、日本メーカーが勝ち抜くのは至難のワザになってきている。
 「すり合わせ」型製造が必要な自動車分野も、電気自動車が主流になると、優位性を保つことが難しい。部品点数も大幅に削減される。
 
 環境的には喜ばしいが、製造業は従来の考え型の延長線上ではもはや不可能と考えるべきだろう。

 15年前にアメリカに住んできたとき、アメリカの消費者は、燃費がいいし、再販価格(resale value)が高いので日本車が人気があった。最初は驚きを感じた。だが、日本を非難してもクルマは日本車という人が多かったことに、不思議さを感じないようになっていった。
 純粋に経済的な観点にたてば、消費者は製造物の国籍にはこだわらないものである。これは日本人でも同じことだろう。
 もちろん、食料品など別だが、それでも安全性さえ確保できれば、価格の安い中国産に再びシフトすることは間違いない。

 ビジネスの側からみれば、「パラダイム・チェンジ」としかいいようがない。この点にかんしては、「500年単位」どころか、「ドッグ・イヤー」の変化を考えなければならない、のだ。
                         





  

2009年6月8日月曜日

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む


 美術史家・若桑みどりの畢生の大作、『クアトロ・ラガッツィ-天正少年使節と世界帝国- 上下』(集英社文庫、2008、原著2003)を読了した。

 文庫本1,000ページを超えるこの大著を読み終えて思うのは、グローバル社会の中に生きざるをえない現在の日本人にとって、少なくともモノを考える日本人にとっての必読書だ、ということだ。

 自分自身を戦国時代末期の中に身を置いて考えることができれば--それは決して信長や、秀吉や、家康といった存在ではなく、その時代に生きたごくごく普通の人として自分を想定してみれば--それがよく理解できるはずである。

 クアトロ・ラガッツィ(Quatro ragazzi)とは、イタリア語で「4人の少年」という意味だ。戦国時代の末期の1582年、九州のキリシタン大名3人がローマ教皇庁に派遣した日本人少年たち4人、すなわち伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ、のことである。

 この本は、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸した1549年から、キリスト教が禁圧され少年使節最後の一人である中浦ジュリアン司祭が処刑された1633年までの約80年間、戦国時代末期から徳川時代初期までのいわゆる「キリシタンの時代」、すなわち日本がグローバル・プレイヤーとして、その当時ポルトガルとスペインが主導した西洋発の第一次グローバリゼーションの波の中で、西洋列強と対等に相対して振舞っていた時代を扱っている。

 著者の視点は、日本と西洋の両方にまたがっている。

 著者自身もいうように、この両者の視点から歴史叙述した例は、日本でも西洋でもないと思われる。日本史家は西洋史に暗く、西洋人の研究者はあくまでも自分たちを上に見ての歴史記述になりがちである。
 美術史家としてルネサンス美術を専攻してきた著者にとっては、専門分野での研究成果をフルに活用することができ、かつ西洋人ではなく日本人であるという実存から、西洋も日本も同じ視点にたって見ることができる。そしてまた、男性ではなく女性であることから、戦国時代ものにはよくありがちな支配者の側にたった歴史記述でもない。
 ところどころに著者の主観的感想を交えるスタイルが好感がもてるのは、史実に関しては、直接バチカンの文書館で原資料を博捜した上で、日本側の資料とも突き合わて、厳密な資料操作を行っているからである。

 登場人物は少年使節だけではない。

 プロジェクトの立案者にして推進者のイエズス会巡察師アッレッサンドロ・ヴァリリャーノ、そして彼をを取り巻く日本サイド、西洋サイドの諸々の登場人物。
 上は、信長・秀吉・家康を頂点とする戦国大名たち、そしてまたローマ教皇グレゴリウス13世にハプスブルク家出身のスペイン国王(ポルトガル国王兼任)フェリペ2世。
 下は、戦国末期の過酷な状況におかれていた名もなき日本の一般庶民たち。
 いつ殺されるかわからない時代に生きていたのは大名たちだけでなく、一般庶民もまた同じ状況にいた。
 現世があまりにも過酷であれば願うのは死後の救済のみである。
 平安時代末期の熱烈な浄土信仰が希求された時代より、はるかに深刻な状況であったであろう戦国時代末期に、熱烈なキリシタン信仰が燎原の火の如く爆発的に拡まったのは不思議でもなんでもない。
 限りなく一神教に近づいていた一向宗(=浄土真宗)と、一神教のキリスト教が、過酷な時代の一般庶民をめぐる「魂の争奪戦」を行っていた、と考えるべきなのだ。前者の一向宗は城砦化した石山本願寺に立てこもり、信長とは11年間にわたって激しい戦いをくり続けた。
 西洋と同時代の日本もまた、「宗教戦争」の時代であった。

 「少年使節」プロジェクトの趣旨は、第一に資金援助を請うこと、二番目には日本人の能力の高さを実際にヨーロッパ社会に知らしめること、であったという。
 ヴァリリャーノなくしては、「少年使節」プロジェクトはありえなかったことは重要だ。
 彼は西洋で発展したキリスト教を、異なる高度文明をもつ日本や中国に布教するためには、異文化を徹底的に理解した上で、その文化に適応した形で移植していくことが必要だと主張している。この考えに基づき、日本では当時の日本の布教責任者を更迭し、中国にはマッテーオ・リッチを送り込んでいる。
 この考えは現在、「インカルチュレーション」(inculturation)と呼ばれるメソッドとしてイエズス会では定着しているそうだが、実に300年早すぎた考えだったようである。
 国際マーケティング論としてはずば抜けた思考であるが、長くなりすぎるので、これについてはあらためて別の機会に。

 私も、大学時代に歴史学、しかも西洋社会史を専攻していることもあり、ずっと日本人=アジア人である自分が、なぜ西洋の学問を勉強するのか、実存そのものにかかわる問題として自問自答を続けてきた。西洋文明、とくに芸術文化に大きく魅了されてきたが、自分は西洋人ではない。「名誉白人」として扱ってほしいなど毛頭も思わない。
 しかし現実のアジアは、まだまだソフィストケートされているとは言い難く、自分自身アジア人でありながら、アジアの文化レベルの低いことをやり玉に挙げている自分をいまだに見出す・・・
 東洋文明の精神性をいかに称揚しようと、西洋の学問を習得し、西洋文明の枠組みの中にいるのは、日本人はいうまでもなく、その他近代アジアでもエリート層はみな同様である。16世紀に西洋と全面的にかかわりながら、そこから逃避して引きこもってしまった日本と日本人は・・・
 地政学的な状況、その他政治経済の状況と国際情勢を冷静に考えれば、他のアジア諸国のように植民地化されたかというとそれはなかっただろうと思われる。しかし、鎖国したことのない貿易立国サヤーム(=タイ)王国を考えると、また違う思考も必要になる。文明度の違いといってしまっていいのかどうか。 
 アユタヤ王朝のナレスアン王に仕えた日本人傭兵部隊の長、山田長政は、関ヶ原の役の生き残り武士であった。

 ポルトガルとスペインが主導した「大航海時代」は、実はイタリアのジェノヴァ商人とユダヤ商人が背景では主導権を握っていた大規模な投機経済であり、これが第一次グローバリゼーションの波として、米国の文明史家エマニュエル・ウォーラスティンのいう「世界システム」を形成した。
 日本ではヴェネツィア共和国については塩野七生の『海の都の物語』でよく知られているが、同じイタリアのジェノヴァ共和国についてもっと知らねばならない。コロンブス自身、ジェノヴァ人であった事実。
 ちなみに経済史的に見れば、日本の12年以上にわたって続く2.0%以下の低金利は、ジェノヴァの11年間(1611-1621)にわたった「利子率革命」を更新しており、エコノミストの水野和夫は「21世紀の利子率革命」と名づけるべきで、社会経済の激変期がある程度収束に向かうまで少なくとも20年は続く、といっている。

 日本とジェノヴァ、奇妙な暗合ではないか。ここにも「500年単位」の歴史が顔を出す。

 ポルトガルとスペインにとってかわったオランダと英国が、覇権争いの末に英国が勝利を収め、海洋帝国としてのグローバル・ネットワーク(=大英帝国)を築き上げたそのさなかに、徳川幕府は自由貿易体制を否定し、実質的な管理貿易体制である「鎖国」という選択肢を採用、日本を「世界システム」にとっての「外部世界」の位置に置き、世界の趨勢はオランダ風説書をとおして為政者のみがこれを知る、という徹底した情報統制を完成した。
 秀吉はキリスト教信仰は軍事力をもつ大名には禁じたが、一般庶民には黙認していたらしい。しかし家康は個人の思想信条に対する完全な「思想統制」を実行した。個人の内面にまで踏み込んだ統制を行っていたのである。
 著者はふれていないが、キリスト教だけでなく、日蓮宗の不受不施派や隠れ念仏なども徹底的に弾圧されたのである。

 こう考えていくと、 「少年使節」の悲劇は、日本人にとっての悲劇であった、という著者の表現も納得がいく。

 たとえ江戸時代の日本人が「パックス・トクガワーナ」(Pax Tokugawana)といわれる天下泰平を享受したとしても、個人の人格や人権といった普遍的な価値観が、日本内部から内発的に発生することはなかったであろうことは否定はできない。いや芽を摘まれた、というのが正確な表現だろう。
 19世紀半ばに再び全面的に開国して「JAPAN再デビュー」したとき、その時の日本人は16世紀の日本人とは異なり、西洋世界と対等にたっていると思うことはできなかった。すでに出来上がった世界である西洋世界に劣等感を抱き、ひたすら追い付追い越せというマインドセットにとらわれていたことは、昨日紹介したNHKの番組にみるとおりだ。
 19世紀、英国主導のグローバリゼーションの中でもがき苦しんだ末に自滅させられた日本を考えると、たしかに明治時代の先人は頑張ったが、日本の17世紀の選択が正しかったのかどうか・・・と思わざるをえない。歴史的想像力を駆け巡らせることが必要である。

 「この世紀(=21世紀)は、16世紀にはじまる、世界を支配する欧米の強大な力と、これと拮抗する異なった宗教と文化の抗争が最終局面を迎える世紀になるだろう。人類は異なった文化のあいだの平和共存の叡智を見いだすことができるだろか。それとも争い続けるのだろうか? それこそはこの本の真のテーマなのである。
 この500年を回顧することは、世界のなかでも日本のあり方を示してくれるかもしれない。私たちはいま500年単位で歴史を考えるときがきている・・・」(P.18-19)

 著者の問題意識が、「500年単位」の歴史にあること、これは非常に重要であると思う。
 
 著者は言及していないが、実は日本史だけを見ても「500年単位」で見たほうが正しい。これはすでに大正10年(1915年)、中国史家の内藤湖南が一般向けの講演「応仁の乱について」で指摘していることである。中国史の豊富な事実をもとに、日本史についても面白い指摘をしている。
 応仁の乱(1467-1477)について内藤湖南は、本質は下剋上による価値観の根本的変換であるとして、次のようにいっている:

 「とにかく応仁の乱というものは、日本の歴史にとってよほど大切な時代であるということだけは間違いないことであります。・・(中略)・・大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆ど(ほとんど)ありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらにしか感じられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります。(後略)」(出典:『日本文化史研究(下)』、講談社学術文庫、P.61-64)。

 
 応仁の乱以降の100年間は戦国時代であり、この戦国時代の末期の1543年に鉄砲伝来、1549年にキリスト教伝来があった。つまり、日本と西洋はパラレルな関係にあり、ちょうどこの時期に日本は西洋主導の「世界システム」に巻き込まれたといえる。そして、戦国時代の終焉とともに、日本は「世界システム」からの離脱によって、統一日本を維持発展させる道を選択した。政治的選択としてはすぐれた意志決定であったとはいえる。
 ただ、「500年単位」の歴史をどの時点を始点に考えるか、議論はいろいろ分かれることと思う。
 また、出典は忘れたが、民俗学者の柳田國男も、日本人の生活習慣は室町時代、とくに応仁の乱以降に形成され今日にいたる、と述べている。
 
 もちろん、内藤湖南の発言も、柳田國男の発言も、いずれも1960年代以降の高度成長以前になされたものである。両者ともに、高度成長期以降の日本社会の急激な変動を目撃していない。
 経済史家の見解をみると、1960年代以降の高度成長時代に、農業人口が激減したことによって、明治維新や第二次世界大戦の敗戦といった激動期でもなかった大きな変化が日本人の生活習慣に現われており、流通システムなど江戸時代に完成した様々な社会システムが崩壊を始めたことを指摘している。
 つまり、応仁の乱(1467年)に始った「500年単位」の歴史は、すでに1960年代には終わり、あらたな「500年単位」の歴史に入っていると、少なくとも日本についてはいえるだろう。

 私がかつて自分のウェブサイトにこう書いたのも、それを踏まえての発言なのである。

 つれづれなるままに(2001年1月1日
 あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。
 すでに「戦国時代」に突入して25年(高度成長開始からすでに「戦国時代」と考えるべきです)、価値観もすべて500年に1回の大混乱の最中ですが(いずれ数十年後には落ち着くことでしょう)、こういう時代の大転換期はとにかく、どんな形であれ、生き続けることが重要です。
 惑わされることなく、粛々と生きていきましょう(2001年1月1日)。


 若桑みどりは言及していないが、日本はただ単に「世界システム」に巻き込まれたのではないという見方も可能である。
 梅棹忠夫の「生態史観」でみれば、ユーラシア大陸をはさんで両岸にある日本と西洋は、その発展がパラレルなものであり、これは厳密な歴史学用語としての「封建制」(feudalism)が存在したのが、日本と西欧だけである(!)ことからも説明される。
 ほぼ同時期に(!)、西欧では宗教改革と絶対王政への道という近代へむけての激動期に入り、日本では応仁の乱から始まった激動が戦国時代を経て国家一統にまで至っていた。
 互いにまったく関係なく(mutually independent)、ほぼ同時に社会変動を経験しているのである。これは広い意味でのシンクロニシティ(共時性)といえるかもしれない。

 しかし梅棹忠夫の『文明の生態史観』(中公文庫、1974、原著1966)は、西洋側からは正当に評価されていないらしい。日本が西洋と同じはずであるわけがない、と西洋人は意識の底では思っているようだ。
 いまだに西洋人は自分たちのことを日本人を含めたアジア人より上に置いており、また日本人がそれに真っ向から反論しなければならないことは、松原秀子の『驕れる白人と闘うための日本近代史』(田中敏訳、文藝春秋、2005 原著はドイツ語)という本の 序章を読めば明らかである。ドイツのTV番組で自説を主張した著者は、翌日TV番組をみたという女性から街頭でいきなり平手打ちをくった、という。はからずも西洋人の意識の心底にあるものが露呈した一瞬であった。
 その意味では、梅棹忠夫や若桑みどりのような歴史の捉え方は、西洋では存在しにくいのかもしれない。

 織田信長は比叡山焼き討ち、一向一揆を打ち破って浄土真宗を屈服させ、一方キリスト教を優遇してバランシング・パワーとして既存宗教の牽制を行った。
 秀吉は旧来の神仏勢力と結びつくことによって権力基盤を強化、これを継承した家康は、秀吉をさらに徹底、完全な思想統制に基づく宗教政策により「世俗化」への道筋をつける・・・
 こう考えると日本は世界にさきがけて「世俗化」した社会を作り出した、ともいえるのであり、少なくとも宗教に足をからまえれて経済発展ができなかった、ということは経験せずに済んだといえる。
 江戸時代、キリシタン禁止のために導入された「五人組制度」などの相互監視制度は「世間」という形で現代に生き残り、日本人を無意識にしばり続けている。

 いやはや歴史解釈は難しい。
 現在から過去を再構成する以上、著者自身の価値観、現代への関心に大きく引きずられるのは仕方がないことだ。
 しかしながら、「500年単位」の歴史で考えなくてはならない。
 次の500年がどうなるのかは、その渦中にいるだけに、容易に想像しがたいのだが・・・

              

<付記>
 2009年8月11日に文章全体に手を入れて、論旨がより明瞭になるための修正を加えました。

     



<関連記事>

Europe, the International System and a Generational Shift(George Friedman, STRATFOR, November 8, 2011)
・・ジョージ・フリードマンもまた、1500年から1991年を500年単位と捉えている。(2011年11月15日 追加)



<ブログ内関連記事>

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)

イエズス会士ヴァリニャーノの布教戦略-異文化への「創造的適応」

「泥酔文化圏」日本!-ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』で知る、昔から変わらぬ日本人

フィリピンのバロック教会建築は「世界遺産」-フィリピンはスペイン植民地ネットワークにおけるアジア拠点であった
・・キリシタン大名の高山右近は追放先のマニラで病死

「マリーアントワネットと東洋の貴婦人-キリスト教文化をつうじた東西の出会い-」(東洋文庫ミュージアム)にいってきた-カトリック殉教劇における細川ガラシャ
・・欧州のバロック劇の主人公となっていた細川ガラシャ

映画 『アバター』(AVATAR)は、技術面のアカデミー賞3部門受賞だけでいいのだろうか?
・・中南米の原住民インディオとオーバーラップするアバターたち

書評 『100年予測-世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-』(ジョージ・フリードマン、櫻井祐子訳、早川書房、2009)   
                  
書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!

書評 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子、田中敏訳、文春文庫、2008 単行本初版 2005)-ドイツ人読者にむけて書かれた日本近代史は日本人にとっても有益な内容

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・抜書きしておいた「日本におけるキリスト教の不振」にはぜひ目を通していただきたい。文化人類学者・泉靖一氏の見解に説得力がある

(2015年6月12日、2016年2月12日 情報追加)




(2012年7月3日発売の拙著です)









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